残念ながら真と善が予定調和する訳ではない。汎神論の立場を採らない限り真=善とはならない。しかし真と善には密接な関係がある。
真のためには善(倫理性)が必要だ。客観性や謙虚さ、言い換えれば自らの誤りを認める勇気と誠実性を欠けば真に至ることはできない。自分とは異なる意見を正しく理解して弁証法的に止揚できなければ真に到達することは不可能だ。
善のためには真が不可欠だ。真を欠いた善は危険だ。ナチスやオウム真理教が信じた善は限りなく悪に近い。善は事実に基かねばならない。
異論はあろうが、働かなくても全員が豊かな暮らしを満喫できることは1つの理想だろう。しかしこの理想は実現不可能だ。誰も働いていなければ快適な暮らしはあり得ない。理想は現実的でなければならない。
かつて進歩的文化人と称する、事実よりもイデオロギーを優先する奇妙な輩がいた。彼らは共産圏のやることは総て正しいと信じて、今では中国でさえ否定している文化大革命や批林批孔を絶賛し、北朝鮮を「地上の楽園」と讃えたものだ。彼らはこれらの誤謬をどう総括したのだろうか。
事実重視者の中には否定主義者もいる。例えば人の美しさは皮膚1枚であり皮膚を剥がせば化け物になる。彼らはこのことを根拠にして「人の本質は醜い」と言う。しかし皮膚を剥いだ姿が真実であるように皮膚を纏った姿も真実だろう。どちらかだけを「真の姿」と決め付けるべきではなかろう。人の体内には汚物がある。それでも人間はただの汚物袋ではない。
真のためには善(倫理性)が必要だ。客観性や謙虚さ、言い換えれば自らの誤りを認める勇気と誠実性を欠けば真に至ることはできない。自分とは異なる意見を正しく理解して弁証法的に止揚できなければ真に到達することは不可能だ。
善のためには真が不可欠だ。真を欠いた善は危険だ。ナチスやオウム真理教が信じた善は限りなく悪に近い。善は事実に基かねばならない。
異論はあろうが、働かなくても全員が豊かな暮らしを満喫できることは1つの理想だろう。しかしこの理想は実現不可能だ。誰も働いていなければ快適な暮らしはあり得ない。理想は現実的でなければならない。
かつて進歩的文化人と称する、事実よりもイデオロギーを優先する奇妙な輩がいた。彼らは共産圏のやることは総て正しいと信じて、今では中国でさえ否定している文化大革命や批林批孔を絶賛し、北朝鮮を「地上の楽園」と讃えたものだ。彼らはこれらの誤謬をどう総括したのだろうか。
事実重視者の中には否定主義者もいる。例えば人の美しさは皮膚1枚であり皮膚を剥がせば化け物になる。彼らはこのことを根拠にして「人の本質は醜い」と言う。しかし皮膚を剥いだ姿が真実であるように皮膚を纏った姿も真実だろう。どちらかだけを「真の姿」と決め付けるべきではなかろう。人の体内には汚物がある。それでも人間はただの汚物袋ではない。
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