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-支那の道徳史観から脱却した皇道史観の近代性-【GHQ焚書図書開封 第142回】

2021-02-08 22:38:26 | 近現代史

【GHQ焚書図書開封 第142回】

-支那の道徳史観から脱却した皇道史観の近代性-

水戸學中興の祖、若き天才の藤田幽谷(1774-1826年)。六代藩主文公(水戸治保)は、田沼意次の跡を継いだ老中松平定信の要請により、幕閣候補として藤田幽谷を推薦した。
時は、徳川太平の時代(第11代将軍徳川家斉)であり、防衛の危機感をもっていたのはわずかに林子平ぐらいなもので、幕府、一般庶民に至るまで、当時の人々は太平の夢にうつつを抜かしていたのである。

そんな時代に、幽谷は老中松平定信に対して、「足下には此度将軍のご家来中である最も責任ある位置に就き、将軍を助けて政治に当たられるそうであるが、将軍はどこまでも将軍であるべく、断じて王となられてはなりませぬぞ、何故かというに、天に二日があってはならぬように、地に二王があってはならぬからであります。このことは余程慎まなければなりませぬぞ」と自論を述べた。
幕府を刺激する幽谷の万世一系の天皇の尊皇思想は、到底受け入れられる環境ではなく、永久に幕閣に迎え入れられることはなかった。

光圀は、水戸家の家訓として「今後、幕府と天皇が対立することがあれば、水戸家は京都(天皇)に味方する」と、常日頃言っていたように、平時は尊皇敬幕論者で、有事は尊皇排覇論者に変わる思想の持主であった。大義滅親(天皇は君主、将軍は我が宗家)

 幽谷は、現代日本の首相のブレ-ンと言われる知識人、言論人のように、官房長官のごとく政治意見を述べ決断に関与するのではなく、何をすべきかという意見を述べる程度に留める態度を貫いた。揺るぎのない思想が第一であり、それが政治にいかされることを望んだのである。

近代化に必要な個人主義が生まれるためにはキリスト教のような超越した神の存在が不可欠であったが、日本には、幸いにして超越した皇統の歴史を信仰する風土があった。それが、超越した神のような存在がなく、近代化が遅れた支那、朝鮮と大きく違うところであり、かつ柔軟性のあるところであった。

 支那の朱子学から離脱し、伊藤仁斎、荻生徂徠らによる日本の特性、特徴を生かした国学の勃興。

その後、国学は、伊藤仁斎、荻生徂徠らの古い中国の言葉にだけに限定して勉強すべきとの考え方から、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らの古い日本の言霊に耳を傾け、そこを発掘し、そこに精神の泉を見出そうとする考え方に移っていった。

 支那の皇帝の歴史観は人物中心、道徳本位だが、日本の皇室の歴史は近代的歴史観に近い制度中心の歴史観であり、それを純化し、組織化し、体系化、離隔化するのが水戸學の中心テーマとなった。その先鞭をつけたのが、幽谷の「正名論」であった。そして、「大日本史」の題号問題を巡って立原翠軒と対立することになった。

 今日問題となっている日本史でなく国史、日本語でなく国語が正しいという意見の違いのようなものである。

 参考文献:「水戸學要義」深作安文 「水戸學講話」高須芳次郎

 

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-幕府大老に堂々と忠言した十八歳の藤田幽谷-【GHQ焚書図書開封 第141回】

2021-02-06 08:57:49 | 近現代史

【GHQ焚書図書開封 第141回】

-幕府大老に堂々と忠言した十八歳の藤田幽谷-

古着商の息子として生まれた藤田幽谷が、後に遥に武士、学者達を凌いで水戸學中興の師と仰がれるにいたったのには、彼の非凡なる資質と不撓の研鑽があった。

 天才幽谷は、10歳で読書に熱中し、青木侃斎に師事し、数カ月で四書五経の読み方だけは卒業した、11歳で漢詩をつくり、13歳で大人を凌ぐ漢文を作った。彰考館の館長立原翠軒の門下生へと進み、志学論、安民論、正名論(せいめいろん)、建元論を発表した。

18歳の頃、白河楽翁(松平定信)が幽谷を幕府で採用しようとしたが、正名論で君臣の大義を明らかにし、幕府の厚意に酬いたものの、賎覇の意を示した点があり、不採用となった。

これが、幽谷の運命の分かれ道でもあった。

その後、文公に建白書を出し、藩政に口出しし、改革をせまるも、過激な発言のため小石川彰考館から水戸へ戻された。

 幽谷が、このような行動がとれた背景には、天皇が幕府よりも上という信仰、天皇は絶対者であるという信仰があったためである。幕府は世間、世間を超えたものが天皇であるとの確信があったのである。

 凡そ名分というものは、天下国家にあっては厳正でなければならぬこと。 丁度、天と地を変えることの不可能なるがごとくである。 天は物を覆い、地は物を載せ、天は高く、地は低い。これと等しく君は尊くおはし、臣は位が卑しいのである。この君臣があって上下があり、上下があって礼儀の落ち着くところがある。これに反して、君臣の名が正しくなく、今日の君は、明日は臣となり、今日の臣は明日は君となると言う風であれば、上下の分は厳正でなくして尊きものと賎しきものと、その位を変え、貴きものが賎しくなり、賎しいものが尊くなり、強いものは弱いものを凌ぎ、多数者は多数を恃んで少数者を襲うであろう、そうなれば、日ならずして国は亡んでしまう外はないというのである。

 水戸家や幽谷は尊皇敬幕であったが、上下関係においては、将軍は天下国家を治める位置にあるのであって、上には天皇を奉戴し、下には諸侯を率いておる。これは覇者の行いであって、断じて王と称してはならないという考えであった。

 参考文献「藤田幽谷の人物と思想」松原晃 「水戸學講話」高須芳次郎 「水戸學要義」深作安文
2017/7/19公開

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-前期水戸學の主張-【GHQ焚書図書開封 第140回】

2021-02-01 03:42:50 | 近現代史

-【GHQ焚書図書開封 第140回】

-前期水戸學の主張-

光圀は、肇国の当初、天照大神が皇孫に与えた三種の神器を保有している南朝を正統、保有していない北朝を閏統とした。

 列伝には、皇妃列伝、皇子列伝、皇女列伝、群臣列伝(藤原鎌足、和気清麻呂、大伴家持、菅原道真、平重盛、藤原藤房、藤原師賢、源親房、同顯家、同顯信、同顯能、楠木正成、同正行、名和長年、兒島高徳、菊池武光、同武時、結城宗廣、新田義貞など)があり、その下に将軍列伝(源頼朝、足利尊氏など)が位置していた。

 家臣列伝には、北条時政、同義時、同泰時、同時頼、同時宗、大江広元などが該当していた。その他に孝子列伝、義烈列伝がある。

 江戸時代朝鮮通信使が日本に支那の漢文、儒学を教えたが、ある時期から朝鮮通信使が驚くほど日本はナショナリズムが勃興し、近代化し始めた。その当時、朝鮮通信使は、オランダ人、支那人以上に厚遇されていた。

 林羅山は、幕府と朝廷と言ったり、将軍への襲職を即位と言ったり、家康のことを「吾日本国主源_家康」と外交文書に書く等何ら尊王の念を持っていなかった。

 勧懲主義の光圀は、大義名分を重んじて、乱臣賊子を戦慄させた。今日、大義名分に照らせば、天皇は男系長子相続である。

 南朝正統論者であった光圀であったが、後に北朝の明治天皇は南朝の忠義を良しとし、光圀に対して正一位の最高の位を与えている。

 前期水戸學では、孔子の神話否定の影響を受け、古事記の神話は歴史として扱わなかったが、後期水戸學では神話的歴史観を取り入れている。

 林家の本朝通鑑では、天皇は「呉の種」などと述べているため、尊王思想の光圀は大変立腹した。

 御三家の中で水戸藩は尾張、紀州の1/2の28万石だったことから、御三家として同等の付き合いを維持するため、殖産に力を入れるなど大変苦心した。

 参考文献:「水戸學要義」深作安文、「藤田幽谷の人物と思想」松原晃、「訳文 大日本史」山路愛山
2017/7/5公開

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