新国立競技場はA案に決まった。別にB案を支持したい訳ではないが、これを決める手続きに疑問を感じる。結果は610点対602点だったとのことだがたった一人の意向で覆せるほど小さな差だ。各審査委員の持ち点は140点だったのだから誰かがB案に9点加点あるいはA案から9点減点していれば結果は逆になっていた。
採点に頼るスポーツの大半は最高点と最低点をカットし、更に個々の審判の採点を公表する。このことによって不正を防いでいる。スポーツ施設の評価をする人々がスポーツにおける採点方法を知らないとは思えない。なぜ最高・最低のカットや7人の審査委員のそれぞれの採点を公表するというスポーツでは当たり前のことを怠るのだろうか。審査委員の個人批判をしたい訳ではないから匿名でも構わない。個々がどんな評価をしたかのほうが項目別の評価よりも重要だろう。歪な評価をして公正な評価を損なった人がいなかったかどうかが検証されるべきだろう。
昔から体操やフィギュアスケートなどの採点で揉めることは多かった。だからこそ先日の羽生結弦選手の世界最高得点のスコアシートはまるで機械で測定したかのように詳細かつ厳密だった。
ボクシングも必ずスコアシートが公開され、疑惑の判定を繰り返す審判は追放される。WBCでは更に公開採点制度を採用して4ラウンドごとに途中経過を公表している。
タイムや距離を競う種目であれば結果は一目瞭然だから余り揉めない。しかし採点においては必ず主観が入り、しかも配点は任意だからしばしば困ったことが起こる。
5人の面接官が2人を面接して10点法で採点する場合、4人が一方に10点、他方に9点を付けたならこの時点では50対46だ。ところがたった一人が5点対10点と逆に評価すれば合計点は55対56と逆転する。採点を単純に合計すれば極端な採点をする人の意向が反映され易くなる。
もっと単純に2人の面接官が2人を面接した場合、一方が10対9、もう一方が8対10と評価すれば合計点は18対19になってしまう。単純に合計することはしばしば不公平を生む。決して不正工作が目的ではなくても、自分の意向を通したいと考える人はわざと極端な採点をするものだ。
スポーツの採点ではこれまでに何度も問題が生じたからこそ様々な工夫が加えられ単純に加算するような原始的な方法は採用されていない。公正な評価をするために工夫に工夫を重ねて築き上げられたスポーツ界独自の優れた仕組みを採り入れようとしないような人々にスポーツ施設の評価を任せて良いものだろうか。
採点に頼るスポーツの大半は最高点と最低点をカットし、更に個々の審判の採点を公表する。このことによって不正を防いでいる。スポーツ施設の評価をする人々がスポーツにおける採点方法を知らないとは思えない。なぜ最高・最低のカットや7人の審査委員のそれぞれの採点を公表するというスポーツでは当たり前のことを怠るのだろうか。審査委員の個人批判をしたい訳ではないから匿名でも構わない。個々がどんな評価をしたかのほうが項目別の評価よりも重要だろう。歪な評価をして公正な評価を損なった人がいなかったかどうかが検証されるべきだろう。
昔から体操やフィギュアスケートなどの採点で揉めることは多かった。だからこそ先日の羽生結弦選手の世界最高得点のスコアシートはまるで機械で測定したかのように詳細かつ厳密だった。
ボクシングも必ずスコアシートが公開され、疑惑の判定を繰り返す審判は追放される。WBCでは更に公開採点制度を採用して4ラウンドごとに途中経過を公表している。
タイムや距離を競う種目であれば結果は一目瞭然だから余り揉めない。しかし採点においては必ず主観が入り、しかも配点は任意だからしばしば困ったことが起こる。
5人の面接官が2人を面接して10点法で採点する場合、4人が一方に10点、他方に9点を付けたならこの時点では50対46だ。ところがたった一人が5点対10点と逆に評価すれば合計点は55対56と逆転する。採点を単純に合計すれば極端な採点をする人の意向が反映され易くなる。
もっと単純に2人の面接官が2人を面接した場合、一方が10対9、もう一方が8対10と評価すれば合計点は18対19になってしまう。単純に合計することはしばしば不公平を生む。決して不正工作が目的ではなくても、自分の意向を通したいと考える人はわざと極端な採点をするものだ。
スポーツの採点ではこれまでに何度も問題が生じたからこそ様々な工夫が加えられ単純に加算するような原始的な方法は採用されていない。公正な評価をするために工夫に工夫を重ねて築き上げられたスポーツ界独自の優れた仕組みを採り入れようとしないような人々にスポーツ施設の評価を任せて良いものだろうか。
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