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-200年に及ぶイギリスの介入による支那の崩壊-(GHQ焚書図書開封第129回)

2020-05-11 00:12:37 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第129回
-200年に及ぶイギリスの介入による支那の崩壊-

支那大陸の黒船来航は、1635年のイギリス船4隻によるウェッデルの寄航であった。それまでは、葡萄牙(ポルトガル)が澳門(マカオ)での交易により独占的利益を得ていたのである。

その後、阿蘭陀との交戦もあり、イギリス貿易が復活するのは1664年になったが、海関に関わる極端な賄賂要求にイギリス商人は悩まされることになった。

 貿易港広東(カントン)においては、独占的利益を侵された葡萄牙(ポルトガル)が英吉利(イギリス)の進出を妨害した。

 海関税は海関監督(ホッポ)の独自裁量によって決定されており、賄賂分が圧倒的に多かった(1500両の場合、1300両は賄賂、実質の税額は200両)。1703年以降はホッポの制度がコホン(公行)制度に変わった。しかし、賄賂体質は依然として残った。

18世紀中頃になると、清国政府は排外的になり乾隆帝は禁圧令を下した。貿易港も広東と澳門(マカオ)に制限された。

その後、困った英吉利政府は、1792年、ジョージ・マカトーニー卿を派遣し、事態収拾に努めるが、乾隆帝に謁見するための「三跪九拝(三跪九叩頭)」の礼には応じなかった。そのため交渉(通商の自由、関税低減などの交渉)は決裂した。ウィリアム・アマースト大使も同じように「三跪九拝(三跪九叩頭)」に応じる気配もなかったとのことで嘉慶帝の謁見が許されなかった。

1834年にはウィリアム・ジョン・ナピールと広東総督との間にトラブルが発生し、対英ボイコットが起こった。200年に亘って英吉利と清朝は意地の張り合いを演じていたのである。ナピールの業務を継承したダヴィス・ロビンソン・エリオットの時に、とうとう堪忍袋の緒が切れ、武力によって清朝を抑えるという政策に転換した。これが、阿片戦争の原因と言われている。

 阿片戦争は林則徐の過激な禁圧によって起こされたのでなく、阿片戦争を起こすことで清朝への侵略の扉をこじ開けようとした英吉利の陰謀であった。1635年のウェッデルの来航以来200年かけて虎視眈々と侵略の時期を待っていたのである。

 印度を抑えた英吉利は、ベンガル地方で阿片を栽培し、清朝へ輸出した。清朝は阿片輸入により銀が流出し、支那経済、支那人の健康が破壊されることになった。銅が下落し、物価騰貴となり豊かな支那は輸入国に転落し没落の道を辿ることになった。

 嘉慶帝は、阿片の禁輸令を出し、阿片の蔓延を防止しようとしたが、支那密輸商と支那官憲と英吉利商人が結託していたため一向に治まる気配はなく、支那政府が厳しく取り締まれば、取り締まるほど賄賂による利益を求め、阿片は広まる一方であった。

2017/2/15に公開

 


-イギリスのインド攻略の原点 プラッシーの戦い-(GHQ焚書図書開封第128回)

2020-05-07 16:16:23 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第128回
-イギリスのインド攻略の原点 プラッシーの戦い-

  イギリスのインド侵略は、1400~1500年代の大航海時代のバスコ・ダ・ガマのインド航路発見がきっかけとなって始まる。1600年、エリザベス女王の指導のもと、半官半民の東インド商会の仕事としてなされ、進攻して利益拡大の見通しがみえてくると、それまで背後にいた国家が外交、軍事、間諜分野にわたりその侵略の主人公として表舞台に姿をあらわした。

  南インドのカルナチックで起きた「ブラックホール事件」や、その後の「プラッシーの戦い」が、インドの内乱を生み、インド人によってインドが亡ぼされるという運命に導かれていった、そこにはいくつもの英仏の陰謀があった。特に、ベンガル王スラジャ・ドーラにとってかわろうとするミルジャフィルの野心を利用し、内乱を起こさせたイギリスの陰謀が有名である。

  イギリスの産業革命は、インドの富を奪うことから始まった。自然科学がインドの薫り高い家内工業を破壊し、自給自足の生活パターンまでも破壊したのである。

 高い工業製品を購入し、安い原料(綿花、小麦、ジュート、麻、コーヒー、煙草、米)を売るということは、二重に富を搾取されるということになるのである。これによって、インドの民衆は世界一の貧乏人になったのである。

このことを知った日本は、インド、支那を西洋人の圧政から守ろうとして支那事変を起こした。アジアを西洋から守る日本の姿勢は戦後も一貫しており、ODAや、発展途上国への教育の普及などに引き継がれているが、そのことを深く理解している国もある一方で、そのことについてこれない国、あるいはそのことに対して反感を持つ国、はたまた逆恨みまで持つ国が出ているのが現状である。しかし、当時アジアを覚醒させ、日本の生き方を教えようとして起こした支那事変を「聖戦」と言わずして、何と言えようか?

当時書かれた本には、「阿片禍ー英国東洋侵略史」「英国の印度侵略を歴史的事実に見る」「欧米の対支経済侵略史」「支那侵略者 英米財閥」「西洋文化の支那侵略史」など、欧米の侵略から、印度、支那を守ろうとしていた姿勢があらわれている表題の本が多数あるが、戦後、これらは焚書によって葬られただけでなく、再評価する歴史学者も生まれてこなかったことは誠に残念である。

  日米開戦と同時に公表された「帝国政府声明」の1節に

「而して、今次帝国が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすのやむを得ざるに至る。何等その住民に対し敵意を有するものにあらず、只米英の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携へて共栄の楽を分たんと祈念するに外ならず、帝国は之等住民が、我が真意を諒解し、帝国と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり」

と明確な開戦目的の証拠あるが、

これを「聖戦」と言わず、「侵略」とする歴史学者(加藤陽子、 半藤一利、北岡伸一、五百籏頭 真、秦郁彦)のGHQに洗脳された近現代史捏造姿勢にあきれるばかりである。

参考文献:「亜細亜侵略史」高橋勇
引用元:安濃博士のブログ(帝国政府声明文 「戦勝国は日本だった」)、「國の防人第10号 作戦課長稲田正純大佐の陰謀」展転社
2017/2/1に公開