俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

民族主義

2015-06-07 09:44:25 | Weblog
 民族主義という言葉は日本では良い意味では使われない。なぜか大和民族至上主義の類義語として捕えられ勝ちだからだ。そしてコスモポリタンであることが奨励される。しかしウィグルの現状を知れば知るほど、価値観を共有しない人との共存は難しいと感じる。私はコスモポリタニズムはあり得ないと思っている。それはimpossible dream(夢想)だろう。人は根無し草にはなれない。
 ウィグル族が漢民族と価値観を共有できるだろうか。より正確には漢民族による文化の押し付けに耐えられるだろうか。イスラム教を捨てて豚を食え、という2つだけでさえ受け入れ難いだろう。
 インドとバングラデシュの間には何と160もの飛び地があったそうだ。昨日(6日)にようやく解決されたらしいが、これはヒンズー教徒とムスリム(イスラム教徒)の居住地が入り組んでいたから飛び地にせざるを得なかったのだろう。
 共存とはお互いの価値観を尊重し合ってこそ可能だ。多数者の価値観を押し付けることは同化ではなく正に植民地支配なのではないだろうか。
 辛亥革命後の中華民国では五族共和、満洲国では五族協和が唱えられた。前者は漢・満・蒙・回・蔵(チベット)で、後者は満・日・韓・蒙・漢であり構成メンバーが異なる。中華文明圏の国々だけで構成される後者と比べれば、前者のほうが回つまりムスリムのウィグル族が含まれるだけに共和は一層難しい。
 中東であればスンニ派とシーア派などによる対立はあってもイスラム教という共通の価値基盤があるので何とか共存できるだろう。これはキリスト教が新教と旧教の壁を乗り越えられることと似ている。しかし無神論である儒教徒の漢民族とムスリムによる共存は極めて困難だ。
 狭い日本列島で歴史と文化を共有して来た日本人には共存できない異文化があるとはなかなか理解できない。譲り合えば共存できると能天気に考えている。国内では圧倒的少数者である他民族は大人しい。しかしある程度人数が増えれば「郷に入っては郷に従え」という理屈だけではなく民族としての独自の権利を主張する。愛知県のブラジル人や各地の中国人などがそれであり、それぞれの地域では問題化している。
 宗教的偏見とは気付かずに日本のクジラ漁を批判する欧米人は日本人からは異常者としか思えないし、クジラばかりかタコ(devil fish)やフグまで食べる日本人をゲテ物食いの野蛮人と彼らは思っているだろう。
 明治維新とは文化革命だった。西洋列強の植民地にされないためには自ら西洋的価値観を受容するしか無かった。文化の壁を超えることは難しい。基本的な価値観を共有できなければ共存は不可能だろう。

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