n45-50

ロシア・サハリンと北海道を結ぶ架け橋ネット。
サハリン州には。、ロシア人もウクライナ人も住んでいる混住地域です。

日本の切江女史は、ユジノサハリンスク芸術を提示しました

2016-07-23 18:43:25 | 芸術

ワークス緒方Syunkoは素晴らしいカーペットに美術館の壁を回しました。札幌サハリンからの専門家は「涙」、「ピンチオフする「日本手段から翻訳電子tigiriの芸術、と知り合い。

Tigiri-eは、まだ日本では手によってなされる和紙のライスペーパーの美的品質、6のワークショップに基づいています。低木やガンプmitsumの木の樹皮から繊維によってその美しさと強さに古代和紙のおかげで発明は、民俗アーティストと非常に人気があり、文化遺産のユネスコのリストに含まれています。しかし、芸術自体tigiri-E、ゲストによれば、比較的若いです。1960年代には、日本画家の一人は、3次元の組成物を作成するための代替色について考え。ここで和紙自然粗さの視覚効果のシートに取得することができ、その緩い構造を有する紙、「シャギー「フラワーアレンジメントは、「裁判所」に会計処理することができませんでした。

美緒方Syunkoのための味は子供の頃、父親から点滴注入しました。鉄道の従業員は、彼は絵画や書道に興味がありました。これは、コーポレート・アイデンティティ緒方Syunkoの顕著な特徴は、書道やtigiri-Eの組み合わせであるのは偶然ではありません:古代日本の芸術の精神で、彼女は絵のpyatistishiyaタンクに選択します。権威の「破砕」まあ、一度私は先生を持っていなかったことを、私は一切誰にもせずに育った」。望まれているどのような、私は即興と操縦の無制限の自由た、実装されています。そして、あなたは常に他の著者からの私の仕事を区別します - 色の選択は、動物や人々の数字の組み合わせは、 " - と彼女は保証します。

150作品の展覧会がトレースされ、伝統的な日本美術のモチーフ(花、鳥)、そして犬や猫の変な顔のための著者のバレエのための愛、そしてファッション - 高価なカレンダーの好きな科目。色紙の和紙craftswomanの小片から壮大な錯覚を出産する、コラージュを作成します。そして、すべての感情のほとんどが花原因 - 牡丹、ライラック、バラ、その繊細なあなたがはっきり聞こえ香りと静かな風景水彩優し...ところでを、和紙緒方Syunkoだけでなくtigiri-Eを使用していますが、また彼女の服、料理を作ります初日に、彼女は和紙の着物の帯に来て、アレクサンダーFetisovの翻訳者はもちろん、誰もが認識していない可能性があり、同じ「紙」のクリップを、身に着けているネクタイ:表示することを躊躇しなかった、アクセサリー、装飾品、。

この小柄と信じられないほど魅力的な女性は、そのあふれんばかりの活力と開放性に心を打たれました。人生の40年以上にわたりtigiri-Eを捧げ、緒方Syunko私たちのいずれかがこの魅力的な芸術、主なものに把握することができることをかなり確実 - 造形思考の存在を。何泊、ドリンスク、ホルムスクで行わ彼女のマスタークラスを確認し、そして、年末までにシート上の学生はすでに、紙の花を「発芽」と、笑顔の愛人と気づいたように、子どもたちがtigiri-eの速い大人の科学を把握。

緒方Syunkoアーティストはサハリンと呼ばれるのは偶然の開口部に。ほぼ70年には、祖国からの分離を続きました。ドリンスクネイティブ、彼女はソ連移民の子どもたちと一緒に研究泊の彼女の幼年期を過ごしました。彼女によると、泊港は過去10年間に長くなることはないので、母国の場所は、簡単だった学ぶために(それは褒め言葉として考えることができる場合 - は言い難いです)。そしてドリンスクで、彼女はロシアの伝統に特に温かい歓迎を組織しました。サハリンとの彼女の会議興奮は: "彼らは陽気、オープン歓迎同じであった、私はサハリンを訪問することは非常に嬉しく思います変わっていない - かのように戻って彼の幼年期へ。」。メモリでは緒方Syunkoは時間をかけて、おそらく新たな魔法の絵があるでしょうそのうちサハリンの写真を、持ち去ら...

日本の伝統的な技術は、異なる方向の博物館島に定期的に提示されることに注意してください。しかし、より多くの未知のままです。例えば、それは日本の絹絵、漆器、アンティークの陶器などと博物館で満たすためにいいだろう。日本とサハリン州に向かって互いの移動に伴って文化関係の発展のための素晴らしい展望を持っています。

 
 
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歴史を学ぼう Ⅴ 波乱のエリツィン政権   提供 裏典元

2016-07-23 10:56:22 | 学ぶ

第16回 ちょいと強行的?なプーチン政権

●プーチン政権の現況
 1999年、エリツィンは辞任し、首相だったウラジーミル・プーチン(1952年~ 位2000年~)を大統領とする政権が誕生します。彼はレニングラード(現、サンクトペテルブルク)の金属加工労働者の家庭の生まれ。少年時代、スパイ映画を観てKGB(国家保安委員会)にあこがれ、レニングラード大学法学部卒業後、本当にKGBに勤務してしまうと言う、ある意味で幸せな人です。

 彼は東ドイツで活躍したあと、1991年、つまりソ連崩壊後に、大学時代の恩師サプチャーク元助教授がサンクトペテルブルク市長に当選したのにともない、同市対外関係委員会議長に就任します。ここで彼は、ロシア初の外国銀行の支店設置許可、合弁企業を誘致に乗りだし、自由化政策を推進。1994年からは第一副市長となり、市政の改革を行い、注目を集めます。

 そんな副市長だった彼が、なにゆえ首相、さらに大統領にまでなってしまったのか。
 まず、1996年にサプチャークが市長選に落選したのが転機の1つでした。これによって彼は次の職探しをするわけですが、レニングラード時代の人脈で、大統領府総務局次長の方に転出することに成功します。ついで1998年、連邦保安局(FSB)長官という、まさにプーチン好みの(?)役職に就任。ここで、エリツィン一族のマネーロンダリング疑惑を追求していたスクラトフ検事総長を失脚させることに成功するんです。

 そりゃあ、エリツィン君としては大喜びです!
 恩返しの意味もあったのでしょう、1999年8月、ステパーシン首相に代わってプーチンは首相になったんです。上に媚びることも必要なんですか、なんかやだなあ(苦笑)。そして、12月に辞任したエリツィンに代わって大統領代行に就任。次いで翌年の選挙でチェチェン問題に強硬手段をとり、これが国民に受けたことで当選を果たします.

 大統領になったプーチンは、エリツィン大統領が軽視してきた旧ソ連諸国、中国やヴェトナム、北朝鮮などの社会主義国との関係改善に乗り出します。さらに所得税の減税や、「懐かしのメロディー」というわけで、ソ連時代の国歌の旋律を復活などを実施。

 現在のロシアは、貧富の差がでているものの、それでもようやく経済も立て直し傾向にあり、中流階級程度なら豊かな暮らしをしています。もちろん、プーチン大統領の手腕もあると思いますが、ゴルバチョフ・エリツィン時代の改革の成果が、ようやく出たのではないでしょうか。

 こうした好調な経済の一方、 2004年12月12日、プーチン大統領は知事など地方の首長を、事実上大統領の任命制にするという法律に署名し、ロシアの中央集権化が一段と進むことになりました。つまり、大統領の権限を強化し、地方の首長をプーチン大統領の息のかかった人間にする、と言うことです。これは民主主義の流れに逆行すると、世界から批判を受けています。また、ウクライナ大統領選挙でも親ロシア派のヤヌコビッチ首相を露骨に支援。周辺国への介入も深まりそうです。

 その大統領権強化の口実となっているのが、再燃したチェチェン問題です。

●第2次チェチェン紛争
 1999年8月。
 チェチェン共和国のお隣、ダゲスタン共和国にチェチェン武装勢力が侵入して村落を占拠、イスラム国家樹立を宣言するという事態が発生します。これに対し、もちろんロシア軍は出動し鎮圧。ところがこれで終わらず、モスクワで爆弾テロが相次ぎ、300人が犠牲になると言う事件が起こります。犯行声明がないので犯人は不明ですが、ロシア側はこれをチェチェン武装勢力の反抗と考えました。

 これではロシアも黙ってはいられません。
 プーチンは、再びチェチェン共和国に侵攻し、空爆を開始します(第2次チェチェン紛争)。さらに地上軍も首都に侵攻し、やはり多数の民間人が犠牲となり、国際的な非難を浴びます。一方、ロシア軍は順調にチェチェンを制圧。マスハドフ大統領らは山岳地帯に逃れ、ゲリラ戦を宣言します。しかし、この強硬手段と大勝利にロシア国民は拍手喝采。「強いロシア、万歳!」というわけです。

 これによって、2000年3月の大統領選で、プーチンが圧倒的な勝利を収めます。

 2000年6月8日になると、プーチン大統領はチェチェン共和国に大統領直属の臨時行政府を設置する大統領令に署名。チェチェンの直接統治に乗り出し、行政府長官には反マスハドフ派のアフマト・カディロフ師(穏健派イスラム指導者)を任命します。この他、チェチェンの行政組織の整備にも乗りだし、「やれやれ、これで問題は終わりだな」と、ロシア軍の大幅な撤退も決定しました。

 ところが「そうはいかん!」とチェチェン武装勢力は抵抗。
 これも覚えていらっしゃる人が多いかと思いますが、
 ・2001年3月のトルコ発モスクワ行きロシア機のハイジャック
 ・同年4月のイスタンブールのホテルで発生した人質立てこもり事件
 などで、「問題は終わっていない!」と国際的な注目を集めます。
 
 この頃までは、プーチン大統領も「平和的解決をしないと、国際批判を浴びるからなあ、やれやれ。」というのが方針だったのですが、彼にとって都合の良いことに転機が訪れます。2001年9月11日の、アメリカ・ニューヨークで発生した同時多発テロです。これによって、「テロに対しては断固とした対応をとるべし!」と欧米諸国を中心に広がったことから、プーチン政権も強硬な政策をとるようになります。それでも、同年11月、モスクワでマスハドフの特使ザカエフとプーチン大統領のチェチェン問題担当特使カザンツェフが会談し、和平交渉をしたんですけどね。物別れに終わりましたが・・・。

 でも、物別れに終わると言うことは大変なことです。
 つまり武装勢力側から見ると、「これで交渉の余地はなくなった。ここからはプーチン大統領が我々を潰しにやってくる。ならば、やられる前にやるだけだ!」という事態になったのです。

 そのため各地でテロ事件が起こりますが、特に大きなものが、2002年10月にはモスクワ劇場占拠事件。この時、犯人は全員射殺される一方、ロシア特殊部隊が強行突入時に使用した特殊ガスによって人質の120人以上が死亡する、という事態が発生し、世界中に衝撃を与えます。

 一方、チェチェンを早いところロシア連邦内部の共和国として確立すべく、2003年3月
 1.チェチェン共和国は広範な自治権をもつ
 2.ロシア連邦の一部であり、共和国政権は連邦大統領と政府の指示・命令にしたがう
 3.共和国に大統領と二院制議会を設置
 と言った共和国新憲法を作りあげ、住民投票にかけます。どこまで本当かどうか、投票率は89.48%で、新憲法への賛成票は95.57.%という数字をはじき出し発効。

 さらに、2003年10月に大統領選挙を実施。
 これで、行政府長官だったカディロフ氏が当選し・・・もちろん、ロシア側が有力な対立候補に圧力をかけ、次々と出馬断念させたからですが、こうしてロシアの望む国家が誕生します。
 
 しかし、カディロフ大統領は2004年5月9日の爆弾テロで死亡。
 屋外競技場で開かれていた対ドイツ戦勝記念式典中、貴賓席の床下にしかけられた時限爆弾が爆発したのです。

 これに対し、プーチン大統領はチェチェン大統領代行にセルゲイ・アブラモフを任命。さらに、暗殺されたアフマト・カディロフの息子ラムザン・カディロフを第1副首相に指名。そして、事件発生の2日後には、チェチェンを訪問して、事態の沈静化をはかっています。

 ですが、現在も武装勢力の抵抗は続いています。
 それは次第に、狂信さを増しているようにさえ感じられ、もはや武装勢力中枢もどこまで末端に統制がとれているのか。

 ロシア南部、北オセチア共和国で起きた学校人質事件は私たちに大きな衝撃を与えました。罪もない子供達を人質に取り、さらに非人道的な扱いを行い、しかもテロリストは殆ど自滅覚悟だった。これに対し、ロシア特殊部隊が突入し、なんと死者三百人を超える最悪の結末を迎えています。

 近年は、国際テロ組織アル・カーイダがチェチェン独立紛争を支援しているとも言われています。現状に絶望した一部のチェチェンの人々は、ビン・ラディンの思想にドップリと浸かってしまい、さらに過激になる可能性もあります。これに対し、プーチン政権はひたすら力で押さえ込めるのでしょうか。

●首相職へ

 さて、ロシアの大統領は連続3選が憲法により禁止されているため、プーチン大統領は2008年5月7日に退任します。
 後継は、ドミートリー・メドヴェージェフ。プーチン政権下では2005年11月より第一副首相を務めたほか、90年代からプーチンとともに仕事をしてきた間柄です。

 メドベージェフはプーチンを首相に指名し、一時はプーチンの傀儡政権とも考えられましたが、実際にはそう単純な話ではないようで、独自の人事を断行したり、2009年11月21日に、プーチンが党首を務める与党「統一ロシア」の党大会において、プーチンの目の前で「選挙は民意の表明であるはずなのに、民主的な手続きが行政手続きと混同されていることがある」と批判するなど、次第に緊張関係であるように見受けられます。

 さらに、プーチンの出馬が予想される、次の大統領選も見据えた国内向けの意向もあるのか、2010年から2011年にかけては、日本の固有の領土である北方領土の視察をはじめ、実効支配の強化に乗り出すなど、対日関係においてはプーチン時代以上の強硬姿勢も見せ始めています。

 さて、これからの日ロ関係はどうなるのか。

<参考文献>
スーパー世界史 謝世輝著 講談社
危機の国際政治史1917~1992 柳澤英二郎・加藤正男・細井保著 亜紀書房
新版世界各国史 ロシア史 和田春樹編 山川出版社
角川世界史事典
ヒストリカルガイド ロシア 和田春樹著 山川出版社
ソ連=党が所有した国家―1917‐1991  下斗米伸夫著 講談社選書メチエ
最新世界史図表 第一学習社
そうだったのか! 現代史パート2 池上彰著 集英社
ロシアは今日も荒れ模様 米原万里著 日本経済新聞社
Microsoft Encarta Encyclopedia 2001・2004. Microsoft Corporation.

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棒

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サハリンのスケーターは、トレーニングキャンプから戻りました

2016-07-20 08:29:44 | 娯楽・スポーツ

サハリンのスケーターは、トレーニングキャンプから戻りました

 
スポーツユジノサハリンスク

サハリンのスケーターは、ハバロフスクで開催されたトレーニングキャンプから戻りました。スポーツ複合施設では、「南」は、7歳から14歳までの13島のスケーターを訓練し、新しいシーズンに向けて準備、休みました。すべての子どもたちがスポーツの宮殿の生徒「クリスタル」です。

二週間の選手が積極的にジムで、氷上に従事して過ごしました。主要な「氷」のレッスンは半時間続いたとの訓練は、日場所を3回行いました。アスリートの日は、分単位で塗られていました。週末の間、右側の残り上の人は:ツアーに行き、ハバロフスクの観光スポットと知り合いました。

- 英国では、「南は、 "我々は、競争に参加されているが、トレーニングキャンプはここに初めて開催され、 - フィギュアスケートのコーチエレナSerkowski氏は述べています。 - もちろん、クラスは事実上ノンストップだったが、それは残りの時間でした。だから、みんなは、彼らが雨のため一日を過ごした博物館に訪れました。その興味深いマスタークラスのために編成博物館、そう時間は無駄ではありませんでした。週末の1ではないハバロフスク遠足によるレビューすることなく、「歌う噴水」に行ってきました。要するに、CFは生産されています。

重点はこれらのトレーニングセッションを置かれた主なポイントの一つは、それはサハリンのスケーター "アイスダンス」のための新たな方向性になりました。ヘレナSerkowskiデニスSunagatovの卒業生 - それは私たちの選手のグループでより強力なセックスの唯一の代表であったことは注目に値します。今年の2月にはアレクサンドラ・パレスデニスと並行してスポーツ「クリスタル」の宮殿で開催されたショーイリヤ・アベルブフ、中に行われました。その後、スケート体験ペアは、メンターの選手、観客やスケーター自身が好きでした。したがって、それは私たちの選手は確かに氷イゴールコワレーフにスポーツダンスにおけるソ連のスポーツのマスターの指導の下でトレーニングキャンプに参加することが決定されました。コーチのスケーターを訪問トレーニングキャンプ中に私たちの基本的なダンスの位置を示し、また実行の技術にだけでなく、スタイル、芸術性と「skatannost「パートナーのみならず注目を集めました。デニスSunagatovサハリンはアイスダンスの開発に着手した最初のスケーターになりました。今では強いセックスサハリン若いスケーターたちに彼らの経験を送信する責任です。訓練では、選手は「クリスタル」のフィギュアスケートのいくつかの生徒分離のためのパートナーです。今日、この美しい氷のスポーツサハリンでは、少年たちの間で人気がない - 「クリスタル」のスケートは、より強力なセックスの少なくとも10のメンバーに従事しています。しかし、女の子は氷のスポーツの非常に好きです。パートナーデニス・アレクサンダーはDvortsovaアナスタシアPogonina、インナオベチキンとアンジェリーナBelmasovaを作りました。選手はまた、氷の上でダンスのステップの生産に取り組んで、異なる技術的なスキルを練習しています。そして今、コーチとして若いスケーターは、人が連携して作業する前に、不確実性を消えます選手はツインルームを入れて容易になることを願っています。また、「クリスタル」は、選手が彼の母国壁にプロの指導の下、アイスダンスに従事する可能性を排除するものではありません。

これらの手数料に子供を同行メンター・サハリンのスケーターは、エレナSerkowskiも、最寄りの計画を共有しました。そこで、7月30日には、スケーターのグループがサハリン37選手の一環として、サンクトペテルブルクに行きます。研修会は、冬のスポーツ "リーダー"のための最大のトレーニングセンターのいずれかで開催されます。このように、スケーターは休日のための形状に失うする時間がないと効率的に今後の競争力のシーズンに向けて準備することができるようになります、IA Sakh.comは「クリスタル」のプレスサービスに関連して報告しました。

 
 
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北海道の考古学を知る・学ぶ講演が開催されます 北海道埋蔵文化財センター

2016-07-20 07:33:06 | 学ぶ

今月、23日に「日本の旧石器文化の中の北海道」演題で講師 稲田浩司「岡山大学名誉教授」が講演を行います。

サハリンとも深い関係がある北海道の考古学に大きな興味がわいてきます。

講師の稲田先生は、国内はもとよりフランスの旧石器文化研究に造詣が深く、それらの動向も踏まえ、北海道の旧石器文化の位置付けを語ってくれます。

写真 北海道埋蔵文化財センター

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考古学者は択捉島で奮闘しています

2016-07-20 06:41:23 | 学ぶ

考古学者は、択捉島に取り組んでいます。

フルマカモメ - 「漁師-2」と呼ばれる駐車場は、高速道路クリリスクの建設に前世紀の70年代に発見されました。次に、それを部分的に破損していた、彼らはリージョナルミュージアムで報告したよう考古学材料の地元の歴史は、発見されました。その後、研究はオルガShubinaの指示の下で博物館の従業員によって行われます。数年前、高速道路の再建は、千島列島の開発プログラムの準備に計画されています。ロシアの現在の法律の下では、新規建設に着手する前に、考古学者は、歴史的に価値のある物体の存在のための部位を検討しました。特に、再構成された道路の境界は、この歴史的な場所を通過します。その後、救助考古学的発掘に例外的な決定を取りました。

他の部門の代表者でもありますが、サハリン州立大学の歴史学部の学生、労働者を雇った - グループは、それらのほとんど、15人の7月択捉関与掘削の開始に到着しました。これまでのところ、択捉島、8月1日によってスケジュールされた作業でグループリーダーアレキサンダーMozhayeva、SSUの考古学と民族誌の研究者サハリン研究所に記載の方法。おそらく、所見の検出の場合には、滞在の長さは、いくつかのより多くの時間延長されます。考古学的作品の経過時間の間だけの専門家にとって関心のあるものを見つけました。1黒曜石の槍やダーツも、人々が他の2から3000年前に住んでいたか択捉島を訪問していることを決定するために、すでに可能である、発見されました。培養ロープの独特の刻印と陶器の遺跡「縄文」新石器時代には、これらの数字を確認します。

駐車場、古代人、アレクサンドルモジャーエフがあっても最大の考古学的な記念碑と呼んで、海岸に沿って約500メートルを伸ばしたが、ゾーン内の道路区間の再構築に数十メートルを打ちます。それは彼にあったし、現在の年の主な作業を行いました。さらに、彼らは地図描画発掘を行った後、考古学者の終了後、撮影され、文書発見、道路建設業者は、自分の仕事を継続していきます。若い歴史の学生、複数回 - 多分?1年か2年 - 新しい遺跡のための千島エリアに到着します。駐車場「漁師2」の古代の人々は、そのうちの一つは、偉大な考古学的発見をするということが可能です。

学生はほとんど保持された考古学者と彼らの目標を掘削するようになっている場合でも、 - 科学的な仕事を、地元の人たちはアマチュア基づいて古代の集落の検索に従事しています。主催従業員が地域の図書館や博物館の低木を集中、彼らは村Reidovoの周辺に外出してもサイトや入植地を探しています。そして、彼らは見つけます。最近では、古代の人々の生活の疑惑の場所を見つけた庭の小屋、それは科学者に情報を伝えるために、地図上にマーク。ナタリアYevtushenkoとクセニヤVinogradovaは、子どもたちに講義を読んで、掘削および検索のルールについて話しています。子供たちに、8歳から13歳までの高齢者10人以上があり、それは彼らが、彼らがどのような困難が、エキサイティングな仕事、自分の目で見た漁師の村、にした、考古学者の仕事明らかになりました。

 
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歴史を学ぼう Ⅳ 波乱のエリツィン政権 提供 裏典元

2016-07-20 05:01:09 | 学ぶ

第15回 心臓病とチェチェン問題~波乱のエリツィン政権

●エリツィンさん、ウォッカはホドホドに
 さて、ソヴィエト連邦が解体し話の中心はロシア連邦共和国へと移っていきます。
 初代大統領に就任したのが、ボリス・N・エリツィン(1931~ 位1991~99年)です。ゴルバチョフによって共産党モスクワ市委員会第1書記などに任命され改革を進めたところ、保守派と対立し、ゴルバチョフによって解任されたのは前回見た通りです。そして民衆からの人気は高かった彼は91年6月のロシア大統領選挙で、勝利。この頃、有名無実になっていたソ連のゴルバチョフ大統領に対して発生した共産党のクーデターを防ぐと、ソ連を解体し、ロシア連邦の歴史がスタートします。

 豪快な人物であるエリツィンの逸話というのも面白いんですね。
 というか、この人もウォッカ(ウォトカ)が好き。まあ、ロシア人一般にそうですけど(最近は実業家を中心に変わってきているようですが)、とにかくエリツィンはウォッカ大好きなんです。例えば、1992年2月、ウズベキスタンの首都タシケントでCIS首脳会議が開催されたのですが、これに出席したエリツィン大統領。鼻の頭が真っ赤の泥酔状態・・・、記者会見で暴言吐きまくります。

 これで懲りたかと思いきや、ドイツでは酔っぱらったままオーケストラの指揮をし、アイルランドでは首脳会議の前に飛行機(特別機
)の中で泥酔し、そのまま爆睡。会議をすっぽかしたとか(もっとも、大統領選に響く、心筋梗塞説を隠すために、「泥酔のため」とし た、と言う話もあります。逆に言えば、泥酔なら国民が納得する、ということ。日本だったら考えられませぬ・・・)。

 まあ、この辺は『ロシアは今日も荒れ模様』(米原万里著 日本経済新聞社)を、お読みください。他にもエリツィン氏、政権に就く前の日本訪問の際、ウォッカへの想いをガバガバそれを飲みながら日本側の関係者に熱く語ったそうですよ。かなり愉快なオッサンであることは間違いないでしょう。

●議会運営は上手くいかず
 このようになかなか面白い人柄だったエリツィン大統領ですが、議会運営はなかなか上手くいきません。
 首相を何人も変えたり、議会を解散したり、この辺は皆さんもまだ良く覚えていると思います。1993年にはルツコイハズブラートフに率いられた何百人もの議員と反エリツィン派のデモ参加者が、モスクワ最高会議ビルを占拠するという事件が発生。エリツィンはこれに非常事態宣言をだし、軍による砲撃で降伏させます。そして12月に国民投票を行い、大統領権を強化する憲法を制定しました。

 この他、急激に資本主義体制へ移行してしまったので、一時は「明るくなったサービス業」などが取り上げられましたが、貧富の差の拡大や、マフィアや財閥の暗躍、官僚の腐敗などが大きく問題になりました。まあ、ソ連時代からの続きとも言えますけどね。

●チェチェン問題
 ところで未だに尾を引いている問題にエリツィンは介入します。
 すなわち、1994年12月に、91年から独立を宣言していたチェチェン共和国に対して侵攻(第1次チェチェン紛争)。これに対し、チェチェンのドゥダーエフ大統領は闘争を宣言します。ロシア軍は首都グロズヌイを占拠するものの、市民が殺されたり、何十万という市民がグロズヌイから避難を余儀なくされるなどしたため、国際批判を浴び、さらに国内の改革派からもエリツィン離れが進みます。

 これもちょっと歴史を観ていきましょう。
 元々、チェチェン地域は18世紀後半にロシア帝国が侵入してきた場所(他の周辺国も狙っていました)。これに対し、イスラム教のシャイフ(指導者)であるマンスールは聖戦を唱え徹底抗戦を開始します。彼は、1791年にロシア軍にとらえられ、94年に獄中で死亡しますが、カフカス戦争と呼ばれる50年にわたる争いが続き、1859年、ロシア帝国に併合されてしまいます。

 これで終わるか、いや、終わらぬ!と、その後も反乱が起きますが鎮圧されちゃいます。
 ソ連が発足すると、山岳自治共和国、チェチェン自治州等と変遷したあと、1936年、この地域一帯はソヴィエト構成国の1つ「チェチェン・イングーシ共和国」とされました。イングーシというのも民族の1つです。つまりセットにされちゃたわけ。

 ところが、第2次世界大戦中に、この地域をナチス・ドイツが占領します。もちろんその後、ドイツは負けるのですが、当時のソ連指導者スターリンは「チェチェン人、イングーシ人はナチスに協力したに違いない!」と考え、現在のカザフスタン共和国に、僅か1日で強制移住させます。しかも老人や妊婦など、移住が困難な人はその場で射殺。これでは恨みを買うのも無理はありません。

 あげくにスターリンが死ぬと「帰還しても良い。ただし援助はしない」となったので、なんとか一部の人達が帰還したところ、すっかりチェチェンはロシア人達の物になっていました。そのため、一部はモスクワに出てチェチェン・マフィアを形成したとか。この辺も今の状況を理解する上で重要そうですね。

 さて、1991年10月にチェチェン・イングーシ共和国で大統領選挙が行われ、ドゥダーエフが当選。ここでチェチェン共和国の分離が行われ、さらに彼はソ連からの独立を宣言。一方、ロシア連邦側は「ロシア連邦構成国に入れ」と要請しますが、お断り、です。ただし、ロシアからの援助で公務員の給料、年金などが賄われていたんですね。

 そのため、エリツィン大統領は「そういうことなら、もう援助はしてやらん」と財政支援を打ち切り。
 ちょいと待った。何でそんなにチェチェンにこだわるんですか。

 実は、チェチェン失うと、ここを横断する石油パイプラインを失ってしまい、さらに他のロシア連邦を構成する共和国も独立する可能性が出てくるのです(他が独立すると、さらに石油パイプライン、ヘタをすると油田も失う)。

 ですから、なんとしてもチェチェンの独立は阻止したかったんです。一方、ドゥダーエフ大統領が独立を宣言したのは、逆にこのパイプラインを獲得し「ここを横断する石油から通行料を取る」というのが狙いだったからと言われています。

 さて、こうなりますとチェチェンの経済は悪化し、ドゥダーエフ大統領は不人気になります。ところが彼はそれに対し議会の解散、首相の解任、大統領直轄統治=独裁を開始。そのため、チェチェン内戦が起こります。

 そこでエリツィン大統領の出番。
 「オレがこの内戦を止めてやる」と、1994年12月にロシア軍をチェチェンに侵攻させます。そして1995年3月、ロシア軍は首都グロズヌイを制圧。一方、反ドゥダーエフ派の親ロシア政権を承認し、これを支援してロシア軍を一帯に駐留させます。

 ところがチェチェンのドゥダーエフ支持の強硬派・武装勢力は人質作戦などを展開し、ロシアを苦しめ、さらにその対応に対する国際的非難(市民の巻き添え等)をロシアに向けさせることに成功します。

 もっとも、1996年4月。
 ドゥダーエフ大統領はロシア軍の攻撃で死亡。一方、武装勢力側も穏健派マスハドフ参謀長が、ロシアとの和平交渉を開始し1997年5月、「独立問題は5年間棚上げ」で合意し(平和と相互関係に関する条約)、さらにマスハドフはチェチェン大統領に当選します。こうして、ロシアによるチェチェンの独立黙認という曖昧な決着を付け、ロシア軍は撤退。これでお仕舞い・・・になるはずだったのですが。強硬派はマスハドフ大統領の言うことを聞かず、テロなどを行っていきます。

●2期目のエリツィン
 チェチェン問題は横におきまして、少し話を前にしましょう。
 1996年には大統領選挙が行われます。これにはゴルバチョフも参戦しますが、ゴルバチョフは1%も得票できず惨敗(マスコミは、グラスノスチで恩恵を受けたこともあり、彼を支援しましたが)。選挙の焦点はエリツィンVS共産党のジュガーノフ委員長でした。決選投票でこれをエリツィンは破り再選を果たします。

 しかし、経済は停滞、さらにエリツィンの心臓病が悪化し、手術と入院を繰り返していたのも覚えていますよね? そのため、この頃エリツィンに代わって、彼の次女タチアナが政治を事実上執っていたのですが、彼女に汚職疑惑が発生し、完全にエリツィンの権威は失墜します。

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猫が主役か・・・ネズミ退治大臣二期目 無給です。

2016-07-19 18:49:29 | 動・植物・環境

2011年より英国首相官邸に住み着いております。

これから、誰が首相になるか分からないので「お前の将来は分からない。家出の仕方を勉強しておけ・・・それがお前の幸せだと思うぞ」

「そういわれても誰が家主になるのかわからないからしばらく寝て待つわ」  良かった良かった 「これで安泰です。官邸のネズミ退治は退治大臣にお任せ下さい」

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歴史を学ぼう Ⅱ デタントと冷戦   提供 裏典元

2016-07-19 04:41:38 | 学ぶ

第13回 冷戦とデタント

●ブレジネフ政権
 そんなわけで、ブレジネフ第1書記を中心とする政権が誕生。彼は、スターリン批判に「ふた」をすることで、次第に広がっていた知識人他による民主化の動きに釘を刺します。一方、それまで禁書と呼ばれる本があって、人々は自由には読めなかったのですが、家の中では読んでもいいことにします。なかなか、アメとムチの策士ですね。

 しかし、チェコスロヴァキアでプラハの春事件が起こり、大きな衝撃を与えます。
 すなわち、当時、チェコスロヴァキアでは、ドプチェク第1書記らが「人間の顔をした社会主義」を目指して、検閲の廃止、言論や集会の自由、市場経済導入の試みなどの政策が、次々とうちだされていったのですが、これが他国にも波及し、民主化の動きが起こっていく恐れが出てきます。

 当然ソ連は認めるわけにはいきません。ワルシャワ条約機構首脳会議を招集し、ドプチェクを非難するのですが、彼は引き続き改革を進めます。てなわけで、ソ連はついに軍事介入を決定。ドプチェクを逮捕し、抵抗する市民数十人を射殺しました。ちなみに、さすがにこれには資本主義国内の共産党も、こぞって非難しました。

 また、ブレジネフ政権の下、ますます中国の共産党とは関係が悪化。
 一方でアメリカとは、ヴェトナム戦争で両陣営に分かれていたのですが、ちゃっかり核問題をカードにニクソン政権と雪解け(デタント)。ソ連の石油資源と、アメリカの穀物を交換します。石油は石油危機の影響もあって、最初は高く売れました。また、ヘルシンキ宣言
 ・戦後ヨーロッパの秩序を崩さない
 ・人類のために交流を行う(留学生を受け入れ)
 とされ、文化も少し解放。モスクワの町の中でビートルズの音楽が流れるようになります。
 でも、相変わらずモスクワ市民の生活は苦しかったのですが。

 この後、ブレジネフ政権はアメリカのレーガン政権と仲が悪くなり、またアフガニスタン侵攻をおこないます。
 何でレーガンと仲が悪くなったか? それは、ソ連が量的に軍拡を成功したのを見て(と言うか、そう宣伝していたのを信じて)、レーガンはアメリカ軍の質の向上を開始したからです。ソ連は軍拡につながるとこれを強く非難しました。

●ソ連のアフガニスタン侵攻
 アフガニスタン問題について少し書いておきますと、まず1973年7月、ムハンマド・ダーウドという人物が、従兄弟のザーヒル国王を追放して政権をにぎり、アフガニスタンを共和国と宣言したことに端を発します(77年初め、新憲法公布&ダーウドは大統領に就任)。

 ところが、1978年4月にアフガニスタン人民民主党がクーデタを起こしてダーウドを殺害!
 国名をアフガニスタン民主共和国とし、親ソ連のノール・ムハンマド・タラキーが革命評議会議長に就任します。ところが、宗教界を弾圧しイスラム教徒が反発。さらに、内部抗争も起こり、ハフィーズッラー・アミーン首相がタラキーを追放して革命評議会議長の座を奪い、実権を握るのですが、面白いことに、この人物はアメリカ寄りだったんですね。

 ソ連と国境を接する国がアメリカ寄り・・・。安全保障上の問題もあり、許せん話だ!
 というわけで、1979年12月、ソ連軍がアフガニスタン全土に侵攻し、主要都市を占拠。そして、アミーンを処刑し、78年に亡命していた元副大統領のバブラク・カルマルを大統領に就任させます。

 ですが、国内の混乱は収まる気配を見せず、多くの人達がパキスタンに難民として向かいました。
 そしてこのソ連よりの政権に対し、アメリカなど西側諸国はイスラム聖戦士(ムジャヒディン)を育てて抵抗を支援。その抵抗運動は強力で、これに手を焼いたソ連軍は、1989年にアフガニスタンから撤退します。しかし、このムジャヒディン達は内部抗争を始めてしまいます。

 ついでに、この後も書いておきましょう。
 この内部抗争に対し、人々は嫌気がさしていたのですが、この中で、パキスタンの援助で、アフガニスタン解放軍が組織されます。主に、パキスタンの難民キャンプにいるアフガニスタン難民の若者が中心で、さらに1994年9月頃、若者とイスラム神学校の教師達で 「タリバーン(神学生)」が組織されます。その勢いは強力で、1996年には首都カブールを陥落。アフガニスタンの支配権を確立した。これに対し、ムジャヒディン3派は北部同盟を結成し、国土の一割をなんとか支配。必死の抵抗を続けます。

 このあとは、皆さんもよく知っている通りです。
 タリバーンは、指導者ムラビ・モハマド・オマルの下、イスラム教の中でも特に独自解釈も加えた厳格な統制を住民に敷き、女性の就労や教育の禁止、さらに体をすっぽりおおうブルカの着用を強要します。一方、男性にはあごひげを生やすことを強要。さらに、映画や音楽、テレビなど、あらゆる娯楽を禁止します。違反者には宗教警察が厳罰を加える・・・。元祖イスラム政権であるイランでさえ「やりすぎだ!」と非難声明を出していたそうです。

 そして、偶像崇拝を禁止して美術館や博物館、さらにはバーミヤンの大仏を破壊。
 さらに2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロの首謀者、ウサマ・ビンラディンと、イスラム過激原理主義組織アルカイダのメンバーをかくまっているらしいことが判明。何故かくまっていたかというと、タリバーン政権はパキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦しか承認されておらず、資金力の豊富なビンラディンと組まざるを得なかったとか。

 しかし、バーミヤンの大仏を破壊していたこともタリバン政権に対する国際的な嫌悪感を増幅させ、アメリカ軍と北部同盟による連合作戦が開始。抵抗は厳しい・・・と思われていましたが意外とあっさり、政権の座を追い出され、現在はアフガニスタン南部あたりで再起を伺っている・・・と言った状態のようです。さて、ちょっと長くなりましたね。話を元に戻しましょう。

●話を元に戻して
 1982年、ブレジネフは死去しました。
 そして指導部は84年にアンドロポフ、85年にチェルネンコが死ぬと、いよいよ54歳のゴルバチョフに書記長の座が回ってきます。彼は、ブレジネフが後継者として育てていた人物で、やはり農業官僚出身でした。

●宇宙開発
 ところでソ連は、アメリカに対抗するために宇宙開発にも乗り出します。
 そしてアメリカよりも早く、1957年には人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功(スプートニク=世界の旅行仲間)。
 さらに11月には、それに犬を載せたスプートニク2号の打ち上げ(この次にアメリカが人工衛星エクスプローラ1号を打ち上げ)。
 そして1959年には、ルナ2号が月に衝突。次のルナ3号は、月の裏側の写真を撮影。

 1961年には、ついに有人飛行に成功。ガガーリン(1934~1968年)が地球を周回し、「地球は青かった」という名言を残します(同じ年、アメリカは周回は出来なかったもののシェバードが宇宙へ。そして翌年に、グレンが周回に成功。最近も宇宙に行ったんだっけ?この人。)

 1963年には、ソ連は初の女性飛行士テレシコワを宇宙へ。
 彼女は、「私はカモメ」と言いました。
 なんのことやら、ですが、つまり彼女は空軍のパイロットで「かもめ─chayka」がコードネームだったからだとか。

 そして65年にはレオーノフが宇宙遊泳を実施。と・・・これ以上書いていたらかなりの量になりますが、このようにアメリカと競争しながら宇宙開発も行っています。探査も続けられ、アメリカのアポロ11号(アームストロング船長)が月に着陸したり(最近、ウソではないかと問題になりましたが)、ソ連が金星の探査を行うなどしています。現在は財政難が課題とか。どうするんでしょうね?

 *そこでこんな情報が寄せられました。
 現在ロシアは軍制も改革してますが、昔は戦略ミサイル軍といえば花形でした。しかしチェチェンでの苦戦を機に通常戦力へ優先的に予算が回るようになり、すっかり寂れてしまいました。耐用年数のすぎたミサイルがまだ飛ぶのを確認しながら、核ミサイルの弾頭を衛星に積み替え、細々とアルバイトしてるそうです。

 また、エクスプローラと言えば・・・?
 中国語のパソコン用語では、IE(インターネットエクスプローラ)が「探検家」、ネットスケープが「導航者」だそうです。
 以上、余談でした。


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札幌は観光一色です

2016-07-18 06:42:09 | 旅行・観光・買い物

連休もありますが、札幌市内には外国からのお客さんそして学生たちの修学旅行と市内は、大勢の観光客が楽しんでいます。 銀太君にる幌馬車観光も本格的です。 平年より個人旅行が増えた感じがしました。 市内は他にJAZZフェステバル「昨日 栗田トリオ」を聴いてきました。 ビールが美味かった。演奏も当然上手かった。 PMF音楽祭も並行して開催されています。

台湾からのトロイカ・メンバー

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