生きることは当然権利として認められているが、快適に死ぬ権利は今のところ認められていない。自然死に至るまで生きることが義務だと考えられ、死ぬ直前まで頑張り抜くことが美徳とされている。
たまに尊厳死や安楽死が取り沙汰されることもあるが、あらゆる快感が損なわれて全身の苦痛と痒みおよび糞便の垂れ流しに苦しむ老人には快適に死ぬ権利は無いのだろうか。勿論、本人が生きたいと望むなら社会もバックアップすべきだろう。しかし「もう死にたい」と望むならその権利も認められるべきだろう。
人は誰でもいずれ必ず死ぬ。苦しいだけで何の楽しみも無い余生を引きずらせることは病人をチューブ巻きにする延命療法のようなものだ。殆んどの人は死ぬ直前には「死ぬほどに」苦しまねばならない。末期症状が苦しいのは癌だけではない。だから多くの老人は「ピンピンコロリ」を願う。
全く個人的な意見だが「安楽死できる施設」があっても良いと思う。申請してから1ヶ月後に再び訪問して意思が変わらなければその施設を利用でくるような仕組みになっていれば利用希望者は決して少なくなかろう。こんな施設さえあれば「自殺するのは怖いから死刑になろうと思って誰でも良いから殺した」という愚かな凶悪犯罪も未然に防止できる。
こんな考え方は「人命軽視」だろうか。苦しみの強制のほうが人権の侵害だと思う。苦しいだけの終末期の人生に自らの意志でピリオドを打つことは人間の尊厳性を守る雄々しい死に方だ。またこれによって年金や医療保険の削減にも繋がるのだから国にとっても悪い話ではない。中途退職が認められるように「中途死」も許されて良かろう。
まだ生きていたいと考える老人に「早く死ね」と言うことは許されないが、「もう死にたい」と考える老人には心安らかに、快適で、誇りを失わない形での死を認めることが思いやりではないだろうか。
たまに尊厳死や安楽死が取り沙汰されることもあるが、あらゆる快感が損なわれて全身の苦痛と痒みおよび糞便の垂れ流しに苦しむ老人には快適に死ぬ権利は無いのだろうか。勿論、本人が生きたいと望むなら社会もバックアップすべきだろう。しかし「もう死にたい」と望むならその権利も認められるべきだろう。
人は誰でもいずれ必ず死ぬ。苦しいだけで何の楽しみも無い余生を引きずらせることは病人をチューブ巻きにする延命療法のようなものだ。殆んどの人は死ぬ直前には「死ぬほどに」苦しまねばならない。末期症状が苦しいのは癌だけではない。だから多くの老人は「ピンピンコロリ」を願う。
全く個人的な意見だが「安楽死できる施設」があっても良いと思う。申請してから1ヶ月後に再び訪問して意思が変わらなければその施設を利用でくるような仕組みになっていれば利用希望者は決して少なくなかろう。こんな施設さえあれば「自殺するのは怖いから死刑になろうと思って誰でも良いから殺した」という愚かな凶悪犯罪も未然に防止できる。
こんな考え方は「人命軽視」だろうか。苦しみの強制のほうが人権の侵害だと思う。苦しいだけの終末期の人生に自らの意志でピリオドを打つことは人間の尊厳性を守る雄々しい死に方だ。またこれによって年金や医療保険の削減にも繋がるのだから国にとっても悪い話ではない。中途退職が認められるように「中途死」も許されて良かろう。
まだ生きていたいと考える老人に「早く死ね」と言うことは許されないが、「もう死にたい」と考える老人には心安らかに、快適で、誇りを失わない形での死を認めることが思いやりではないだろうか。
何故なら確実に死ぬことが判っていて、延命処置を拒むのは死ぬ権利の行使では無く、生きる権利を行使する上での生き方の選択の問題でしょう。
それは人権思想の中心は自己決定権であると願いたいからです。
だが能力とか権利を強調していく思想のなかで、正に優生思想が肯定されてきているこのご時世…
やはり自己に完結して自分で自分の事が出来ない。またはその権利能力が無いという現在社会の物の言い方、感じ方は問い直され続けるべきだと改めて考えるからです。