俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

事実と虚構

2009-04-13 14:23:39 | Weblog
 変な言い方だが私は「肉体は俗界に、魂は聖界に」という立場を貫きたいと考えている。
 肉体は現世に置くしかない。そしてその現世は決して高尚な世界ではない。多分社会を動かす最も重要な要素は「金と女と権力」だろう。しかし「こんな社会は間違っている」とダダをこねても仕方が無い。なぜ「金と女と権力」が社会を動かすのかということを冷静に分析したいと考えている。
 物理学が事実に基づいて理論を作るように哲学(思想)も事実に基づいて築かれるべきものだ。「事実」は善でも悪でもないし、勿論、美でも醜でもない。善悪美醜以前のもの、あるいは善悪美醜の大元となるものだ。事実を否定して虚構の中で砂上の楼閣を築くことは詩人に任せておけば良い。私は宙に浮いた幻の花ではなく、汚れた沼に咲く蓮の花を目指したい。

進行方向

2009-04-13 14:07:16 | Weblog
 歩道を歩いても車道を走っても、同じ方向へ進む人よりも逆の方向へ向かう人のほうが多いと感じる。追い抜かれたり追い越したり並んで進む人と比べてすれ違う人のほうが圧倒的に多い。
 それは当然だ。同じ方向へ向かう場合、速度差が無ければ追い越しも追い抜かれもしない。もし全員が4km/hで同方向に歩いていれば追い越しも追い抜かれも発生しない。
 一方、逆方向へ向かう人とは必ずすれ違う。すれ違う数のほうが圧倒的に多くてもそのことが少数者である証となる訳ではない。逆方向へ向かっている人にも同じ現象が起こっているからだ。
 芸能人がスキャンダルを起こした場合、非難の電話やメールが殺到する。非難90に対して擁護10の割合だったとしても多数者が非難していると決め付けるのは誤りだ。進行方向の例と同様、同調者は少なく見える。非難する人と比べて擁護しようとする人は行動を起こす動機に乏しいし、更にそれをスキャンダルだと考えない人は擁護しようとさえ思わない。
 全く違った例も挙げよう。ポール際の微妙な打球がホームランと判定された時に抗議するのはファウルだと思った人だけだ。ホームランだと思った人は沈黙する。判定を擁護して主張するのはむしろ「もしかしたらファウルだったかも知れない」と思った人だけだろう。かつてニクソン大統領はこれをサイレントマジョリティと名付けた。言い得て妙だ。

過剰反応

2009-04-13 13:51:28 | Weblog
 「過剰反応するな」という命令は常に正しい。「過剰反応」は「誤った極端な反応」であり「正当な反応」のほうが望ましいことは言うまでもない。
 しかし「過剰反応だ」という主張の多くは間違っている。決して過剰な反応ではなく「正当な反応」だからだ。
 世論の反応に不満を持つ政治家は「世論がおかしい」とは言えないのでその代わりに「過剰反応だ」と言う。これは詭弁術の一種だ。
 抽象論では分かりにくいので具体例を挙げよう。北朝鮮によるミサイル発射に関して北朝鮮を擁護しようとする人は「日本人は過剰反応している」と言う。しかし「過剰」か「正当」かの普遍的な基準などどこにも無い。ただ単に「日本人の大半が私の基準とは違った反応をしている」ということを「過剰反応している」という言葉を使って否定しようとしているだけだ。
 私個人の意見としてはマスコミは量的には過剰反応したと思う。総ての他のニュースを葬り去るほどのニュースバリューは無いにも関わらず、北朝鮮のミサイルのニュースばかり見せられて些かウンザリした。
 量的には過剰な反応だったが質的には過剰とは思えない。厳しい言論統制と思想統制をする危険な近隣国が核兵器とミサイルを持つことが日本の安全を脅かすことは確実だ。北朝鮮の立場を支援しようとする国でさえ擁護できないほどの理不尽な行為であることは国連での各国の対応を見ても明白だ。