俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

マナー

2015-12-21 09:46:28 | Weblog
 社会にはルールとマナーがありこの両者を厳密に区別することは難しいが、混同され勝ちだから敢えて仕分ける。劉邦が布告した「法三章」が最も分かり易いルールだろう。「殺すな、傷付けるな、盗むな」の3つだけを民衆に命じた。法家の思想を重視した始皇帝による圧制によって雁字搦めにされていた秦の民衆はこの法三章を大歓迎した。ルールには民衆を守る側面と民衆を支配する側面の両面がある。
 「子供を大切にしなさい」はルールではなくマナーだ。もしこれがルールになれば大変なことになる。駄々を捏ねる子供を泣かせた母親が犯罪者にされかねない。その一方で児童虐待禁止はルールだ。親孝行もマナーであってルール化は難しい。
 ルールに従えば良いのであれば自動車の自動運転はすぐに実用化できる。ところが右折はルール化できない。対向車の好意に依存することが多いからだ。機械はルールに従うことならできるがマナーを活用できない。マナーを理解するためには機械的ではない高度な知性が必要だ。
 ルールとマナーがグチャグチャにされているからルールがマナー扱いされたりマナーがルール扱いされたりしている。「交通ルールを守りましょう」は変な標語だ。ルールは「守りなさい」だ。ルールを破れば罰される。その逆に「喫煙マナー厳守」もおかしい。法や条例で定められていない行為は本来、拘束できない筈だ。
 差別禁止はルールだ。性や人種などによって差別してはならない。しかしアメリカでは能力による差別(区別)だけは公認されている。能力が足りなければプロスポーツ選手やアーティストになれないように、あらゆる職業において能力が問われる。能力による区別まで差別と見なせば変な形で本音と建前が乖離する。
 誹謗中傷の禁止はルールだ。事実に基づかないことを悪意を持って公言してはならない。昔であれば公言できる場は限られていたからどこかでチェック機能が働いたが、インターネットの普及によって誰でも公言できる社会になってしまった。そのために正当な批判と誹謗中傷を区別できない人まで公言して問題を起こす。身体障害者を撮影して笑いものにしたり企業や個人に対する私怨を並べることなどはルール違反だ。
 その一方でマスコミが勝手に定めた放送禁止用語をまるでルールのように思い込んでいる人がいる。放送禁止用語はルールとマナーが混在しているからこれをルールとして振り回せば言論統制にもなりかねない。「魚屋」や「八百屋」は放送禁止用語だがこれらを日常用語として使う限り差し支えない。
 同性愛者を差別することはルールに背くがマナーを守った上で「同性愛は異常」と主張することは言論の自由だ。これを差別と決め付けて糾弾することには何の正当性も無い。「同性愛は正常」ということが学術的に認められている訳ではないのだから同性愛の肯定を強いることこそ言論弾圧でありルール違反だ。
 電車やエレベータの乗降はマナーだ。乗っている人が降りてから乗ることは誰が考えても理に適っている。しかし乗降客数の少ない駅ではこれが守られていない。トイレやレジでのフォーク並びも合理的な仕組みだがこれもマナーだから強制できない。

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