俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

流行

2015-12-25 09:40:16 | Weblog
 周囲の価値観が変わるとすぐにそれに順応する人が少なくない。敗戦後はアメリカ式の民主主義が正しく戦前の日本は悪と決め付けられた。最近は「同性愛は正常」と言わなければならないらしい。では同様にロリコンやスカトロジーも正常と言わなければ性的少数者に対する差別になるのだろうか。こんな、価値観の押し付けにはうんざりする。
 韓国では日帝による植民地支配は絶対悪であり日本による統治について少しでも好意的に評価すれば糾弾される。従軍慰安婦は総て日帝の犠牲になった無垢の少女であり、朝鮮人が仲介したことや売春婦が少なからずいたことなどを認めれば告訴される。
 日本でも韓国でも国民の意思によって言論の自由が破壊されつつある。
 これは「多数決が正しい」という妄想が生んだ社会現象だろう。多数者が正しいのだから少数者は間違っているという無茶苦茶な理屈だ。異端者を許さない宗教裁判のようなものだ。世論こそ絶対であり世論に背く者は糾弾される。
 ミシュランの3つ星は絶対価値でありそれに疑いを挟んではいけないらしい。しかしラーメンやお好み焼きの評価をフランス人に任せて良いとは思えない。日本人が評価すべきことであり、それ以上に自らの評価を重視すべきだろう。
 ファッションであればそれにある程度従わなければ時代遅れと見なされる。それでも時流に流される必要などあるまい。一時期のミニスカートの大ブームは滑稽でさえあった。流行と言うよりもマインドコントロールされた状態に近かった。
 昭和50年代の服は流石に古臭くて着られないが、思想はそうではない。18世紀のカントどころか紀元前のプラトンでさえ全然陳腐化していない。
 多数決によって真理が分かるという迷信は早急に否定されるべきだろう。多数決によって分かるのはあくまで現在の状況であってそれは価値を意味しない。仮にAKB48のほうがサザンオールスターズよりも人気があってもAKBのほうが優れているという意味にはならない。
 比較的自己主張があるのは味覚だろう。甘さ辛さは勿論、香りや食感に対する好みも人それぞれだ。日本人の多くがコリアンダー(パクチー、香菜)を嫌う。これをどう評価すべきかは各自が決めるべきことであって、料理研究家が決めることでも多数決で決めることでもない。思想は味覚以上に根本的なものであり自分が拠って立つ根拠だ。頑固であるべきではないが、時流に流されたり空気を読んでそれに従うべきことでもない。時流に流された人々が多数派となって少数派の口封じをするようであれば言論の自由は失われる。

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