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日常生活の中で思ったこと、感じたことを気の向くままに書き綴っています。

-太平洋上のフランスの暴虐-(GHQ焚書図書開封 第5回)

2017-01-26 21:24:00 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第5回

-太平洋上のフランスの暴虐-
 自分のことは棚において、敗戦国日本に対する優越感をもっていたい旧戦勝国、時にはドイツまで加担し、日本を非難する。欧米の新聞は、日本側の正当な反論を掲載しない。南太平洋には、いまでもフランスは植民地を持っている。フランス本土の囚人を送り込んだニューカレドニア。フランスが持ち込んだアルコールと病気でニューカレドニア先住民は8年間に5万人から1.8万人に減少。ニッケル以外主要生産物がなく経済的に自立できないため現在でも植民地のまま。南太平洋諸島で199回の原爆実験を行ったフランス。原爆実験による重症患者は、タヒチ、フランス本土の病院に送られ、遺体は返還されなかった。証拠隠滅のため、実験について文句を言ったり、口外した人を職場から追い出し、生活できないようにした。小国となってしまった現在でも、外交の力で背筋をピンと伸ばす大国意識の強いフランス。植民地解放と人種差別撤廃を願って起こした大東亜戦争に対し、いつまで、日本は悪者扱いにされなければならないのだろうか?大東亜戦争戦争以前の日本の領土(千島、南樺太、朝鮮、台湾)まで奪取され忍従している日本政府。


キーワード:ゴーリズム、従軍慰安婦の嘘
関連文献:『佛蘭西植民地』カルル・ヘーネル、『GHQ焚書図書開封2 第七章 363~371/709P 373~401/709P』西尾幹二


【帝国政府声明文】口語訳
昭和16年12月8日午後0時20分発表

このたび宣戦布告が発せられました。そこで大日本帝国として、国の内外に声明を発表します。
 東アジアの安定を確保し、世界平和に貢献するのは、日本の不動の国是です。そのために日本は列国と友誼を厚くしてきました。国是を完遂することこそ、日本国の外交の要(かなめ)です。
 ところが蒋介石率いる重慶政府は、我が日本の真意を理解せず、いたずらに外国の力をたのんで、日本に敵対し、この結果、支那事変が起きましたが、天皇陛下の御威光の下、日本軍の向かうところに敵はありません。支那の重要地点は、いまやことごとく日本軍の手に帰しています。さらに日本と思いを同じくする人々と、南京に国民政府が生まれ、いまや南京政府と日本は、良好な隣国としての諠(よしみ)を結ぶに至っています。また、その南京政府を国家政府として承認する国も、すでに11カ国に及んでおり、いまやこれに敵対する重慶政府は、支那の奥地に残存して無益の交戦を続けているだけの状態となっています。
 こうしてようやく支那に平和が戻ろうとしている情況ができつつあるのに、米英が日本を含む東アジア諸国を未来永劫植民地として隷属させようとする態度を改めていません。米英両国は、さまざまな奸計を用いて支那事変の終結を妨害し、更にオランダをそそのかし、フランスに脅威を与え、日本とタイ国との親交までも裂こうとして策動しています。その動きは、日本とこれら東アジアの南方諸国との間に共存共栄の関係を築こうとする、ごくあたりまえな民衆の欲求を阻害し、東アジアの民衆に永遠に「安らかな日」を与えようとしないものです。
 こうした米英両国の動きは、日本を敵視し、日本に対して計画的に攻撃を実施しつつあるものです。そしてついに彼らは、無道にも「経済断交」という暴挙を打ち出してきました。
およそ交戦関係にない国家間において「経済断交」というのは、武力による挑戦に匹敵する敵対行為といえます。国家として黙視できるようなものではありません。しかも米英両国は、さらに他の国々を誘い込んで、日本の四方で武力を増強し、日本の自立に重大な脅威を与えつつあります。
 上に述べたよう米英が日本の存立と東アジア諸国の安定に対して重大な脅威を与えてきているにもかかわらず、日本国政府はこれまで、太平洋の平和を維持し、全人類に戦禍の波及することがないよう堪忍自重し、米国と外交交渉を重ね、背後にいる英国並びに米英両国に附和する諸国に反省を求め、日本の生存と権威の許す限り、互譲の精神をもって事態の平和的解決に努めてきました。つくすべき手をつくし、為すべきことを為しつくしてきたのです。
けれど米国はいたずらに架空の原則を弄して東アジア諸国の現実を認めず、日本の真の国力を悟ろうともせず、物量だのみで武力による脅威を増大させ、日本を屈従させようとし続けました。
 日本は、平和的手段で米国ならびにその他の国に対する関係を調整し、ともに手をたずさえて太平洋の平和を維持しようとする希望と方途を全く失うことになってしまったのです。こうして東アジアの安定と帝国の存立とは、まさに危機状態に瀕することになりました。そしてことここに至って、ついに米国及び英国に対し宣戦の詔勅が発せられたのです。詔勅を承り、まことに恐懼感激に堪えないものがあります。私たち帝国臣民一億人は、きわめて強固な団結で決起し、勇み立ち心を躍らせ、国家の総力を挙げて戦い、もって東アジアの禍根を永久に排除し、天皇陛下の考えに応えるべきときとなりました。
 思うに、世界各国が各々その所を得るべしという詔勅は、「世界各国にあるさまざまな民族は、肌の色も違えば民族の伝統や文化もそれぞれ異なるけれど、その異なる文化を持つもの同士が、対立したり、片方が片方を隷属させたりするのではなく、互いに互いを尊重しあい、それぞれの民族がそれぞれの伝統や文化を守り、それぞれの国を守り、生きる。現代社会では、あたりまえの現実となっているその事が、まるであたりまえではなかった時代に、日本はこれを現実にしようと立ち上がったのです。なぜなら、私たち日本人にとって、それはあたかも太陽と星がこの世にあるのと同じくらいあたりまえのことだったからです。炳(へい)として日星の如し。とは、そういう意味です。(人種の平等と東アジア諸国の独立を謳っている)
 日本が日満華三国の提携によって共栄の実を挙げ、進んで東亜諸国の興隆の基礎を築こうとしてきた方針は、もとより変るものではありません。また日本は、志を同じくするドイツ、イタリア両国と盟約し、世界平和の基調を糾(ただ)し、新秩序の建設に邁進する決意をますます牢固にしています。
 このたび日本は、南方諸地域に対して、やむを得ず新たに行動を起こすことになりましたが、何等そのアジア地域の住民たちに対して敵意を持つものではありません。
ただ米英をアジアから追い出し、植民地になる前のアジアに戻すため、手を携(たずさ)えて共栄の楽をわかちあおうと祈念するものにほかなりません。互いに手をとりあって、共に栄える楽しみを分かちあうことを願い、達成しようとしているのです。日本は、これらアジア地域の住民が、日本の真意を了解し、日本とともに、アジアの新天地の新たな発足を期していただけることを信じて疑いません。(大東亜戦争の戦争目的を謳っている)

 今や日本の栄衰と東アジアの興廃は、この一挙にかかることとなりました。(今や皇国の隆替、東亜の興廃は此の一挙に懸かれり)全国民は、このたびの戦いの原因と使命に深く思いをはせてください。
 そして、どんなときにもけっして驕ることなく、また怠ることなく、よく尽くし、よく耐え、それによって私たちの祖先の教えを称えて広く世間に知らしめ、困難にあったら必ず国家興隆の基を築いた私たちの祖先の輝かしい歴史と業績を思い、内容が計り知れないほど奥深く、力強く、淀みのない天皇陛下の統治計画を思い、万事(全て)に手抜かり・手落ちがないように心に誓い、進んで征戦の目的を完遂し、もって天皇陛下の御心を永遠にありのままに受け入れ、最善をつくして努力することを約束します。
参考文献: 国立公文書館 アジア歴史資料センター
・レファレンスコード:C12120377700
 件 名:昭和16年12月8日 帝国政府声明 (1画像目から)
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C12120377700?IS_KIND=RefSummary&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=d2&IS_KEY_S1=C12120377700

引用元:安濃豊氏のブログ帝国政府声明文「戦勝国は日本だった」、ブログ「ねずさんのひとりごと」、Karion168のブログ(Karionつぶやき)


【帝國政府聲明】原文
昭和16年12月8日午後0時20分
大日本帝国政府発表

恭しく宣戦の大勅を奉載し、茲に中外に宣明す。
抑々東亜の安定を確保し、世界平和に貢献するは、帝国不動の国是にして、列国との友誼を敦くし此の国是の完遂を図るは、帝国が以て国交の要義と為す所なり。
然るに殊に中華民国は、我が真意を解せず、徒に外力を恃んで、帝国に挑戦し来たり、支那事変の発生をみるに至りたるが、御稜威(みいつ)の下、皇軍の向ふ所敵なく、既に支那は、重要地点悉く我が手に帰し、同憂具眼の十国民政府を更新して帝国はこれと善隣の諠を結び、友好列国の国民政府を承認するもの已に十一カ国の多きに及び、今や重慶政権は、奥地に残存して無益の交戦を続くるにすぎず。
然れども米英両国は東亜を永久に隷属的地位に置かんとする頑迷なる態度を改むるを欲せず、百方支那事変の終結を妨害し、更に蘭印を使嗾(しそう)し、佛印を脅威し、帝国と泰国との親交を裂かむがため、策動いたらざるなし。乃ち帝国と之等南方諸邦との間に共栄の関係を増進せむとする自然的要求を阻害するに寧日(ねいじつ)なし。その状恰も帝国を敵視し帝国に対する計画的攻撃を実施しつつあるものの如く、ついに無道にも、経済断交の挙に出づるに至れり。
凡そ交戦関係に在らざる国家間における経済断交は、武力に依る挑戦に比すべき敵対行為にして、それ自体黙過し得ざる所とす。然も両国は更に余国誘因して帝国の四辺に武力を増強し、帝国の存立に重大なる脅威を加ふるに至れり。
帝国政府は、太平洋の平和を維持し、以て全人類に戦禍の波及するを防止せんことを顧念し、叙上の如く帝国の存立と東亜の安定とに対する脅威の激甚なるものあるに拘らず、堪忍自重八ヶ月の久しきに亘り、米国との間に外交交渉を重ね、米国とその背後に在る英国並びに此等両国に附和する諸邦の反省を求め、帝国の生存と権威の許す限り、互譲の精神を以て事態の平和的解決に努め、盡(つく)す可きを盡し、為す可きを為したり。
然るに米国は、徒に架空の原則を弄して東亜の明々白々たる現実を認めず、その物的勢力を恃みて帝国の真の国力を悟らず、余国とともに露はに武力の脅威を増大し、もって帝国を屈従し得べしとなす。
かくて平和的手段により、米国ならびにその余国に対する関係を調整し、相携へて太平洋の平和を維持せむとする希望と方途とは全く失はれ、東亜の安定と帝国の存立とは、方に危殆に瀕せり、事茲に至る、遂に米国及び英国に対し宣戦の大詔は渙発せられたり。聖旨を奉体して洵(まこと)に恐懼感激に堪へず、我等臣民一億鉄石の団結を以て蹶起勇躍し、国家の総力を挙げて征戦の事に従ひ、以て東亜の禍根を永久に排除し、聖旨に応へ奉るべきの秋なり。
惟ふに世界万邦をして各々その處を得しむるの大詔は、炳(へい)として日星の如し。帝国が日満華三国の提携に依り、共栄の実を挙げ、進んで東亜興隆の基礎を築かむとするの方針は、固より渝(かわ)る所なく、又帝国と志向を同じうする独伊両国と盟約して、世界平和の基調を糾し、新秩序の建設に邁進するの決意は、愈々牢固たるものあり。
而して、今次帝国が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすのやむを得ざるに至る。何等その住民に対し敵意を有するものにあらず、只米英の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携へて共栄の楽を分たんと祈念するに外ならず、帝国は之等住民が、我が真意を諒解し、帝国と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり。
今や皇国の隆替、東亜の興廃は此の一挙に懸かれり。全国民は今次征戦の淵源と使命とに深く思を致し、苟(かりそめに)も驕ることなく、又怠る事なく、克く竭(つく)し、克く耐へ、以て我等祖先の遺風を顕彰し、難儀に逢ふや必ず国家興隆の基を啓きし我等祖先の赫々たる史積を仰ぎ、雄渾深遠なる皇謨(こうぼ)の翼賛に萬遺憾なきを誓ひ、進んで征戦の目的を完遂し、以て聖慮を永遠に安んじ奉らむことを期せざるべからず。
参考文献: 国立公文書館 アジア歴史資料センター
・レファレンスコード:C12120377700
 件 名:昭和16年12月8日 帝国政府声明 (1画像目から)
https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C12120377700?IS_KIND=RefSummary&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=d2&IS_KEY_S1=C12120377700

引用元:安濃豊氏のブログ帝国政府声明文「戦勝国は日本だった」、ブログ「Karionのつぶやき」


-正面の敵は実はイギリスだった-(GHQ焚書図書開封 第4回)

2017-01-22 18:46:25 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第4回
 1918年(大正7年)、第一次世界大戦が終わった時、世界に2つの大国が出現した。日本とアメリカ合衆国である。イギリス、フランスは、主戦場ヨーロッパの陸戦に参戦しなかった日本に不満をもっていた。艦隊派遣のみにとどまったからである。その時に勇敢に戦って撃沈された日本艦隊の英霊は、現在地中海のマルタ島に眠っている。
 1937年(昭和12年)から1941年(昭和16年)にかけて発行された「戦争は文化である」ことを裏付ける「戦争文化叢書」。その37冊にアメリカについての本は1冊しかなく、半分はイギリスに関するものである。つまり、この当時、日本にとってアメリカでなくイギリスを脅威と認識していたことを物語っている。一方、アメリカはペリー来航以来、日本を支那侵略に当たっての壁(敵)と認識していたのである。
☆「英国を撃つ」武藤貞一 昭和12年刊行 
 戦争の兇悪性は言うに及ばず、ただ、しかし、「平和」が世界の不均衡を是正する力のないことも、また戦争と同様に兇悪である。戦争は悪いが、戦争によらなければ現状を修正し難しとする平和もまた同じ程度に悪いと言えるのではないか。戦争が正義でもなければ、平和が正義でもない。ただ、不自然はいかなる場合にも不正義であり、「無理」は必然的に矯められる運命を持つと思えば間違いないのである。
 第1次世界大戦時、イギリスはドイツの残虐さを誇大に表現し、時には虚偽を交えて報道し、欧州戦にアメリカを参戦させることに成功した。思想戦、宣伝戦はこの頃から始まっていた。イギリスの宣伝効果がアメリカの民衆を怒らせ、ウィルソン大統領を動かしたのである。
 「戦争文化叢書」の中には、1941年(昭和16年)12月8日の「開戦の詔書」と同時に発せられた「帝国政府声明」に記述されている戦争目的の源となる植民地解放論、八紘一宇に関する論文もある。「思想戦と宣伝戦」には、戦争相手国に対するプロパガンダに関する内容。「インド史の分析」には、植民地に対する過酷な搾取、拷問、虐殺に関する内容。このことから、いかに日本にとってイギリスが脅威であったかが窺える。
 終戦時、連合国の中でアメリカを除けば、フランス、オランダは言うに及ばす、アジア植民地からイギリスも追い出しており勝利していた。戦後の「敗戦自虐史観」により、まるでアメリカが大東亜戦争の主役であったがごとく洗脳されてしまった日本人。

参考文献:『GHQ焚書図書開封1 第五章』西尾幹二  『対英戦と被圧迫民族の解放』小倉虎治 『グーデンドルフの国家総力戦』岡野俊央 『世界航空文化闘争』泉四朗 『科学者は何を為すべきか』深尾重正 『印度民族論』堀一郎 『日本農兵戦争』清水宜雄 『教育動員計画の書』伏見猛弥 『インド開放へ』小倉虎治 『欧州をめぐる世界情勢』白鳥敏央 『英国の世界統治策』ヨーロッパ問題研究所 『印度侵略序幕』深尾重正 『英國を撃つ』武藤貞一


【帝國政府聲明】原文
昭和16年12月8日午後0時20分
大日本帝国政府発表

恭しく宣戦の大勅を奉載し、茲に中外に宣明す。
抑々東亜の安定を確保し、世界平和に貢献するは、帝国不動の国是にして、列国との友誼を敦くし此の国是の完遂を図るは、帝国が以て国交の要義と為す所なり。
然るに殊に中華民国は、我が真意を解せず、徒に外力を恃んで、帝国に挑戦し来たり、支那事変の発生をみるに至りたるが、御稜威(みいつ)の下、皇軍の向ふ所敵なく、既に支那は、重要地点悉く我が手に帰し、同憂具眼の十国民政府を更新して帝国はこれと善隣の諠を結び、友好列国の国民政府を承認するもの已に十一カ国の多きに及び、今や重慶政権は、奥地に残存して無益の交戦を続くるにすぎず。
然れども米英両国は東亜を永久に隷属的地位に置かんとする頑迷なる態度を改むるを欲せず、百方支那事変の終結を妨害し、更に蘭印を使嗾(しそう)し、佛印を脅威し、帝国と泰国との親交を裂かむがため、策動いたらざるなし。乃ち帝国と之等南方諸邦との間に共栄の関係を増進せむとする自然的要求を阻害するに寧日(ねいじつ)なし。その状恰も帝国を敵視し帝国に対する計画的攻撃を実施しつつあるものの如く、ついに無道にも、経済断交の挙に出づるに至れり。
凡そ交戦関係に在らざる国家間における経済断交は、武力に依る挑戦に比すべき敵対行為にして、それ自体黙過し得ざる所とす。然も両国は更に余国誘因して帝国の四辺に武力を増強し、帝国の存立に重大なる脅威を加ふるに至れり。
帝国政府は、太平洋の平和を維持し、以て全人類に戦禍の波及するを防止せんことを顧念し、叙上の如く帝国の存立と東亜の安定とに対する脅威の激甚なるものあるに拘らず、堪忍自重八ヶ月の久しきに亘り、米国との間に外交交渉を重ね、米国とその背後に在る英国並びに此等両国に附和する諸邦の反省を求め、帝国の生存と権威の許す限り、互譲の精神を以て事態の平和的解決に努め、盡(つく)す可きを盡し、為す可きを為したり。然るに米国は、徒に架空の原則を弄して東亜の明々白々たる現実を認めず、その物的勢力を恃みて帝国の真の国力を悟らず、余国とともに露はに武力の脅威を増大し、もって帝国を屈従し得べしとなす。
かくて平和的手段により、米国ならびにその余国に対する関係を調整し、相携へて太平洋の平和を維持せむとする希望と方途とは全く失はれ、東亜の安定と帝国の存立とは、方に危殆に瀕せり、事茲に至る、遂に米国及び英国に対し宣戦の大詔は渙発せられたり。聖旨を奉体して洵(まこと)に恐懼感激に堪へず、我等臣民一億鉄石の団結を以て蹶起勇躍し、国家の総力を挙げて征戦の事に従ひ、以て東亜の禍根を永久に排除し、聖旨に応へ奉るべきの秋なり。
惟ふに世界万邦をして各々その處を得しむるの大詔は、炳(へい)として日星の如し。帝国が日満華三国の提携に依り、共栄の実を挙げ、進んで東亜興隆の基礎を築かむとするの方針は、固より渝(かわ)る所なく、又帝国と志向を同じうする独伊両国と盟約して、世界平和の基調を糾し、新秩序の建設に邁進するの決意は、愈々牢固たるものあり。
而して、今次帝国が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすのやむを得ざるに至る。何等その住民に対し敵意を有するものにあらず、只米英の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携へて共栄の楽を分たんと祈念するに外ならず、帝国は之等住民が、我が真意を諒解し、帝国と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり。
今や皇国の隆替、東亜の興廃は此の一挙に懸かれり。全国民は今次征戦の淵源と使命とに深く思を致し、苟(かりそめに)も驕ることなく、又怠る事なく、克く竭(つく)し、克く耐へ、以て我等祖先の遺風を顕彰し、難儀に逢ふや必ず国家興隆の基を啓きし我等祖先の赫々たる史積を仰ぎ、雄渾深遠なる皇謨(こうぼ)の翼賛に萬遺憾なきを誓ひ、進んで征戦の目的を完遂し、以て聖慮を永遠に安んじ奉らむことを期せざるべからず。

参考文献: 国立公文書館 アジア歴史資料センター
・レファレンスコード:C12120377700
 件 名:昭和16年12月8日 帝国政府声明 (1画像目から)https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C12120377700?IS_KIND=RefSummary&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=d2&IS_KEY_S1=C12120377700

引用元:安濃博士のブログ(帝国政府声明文 「戦勝国は日本だった」)

 

 


-太平洋海戦は当時としては無謀でなかった-(GHQ焚書図書開封 第3回)

2017-01-18 15:59:29 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第3回

-太平洋海戦は当時としては無謀でなかった-
 戦後作られた映画「24の瞳」の大石先生の発言や、「硫黄島からの手紙」における海岸での穴掘り日本兵の発言は戦中のパラダイムではありえないことであった。その意味で、両映画とも反戦映画といえる。
 人間は、その時代、時代のパラダイムの中で生きているのであって、パラダイムが変わってから過去のことをあれこれ賛美、批判しても始まらない。戦後のパラダイムで考えると敗戦史観をもっていると反戦映画、戦勝史観をもっていると戦勝映画になるものだ。ただ一つ言えるのは、米国との戦争について、日本側は日露戦争同様に緒戦に武力戦で勝って、講和に持ち込むことができる「限定戦争」ととらえていたが、米国側は、道徳、教育、科学の力など持てる力全てを駆使して長期にわたって戦う「全体戦争」ととらえていたことである。この誤算が、終戦後、アメリカの長期戦略のひとつである敗戦贖罪史観の擦りこみによって日本古来の道徳、教育までもが破壊され、日本の自立性が失われていったのである。開戦と同時に発表され、全国紙に掲載された「帝国政府声明」に記載された戦争目的の「白人国家からのアジアの解放・独立」と言う視点で先の戦争を振り返れば、戦後アジア各国は白人植民地から解放され、独立を達成したのだから、日本の戦後史は戦勝解放史観となっていただろう。残念なことに、日本の政界、官界、財界、教育界、マスコミ界、知識人は敗戦贖罪史観を選択したのである。戦後、そのことによって、確かに経済が復興し、物質的には豊かになったが、精神的には荒廃し続けたのが実態である。、
 昭和15年当時の日本の軍備力はアメリカを上回っており、昭和17年には逆転すると予測されていた。アメリカの経済制裁に対抗するには、石油その他戦争用資源の備蓄が底をつく前に、緒戦で勝って、講和に持ち込むことができるこの時期を逃すことはできなかった。
 第一次世界大戦後、日本と並んで一等国の仲間入りをしたアメリカにとっての敵は、世界の覇権を握っていたイギリスと日清・日露戦争に勝利し力をつけてきた日本であった。右手でイギリスの弱体化を補完しながら、イギリスの覇権を徐々に奪取しつつ、左手で日本の台頭に対しては、表舞台に出ず、裏で工作し、妨害、嫌がらせを長期戦略で実施していたのは他でもないアメリカそのものであった。

参考文献:『三国同盟と日米戦』松尾樹明 『GHQ焚書図書開封1 第四章』西尾幹二 『極東危機の性格』雨宮廣知 『アジアにおける我が国の将来』ロバート・シュミット 『日米開戦 陸軍の勝算』林 千勝 『日米戦争を策謀したのは誰だ!』林 千勝


【帝國政府聲明】原文
昭和16年12月8日午後0時20分
大日本帝国政府発表

恭しく宣戦の大勅を奉載し、茲に中外に宣明す。
抑々東亜の安定を確保し、世界平和に貢献するは、帝国不動の国是にして、列国との友誼を敦くし此の国是の完遂を図るは、帝国が以て国交の要義と為す所なり。
然るに殊に中華民国は、我が真意を解せず、徒に外力を恃んで、帝国に挑戦し来たり、支那事変の発生をみるに至りたるが、御稜威(みいつ)の下、皇軍の向ふ所敵なく、既に支那は、重要地点悉く我が手に帰し、同憂具眼の十国民政府を更新して帝国はこれと善隣の諠を結び、友好列国の国民政府を承認するもの已に十一カ国の多きに及び、今や重慶政権は、奥地に残存して無益の交戦を続くるにすぎず。
然れども米英両国は東亜を永久に隷属的地位に置かんとする頑迷なる態度を改むるを欲せず、百方支那事変の終結を妨害し、更に蘭印を使嗾(しそう)し、佛印を脅威し、帝国と泰国との親交を裂かむがため、策動いたらざるなし。乃ち帝国と之等南方諸邦との間に共栄の関係を増進せむとする自然的要求を阻害するに寧日(ねいじつ)なし。その状恰も帝国を敵視し帝国に対する計画的攻撃を実施しつつあるものの如く、ついに無道にも、経済断交の挙に出づるに至れり。
凡そ交戦関係に在らざる国家間における経済断交は、武力に依る挑戦に比すべき敵対行為にして、それ自体黙過し得ざる所とす。然も両国は更に余国誘因して帝国の四辺に武力を増強し、帝国の存立に重大なる脅威を加ふるに至れり。
帝国政府は、太平洋の平和を維持し、以て全人類に戦禍の波及するを防止せんことを顧念し、叙上の如く帝国の存立と東亜の安定とに対する脅威の激甚なるものあるに拘らず、堪忍自重八ヶ月の久しきに亘り、米国との間に外交交渉を重ね、米国とその背後に在る英国並びに此等両国に附和する諸邦の反省を求め、帝国の生存と権威の許す限り、互譲の精神を以て事態の平和的解決に努め、盡(つく)す可きを盡し、為す可きを為したり。然るに米国は、徒に架空の原則を弄して東亜の明々白々たる現実を認めず、その物的勢力を恃みて帝国の真の国力を悟らず、余国とともに露はに武力の脅威を増大し、もって帝国を屈従し得べしとなす。
かくて平和的手段により、米国ならびにその余国に対する関係を調整し、相携へて太平洋の平和を維持せむとする希望と方途とは全く失はれ、東亜の安定と帝国の存立とは、方に危殆に瀕せり、事茲に至る、遂に米国及び英国に対し宣戦の大詔は渙発せられたり。聖旨を奉体して洵(まこと)に恐懼感激に堪へず、我等臣民一億鉄石の団結を以て蹶起勇躍し、国家の総力を挙げて征戦の事に従ひ、以て東亜の禍根を永久に排除し、聖旨に応へ奉るべきの秋なり。
惟ふに世界万邦をして各々その處を得しむるの大詔は、炳(へい)として日星の如し。帝国が日満華三国の提携に依り、共栄の実を挙げ、進んで東亜興隆の基礎を築かむとするの方針は、固より渝(かわ)る所なく、又帝国と志向を同じうする独伊両国と盟約して、世界平和の基調を糾し、新秩序の建設に邁進するの決意は、愈々牢固たるものあり。
而して、今次帝国が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすのやむを得ざるに至る。何等その住民に対し敵意を有するものにあらず、只米英の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携へて共栄の楽を分たんと祈念するに外ならず、帝国は之等住民が、我が真意を諒解し、帝国と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり。
今や皇国の隆替、東亜の興廃は此の一挙に懸かれり。全国民は今次征戦の淵源と使命とに深く思を致し、苟(かりそめに)も驕ることなく、又怠る事なく、克く竭(つく)し、克く耐へ、以て我等祖先の遺風を顕彰し、難儀に逢ふや必ず国家興隆の基を啓きし我等祖先の赫々たる史積を仰ぎ、雄渾深遠なる皇謨(こうぼ)の翼賛に萬遺憾なきを誓ひ、進んで征戦の目的を完遂し、以て聖慮を永遠に安んじ奉らむことを期せざるべからず。

参考文献: 国立公文書館 アジア歴史資料センター
・レファレンスコード:C12120377700
 件 名:昭和16年12月8日 帝国政府声明 (1画像目から)https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_C12120377700?IS_KIND=RefSummary&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=d2&IS_KEY_S1=C12120377700

引用元:安濃博士のブログ(帝国政府声明文 「戦勝国は日本だった」)、


-一兵士の体験した南京陥落- (GHQ焚書図書開封 第2回)

2017-01-16 00:32:30 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第2回
「征野千里」ー兵士の手記 谷口勝(中野部隊上等兵)
 GHQにより、昭和8年から昭和20年までの間に刊行された日本の本が国民の目から遠ざかされた。昭和8年は1月1日に満州と支那の境界の山海関で日本軍士敷地内に手榴弾が投げ込まれるという事件から始まり、3月27日には日本の国際連盟脱退、5月31日には国民政府と日本との間で塘沽停戦協定(たんくていせんきょうてい)締結、10月14日にはドイツが国際連盟脱退、12月23日には現在の今上陛下の誕生と目まぐるしく世界情勢が変化した年であった。
 東京裁判では、日本から戦争をしかけたという筋書きにするために、日清、日露戦争から続いてきた日本と支那間の問題を故意に黙殺し、この時期以降の資料のうち英米に都合の悪い資料を除き、英米に都合の良い資料を裁判の証拠資料として採用している。これによって行われた東京裁判の結果により日本人の正しい歴史認識が失われた。
 南京が陥落した昭和12年12月13日の2,3日前の南京進軍途中の戦場風景。突然戦争に巻き込まれた土民家族の慌てぶり。部隊退却後、残され、トーチカの中で足を鎖につながれ、鉄砲を撃ちまくる支那兵の姿は、インドにおいてイギリス兵がインド兵に対してやった行為と同じであった。民家を焼き払って遁走する支那部隊。中華門の猛撃。南京城門内の女性兵士を含むおびただしい死体の山はどうみても、支那部隊が逃走するにあたり城内中支那人を惨殺したものとしか思えなかった。無邪気に支那将校の残した黄金の指揮刀を身に着け戯れる日本兵の姿。戯れた後、指揮刀を元あった場所に戻す日本兵の律義さ。
 12月17日に松井岩根大将の入城風景。12月18日には両軍の慰霊祭を実施。陥落後の15日、16日の2日間で30万人の虐殺は物理的に不可能である。軍命令書もなく、殺人特殊部隊の編成もなしに死体処理を含めた場合、1日あたり5,000人以上の殺人は不可能である。
 しかも、陥落後の南京ののどかな風景写真や敗残兵との共同生活ぶりをみると、また、陥落後、南京の人口が増えている記録からも、とても虐殺があったようには思えない。虐殺があれば、避難地域から都市に戻って来ず、人口は減るはずだ。

参考文献:『GHQ焚書図書開封1 第三章』西尾幹二