俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

漢字の統一

2007-11-14 21:08:52 | Weblog
 日本では常用漢字を使っている。中国では簡体字を使っている。台湾と韓国では昔ながらの正漢字を使っている。わずか4つの国が3種類の字体を使っている現状を早急に改める必要があるだろう。
 中国で簡体字が導入されたのは実に単純な理由からだろう。複雑な字は覚えるのも書くのも大変だからだろう。日本語にはひらかなやカタカナがあるが中国語には漢字しか無い。「薔薇」とか「憂鬱」などを漢字で書くのは大変だ。だから簡体字が導入された。
 中国へ行って筆談をしていて失敗したことがある。「開業」と書いてしまった。当然「それは何か」と聞かれた。簡体字では「開」の門構えの中の「鳥居」だけで「開」になり「業」の「上の4画」だけで「業」にするような簡略化が進められている。
 パソコンの普及により複雑な文字を嫌う理由は無くなった。日本の文字に合わせるなら漢字の本家・中国のプライドが許さないだろうが、本来の文字に戻すのなら文句はあるまい。中国では本来は違った字で書くべき文字を音が同じという理由で同じ簡単な文字で書いて、本来の表意文字を表音文字として使っているケースまである。こんな問題点も旧漢字に統一すれば克服できる。日本・中国・韓国・台湾の漢字が統一できればお互いに便利だし、新たに東アジア語を学ぶ人にも歓迎されるだろう。

守破離

2007-11-14 21:08:39 | Weblog
 知識なり技能なりを身に付けるためにはまずは習わねばならない(守)。習ったことが相互に対立して齟齬を生じる(破)。対立を超えて独自の世界に至る(離)。「守破離」の私なりの解釈だ。若干ヘーゲルの「正反合」に引きずられた解釈とも思える。
 「守破離」は能だけではなく茶道や武道など修養全般にも普遍的に使える素晴らしい概念だ。勿論ビジネスにも応用できる。
 言葉で一番表現し易いのは「破」のレベルだ。常識とされていることに反旗を翻して価値転換を図ることは決して難しくない。例えば西洋思想に東洋思想をぶつけてその対比をするだけでも随分面白い文章が書けるし読んでいても面白い。但しこのレベルに留まってはならない。「あれも駄目、これも駄目」という駄々っ子のような状態でしかない。「離」のレベルを目指す必要がある。
 しかし「離」に至ったらそれを表現することは非常に難しい。もし独自の世界に至ったならばそれを表現する「言葉」が無い。言葉は既に共有されている概念だからまだ共有されていない概念を表現する言葉などあろう筈が無い。比喩や寓話に頼らざるを得ないことになる。

パニック

2007-11-14 21:08:29 | Weblog
 日本人の地震に対する鈍感さと疫病に対する過剰反応は私には不可解だ。
 マグニチュード6以上の地震の2割が日本で起こっているらしいし、ほぼ毎日のようにどこかで体感地震が起こっている。西洋人ならパニックを起こすのではないだろうか。日本人が平気なのは慣れていることに加えて「日本列島と心中するならやむを得ない」と諦めているからではないだろうか。それ程までに日本人と日本列島は一体化している。日本人は徹頭徹尾土着民族のようだ。
 その一方で疫病に対しては過剰に反応する。ハンセン病に対する酷い差別やエイズ発生時のパニック、SARSや鳥インフルエンザに対する恐怖ぶりは到底まともな反応とは思えない。多分日本人は疫病を極度に恐れることを生存戦略として生き延びて来たのだろう。その性質が今も色濃く受け継がれている。
 地震は人力では克服できないが疫病は予防できるという合理的判断に基づいているようには思えない。余りにも地震に対しては寛大で無神経過ぎる。

平均値

2007-11-14 21:08:14 | Weblog
 平均値であることは正常を意味しない。平均値のほうが異常な数値であることもよくある。例えば日本の終戦直後の平均的栄養摂取量はとても健康を維持できるレベルではなかった筈だ。平均値だから正常だとは到底言えない。現代のアメリカ人の平均的栄養摂取量も正常とは思えない。少し食べる量を減らして、余った分を貧困国の援助に回したほうが余程健康にも良かろう。
 異常という言葉は生存にとって危険な状態や病的な状態などを指すべきだろう。身長190cmは平均値からは大きく隔たっていても「異常」と呼ぶべきではない。高い声も低い声も殆どが正常な声であって中くらいの声だけが「正常」ではないのと同じことだ。

相手による評価

2007-11-14 21:07:59 | Weblog
 主語としての「I」が文法上の習慣になっているせいか、西洋哲学では自我や主体を過大に重視する。「我」が評価の基準になるのは当然と考えている。その考え方とは反対となる、相手や周囲を評価者と設定することは異端思想だろう。
 日本では「世間の目」を気にするのは当然のことだ。それどころか自分を基準にした倫理など「独り善がり」の独善的な善でしかない。相手や周囲が喜ぶかどうかを基準にすることは西洋哲学では異端思想でも日本では自然な考え方だろう。
 相手や周囲を基準にすれば、自分で「こうだ」と決め付けて我が道を進むことはできなくなる。常に周囲の評価を気にせねばならなくなる。これは主体性を欠いた態度だろうか?とんでもない!良かれと思ってしたことが相手の思わぬ反発を招くことがあるが、その行為は良い行為か悪い行為か。一般には通用してもその人には通じないデリカシーを欠いた軽率な行為だったと言えるだろう。
 英会話でも正しく発音することが重要なのではない。舌を巻いてRの発音をしたつもりでも正しく聞こえねば意味が無い。発音することよりどう聞こえるかが大事であって、発音する方法ばかり研究していても片手落ちだ。それと同様に相手や周囲に善意が伝わってこそ意味がある。伝わらない善意は意味が無い。
 相手や周囲を快適にさせる行為が良い行為であって独り良がりな自己満足は倫理的な行為ではない。行動基準が「思いやり」とか「優しさ」とかいった他者との関係に基づく言葉でしか表せないのは、判定権が自分ではなく相手にあるからだ。
 注:この記事は前の記事「行為の良し悪し」の続きになっていますので必ずそちらを先に読んでください。

行為の良し悪し

2007-11-14 21:07:40 | Weblog
 ある行為が良いか悪いかは行為を行う人本人ではなく行為の影響を受ける人が決めるべきではないだろうか。こんなことを言ったら倫理学者から怒られそうだ。彼らは行為そのものではなく行為者の意志や意図に注目して倫理を確実なものにしようとしているのに、その反対に行為者から判定権を奪ってしまえば「倫理は崩壊する」と彼らは言うだろう。
 セクハラを例に採って考えてみよう。最も有名なセクハラ事件は元大阪府知事の横山ノック氏の選挙運動員に対するセクハラだろう。
 横山氏は顔見知りの人に対して抱きつく癖があったらしい。芸能人や支援者に大袈裟に抱きつくことは彼にとってはスキンシップであり仲間の拡大という意味を持っていた。抱きつかれたほうも悪い気持を持つ筈がない。コメディアンであり政治家でもある横山氏と抱き合ったということは仲間にも自慢できる話だ。
 当たり前の話だが抱きつかれて喜ばない人もいる。政治的に対立している人や横山氏のファンでない人の殆どは喜ばない。そんなことは横山氏は当然知っている。だから敵対する人には決して抱きつかなかっただろう。ところがまさか支援者の中に喜ばない人がいるとは思わなかった。スキンシップのつもりで抱きついてセクハラと訴えられるとは思わなかっただろう。
 喜ぶ人に抱きつくことは親愛の情を示したことになっても、喜ばない人にとってはセクハラでしかない。美女に抱きつかれたら殆どの男は喜びこそすれセクハラとは感じない。それをどちらかと判定できるのは抱きつかれた人であって抱きついた人ではない。
 横山氏を弁護するつもりは無いが、相手がセクハラと感じたのだからセクハラなのであって彼が暴行を働こうとした訳ではないと思う。彼が有罪になったのは相手がセクハラだと感じたという事実であって彼の意図がどうであったかはこの際関係無い。

ギャンブル必勝法

2007-11-14 21:07:30 | Weblog
 二者択一方式のギャンブル(ルーレットの赤・緑や奇数・偶数、コイントスの裏・表など)には必勝法がありマーチンゲール法と呼ばれている。但し絶対に勝つためには2つの条件が必要だ。資金が無限であることと掛け金の上限が無いということだ。しかしこれには手を出さないほうが良い。
 千円賭けたとする。勝てばまた千円賭ける。負ければ2千円賭ける。それで負ければ4千円賭ける。更に負けたら8千円賭ける。こうやって負けるたびに倍額を賭けて行けばいずれは当るから理論的には必ず勝てる。但し11回目には百万円台の掛け金になり18回目には1億円台、21回目には10億円台の掛け金が必要になる。途中で止める訳には行かないから、この時点では手持ちの金では足りなくなり小切手を乱発することになる。大抵のギャンブル場では上限が設けられているのでその最後の賭けに負けた時点で破産することになる。1日で何億円も負けて破産する賭博者は大抵この泥沼にはまっているらしい。

新・アキレウスと亀

2007-11-14 21:07:12 | Weblog
 発展途上国が工業化を図って最新技術を導入しても先進国は更に先に進んでいるため発展途上国はいつまでも途上国に留まらざるを得ない。新しい商品を開発しても先進国ではもっと性能の良い商品が作られていて市場競争力を持ち得ない。まるでアキレウスと亀のパラドックスのような話だが深刻な現実だ。先進国と発展途上国の格差は埋められないものなのだろうか。
 日本の成功例をモデルにして突破口を見つけられないだろうか。2つの例を挙げよう。
①小型車
 道路の狭い日本ではアメリカのような大型車は使い勝手が悪く、小型車や軽乗用車が発達した。石油価格が高騰すると低燃費なこれらの自動車の評価が世界中で高まった。
②クウォーツ時計
 日本人は時間を大切にする。時計に対する要求は少しでも正確さが増すということだった。スイスではゼンマイに対する技術的なコダワリがあり、電池で動くクウォーツをオモチャのようなものと考えて軽蔑した。世界は安価でしかも正確な時計を優れた商品と評価した。
 要するに「追いつけ追い越せ」ではなく先進国との「棲み分け」を狙った戦略が国際的に支持を得て大成功に繋がったものと思われる。発展途上国が採るべき戦略も同じように先進国とは違った価値の発見と追求ではないだろうか。

抽象論

2007-11-14 21:06:58 | Weblog
 人間の脳は抽象的に考えることが苦手なようだ。考えることが苦手なだけに議論ともなれば抽象的な内容は結論を出しにくい。「なぜ人を殺してはいけないのか」もその1例だろう。
 具体的にすれば良い。「誰が」「誰を」殺すのかを明確にすれば議論は一気に進む。読者と私の共通の知人を設定することは難しいのでやむを得ず有名人を使おう。「ハンマー投げの室伏広治選手はなぜ野球のイチロー選手を殺してはいけないのか」ならすぐに答えは出る。殺す理由が無いからだ。芸能人同士ならこうなるだろう。「宇多田ヒカルさんはなぜ浜崎あゆみさんを殺してはいけないか」
 人間の脳は抽象語を自由自在に操るようにはできていないようだ。実は日本語には明治になるまで哲学的な抽象語は無かった。抽象語は日本人にとっては馴染みの薄い人工的な輸入言語でありまだまだ充分には使いこなせていない。

朝令暮改

2007-11-14 21:06:45 | Weblog
 「朝令暮改」は「言うことがアテにならない」などの悪いニュアンスで使うことが多いが、この言葉を「君子豹変」と同様、良い意味で使いたいと思っている。
 人は一旦決断したことに捕らわれ勝ちだ。思い入れがあると客観的に判断できず「茹でガエル」のようにズルズルと深みにはまる。情報が足りない時点での早急な決断に拘泥すべきでないことをパズルを使って数学的に証明しようと思う。
 ここに3枚の裏向けたカードがある。貴方がハートのエースを選べば勝ちだ。貴方は真ん中のカードを選んだとする。正解を知っているディーラーは左端のカードを表向けた。目的のカードではなかった。今、貴方はカードを選び直すことができる。今のカードのままか右端のカードに替えるか?
 多くの人は「どちらも確率50%だから替えても替えなくても同じだ」と判断する。ところがそれは大間違いで右端のカードに替えたほうが圧倒的に有利だ。
 最初の選択での正解率は1/3だ。すなわち不正解率が2/3だ。デーラーが外れのカードを表向けた時点で右端のカードが正解である可能性は2/3に高まる。多分納得しない人もいるだろう。数学者でさえ引っかかるパズルなのだから。疑う人は実際に試して欲しい。
 納得頂いたという前提で話を進める。ある経営者が「最善手」を含む10の選択肢から経営判断をするとする。彼はある1手を選んだとする。時間の経過に伴い3つの選択肢は駄目だったことが分かったとする。彼は悪い選択をしなかったことに満足するだろう。
 ここでは満足ではなく再検討をすべきだ。選択肢は10から7に減った。彼の選択の正解率は10%だが、他の6つの選択肢の正解率は15%なのだから。(9/10×1/6)
 勿論この理屈は議論を分かり易くするために「最善手」が1つだけあるという非現実的な前提に基づいているが、仮に「最善手」という前提を省いても直近の状勢に基づいて判断し直すほうが有利なことは間違いない。