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-モンゴルの地球支配から初期ロシア帝国へ-(GHQ焚書図書開封第199回)

2022-12-26 11:51:34 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第199回

-モンゴルの地球支配から初期ロシア帝国へ-

第1章 ロシアの東進

1. ロシアの成長

(1) ギリシャ正教に帰依

(2) 蒙古族の支配

(3) モスクワ公国の制覇

2. ロシアの遠征

(1) ノヴゴロッド併呑

(2) ウラル山外に遠征

(3) 勢力圏の強化

3. エルマツクの出陣

4. シベリア鉄道

(1) 支那○○と北洋○○航路

(2) オビ、エルセイ、シナ○○○○

(3) ヤクーツクから前進

5. カムチャッカ征服

(1) アトラッツフの遠征

(2) 恐怖時代

6. 北太平洋に活躍

(1) 日露○○

(2) アジア○○の○○

7. 黒竜江遠征

(1) ボヤルコフ、ハバロフの遠征

(2) 露支衝突

(3) ネルチンスク条約

8. 露支交通路

9. 総合的大探検

(1) 北方大探検

(2) ベーリング探検

(3) シュバンベルグ探検

(4) 大探検の成果

10.辺境種族を中心とする露支両国の係争

(1)露支貿易の中絶

(2)カルマツク族の動き

(3)ロシアの中央アジア遠征失敗

(4)露支両国の和解

11.シベリアと蒙古の○○

12.北太平洋の争奪○○

 

 

 

この外的影響による都市の発展に拍車をかけるものは奴隷売買の内的影響であった。ノルマン人がロシアに侵入して来たのも商品の奪掠であり、奴隷の捕獲であったが、都市の発展に伴い、奴隷の需要はいよいよ激増し、如何にしてこの価値ある商品の奴隷を多く所有し得るかということは、奴隷売買の商人でもあり専制的君主でもあった当時の支配階級の重要課題であった。このため奴隷売買の中心地コンスタンチノーブルに接触したのであるが、そこではからずも輝かしいビザンチウム文化に浴し、ギリシャ正教の壮麗な伽藍に眩惑したのである。

西紀851年聖徒アンドレアスがキエフに来て十字架を建て、866年にはキエフにコンスタンチノーブルからギリシャ正教の僧侶を招いたという記録があるが、今現実に奴隷売買からビザンチウム文化に接触したロシアは、初めて宗教的民族としての洗礼を受けたのである。苦難多き現世に逃避して神の恵みに縋ろうとするロシアの環境はギリシャ正教を素直に受け容れる全ての条件を備えていた。まもなくキエフはロシアの聖都として栄え、壮麗極まる伽藍が立ち並んだ。957年にはイゴル公夫人がコンスタンチノーブルで洗礼を受け、988年にはウラヂミル公がギリシャの皇女アンナと結婚して、初めてキエフで洗礼を受け、ギリシャ正教は正しくロシア人の魂の糧となった。異種族の支配を受け、奴隷と奪掠を持って発展して来たロシアは、今や支配階級も被支配階級も挙げてギリシャ正教に帰依し、眼もあやなる宗教的極彩色を施したのである。

(2)蒙古族の支配

・・・・・・・

ロシアの各都市は急激に衰退し、生活の足場を失った彼等は土地に定着し、農耕することによって自給自足を計らねばならなかった。そこに農奴なる利用価値が新しく支配階級によって認識された。しかも支配階級が自給自足に満足せず、珍奇な商品を購入して生活を楽しむためには農奴をしっかり手許に縛りつけ、極端に駆使せねばならなかった。このため教会はその財源を保護し、収益を増すため強権の発動を要請し、真っ先に過酷な農奴制の基礎を確立したのである。かくて農奴の虐使とギリシャ正教の熱狂的信仰により、ロシア的特有の素朴な宗教的文化を結実しつつあったが、このとき、「アジアの嵐」成吉思汗の遠征軍が怒涛の如くロシアの平原に迫っていたのである。

宗教都市としてまた文化都市として、ロシアが誇るキエフの周辺もたたならぬ風雲を孕んでいた。18:30

住民はキエフを棄てて、草原地帯から森林地帯へと続々避難を開始し、遂にはボゴリンスキー公もキエフを棄て北東の安全地帯を求め、ノヴゴロッドからウラヂミルに首都を遷した。

アッチラが欧州を席巻してから800年後、アジア人は再び英雄成吉思汗の号令によりそくふだい、てつれつ別両将の先鋒部隊が恐らく火薬の新しい武器をもっていたろうと思われる勇敢な騎兵の襲撃により、ロシア平原に突入してきたのである、ロシアは忽ち秩序を失い、各都市は大混乱に陥った。

 

成吉思汗は西紀1227年永眠したが、抜都がその遺志を奉じ、再び ウラジミル

を破り、ついで当時一村落に過ぎなかったモスクワを攻撃し、1238年には大挙してウラジミルを襲い、三月にはウラヂミル公の新編軍をシタ河畔に破り、1242年にはキエフを攻略し

 

ロシアの聖地も遂に蒙古軍の蹂躙するところとなった。かくて蒙古軍はボルガ河下流のサライを首都とする欽察汗国を興し、爾来200余年間ロシアを支配したのである。これがロシア史上所謂「タタールの支配」であるが、この支配下においてロシアは東方アジアに対する戦慄と脅威を新しく発見し、支那へ、印度への通路を模索し始めた。

しかもロシアはこの永年に亙る屈辱の歴史により、却って不撓不屈の精神を養い、

スラブ魂を育て上げたのである

重要事項のみ掌握して、間接的にロシアを統治せんとする東洋的善政を施したことはロシアのため不幸中の幸いであった。ロシアが熱狂的信仰をもつギリシャ正教に対しても弾圧することなく、寧ろ異教徒が汗のため祈ることを歓迎する傾向すらあったので、ロシアの宗教は蒙古人の保護下に栄え、宗教的文化はますます充実し、被支配階級にありながら独特の逞しい成長を続けることが出来たのである。さらに蒙古人は重要な徴税事務すら、ロシア諸侯のうち最も信頼するにあたる人物に大公の称号を与えて一任したため、各諸都市は完全にモンゴルの重圧から避けることができ、次第に精気を取り戻して独立的な国民的感情をかもすこととなったのである。

 

西紀1380年モスクワ大公デメトリアス・ドンスコイが、決然起こって兵15万を率い、セントセルヂアス大僧正の辞を受けて蒙古軍撃破の壮途についた。9月8日ドン河上流のクリポコの会戦により、初めて蒙古軍を撃破したが、これによって蒙古軍を徹底的に叩いたわけではなかった。ただこの冒険により歴代ロシア人が抱いた蒙古人に対する恐怖心を完全に払拭し、蒙古人を撃破することはさまで困難でないということを確信することが出来たのである。

 

1472年イワン3世がビザンチン帝国の承継者、コンスタンチン13世の皇女ソフィヤ・パレオローグと結婚し、シーザーの言葉をとってツアーと名乗り、ビザンチン帝国の劈頭の鷲を紋章として用いるようになってから、アジア的な絶対の権力を掌握する専制武断のロシア帝国が誕生することとなった。

 

2.ロシアの遠征

(1)ノヴゴロッド併呑

ロシアで最も古い都市ノヴゴロッドは、歴史的な特異な存在を示していた。

 

蒙古軍のロシア平原進入に対しても僅かに兵火を免れたのであるが、さらに蒙古人の支配下において南方通商路の安全が確保されるや、黒海横断の東洋貿易の通路が復活したので、東北よりの毛皮、銀と共に南方より渡来する支那、ペルシャ等の当時のアジア代文明圏の珍奇な商品が続々とノヴゴロッドに集中され、ノヴゴロッドは北東の一大商業都としていよいよ盛況を呈しグレート・ノヴゴロッド、またはサー・ノヴゴロッドと称され、西欧諸国の羨望の的となった。

 

モスクワが欽察汗国滅亡の余勢を駆って、ノヴゴロッドの毛皮と銀の産地に眼をつけたことはとうぜんのことである。武断専制のモスクワの挑戦を受けた自由都市ノヴゴロッドは遂に1478年モスクワに併呑されてしまった。43:00

 

かくてシベリアへの野心は、ノヴゴロッドの都市商業資本の発展となったのであるが、今やモスクワのノヴゴロッド併呑によりモスクワの新しい武器とノヴゴロッドの豊富な資本が完全に結合し、モスクワの帝国主義的領土拡張へと飛躍し、そこにはすでにノヴゴロッド人により、開拓の緒につきつつあったシベリアが無限の富を蔵して果てしなく広大に展開していた。

 

かくしてモスクワ帝国は、ウラル山外の広漠たるシベリアの原野に逞しい野心を展開しつつあったが、国内においても全国統一の大業を進め、西紀1552年蒙古人の本拠カザンを、1554年にはアストラカンを続々と奪取したが、その余勢は当然南方に接触する中央アジアに向けられた。

 

記録によれば西紀913年、943年、969年の三回に亙りカスピ海付近に侵入しており、続いて1175年舟艇によるカスピ海沿岸奪掠、1043年のコンスタンチノーブルに接触、1464年にはロシアの代表者がペルシャのヘラトに入り、1490年には

ヘラトの代表者がモスクワに来ている。その間有名な商人アファナシー・ニキチンが冒険的なアジア旅行を続けた記録もあるし、とにかく組織的なものではなかったが、アジアと濃厚な関係をもってきたのであるが、カザン、アストラカン攻略後は、俄然組織的に積極的に中央アジアへ進出し始めた。しかしそれは飽くまで経済的進出の域を脱することは出来なかった。当時南方のこれら回教徒圏の文化は、遥かにロシアの文化より上位にあって武力進出などは思いも及ばなかったのである。

 

一方シベリアにおいても時を同じくしてロシア人の活動が活発となった。しかもこの方面は中亜の文化圏とは異なり、未開野蛮の原住民と見られていたので、単なる威嚇で十分進出の目的を達しえるとの確信を抱くようになり、次第に武力による強奪が大々的に遂行されてきた。このためウラル山外も遂にモスクワの強圧に屈服し、1555年、1557年の二回に亙り黒てんの毛皮を貢納する使者がモスクワに来たことが記録に見えている。しかしこれはモスクワの勢力がウラル山外に全面的に浸透した証拠ではない。剽悍な蒙古族の子孫共は、この強奪に対して常に反抗したが、執拗なロシアの帝国主義的進出を阻止することは出来なかった。ロシアの勢力は次第に拡大し、国境線は広大なものとなって来たが、その反面ロシアは反抗種族の弾圧に手を焼くようになった。51:55

2019/06/26に公開


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