俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

進路の選択

2007-11-14 21:03:45 | Weblog
 18歳で進路を決められるものだろうか。高校を卒業する時点で就職か進学かを決め、進学なら学部まで決めねばならない。
 多くの高校生は数学と理科が得意なら理科系、苦手なら文科系を選んでいるのではないだろうか。高校の理科系での学力と大学での適性は必ずしも一致しないし、学問そのものが高校生の期待に背くことが多い。例えば大学の心理学は実験心理学が中心で「心」について学ぼうと思って専攻した人の期待を大きく裏切ることになる。
 一旦レールに乗ったらそのレールから外れることは難しい。時間的にも金銭的にも無駄が生じるし、せっかく築いた人間関係もフイにすることになる。そのため多くの学生はそのまま卒業まで居付くことを選ぶ。
 ICU(国際基督教大学)のように入学後に文系・理系を問わずに進路を選べる大学がもっと増えれば大学生生活がもっと充実すると思うのだが。

新興宗教

2007-11-14 21:03:35 | Weblog
 日本ほど新興宗教が勢力を伸ばし易い地域は他に無かろう。他の地域では誰もがある程度の宗教的知識を持っている。そのため新興宗教が新しい信者を獲得するためには今の宗教から改宗させねばならない。これは大変難しいことだ。人間は誰でも現在自分が持っているものを過大評価する傾向があるから現在信じている宗教を否定することは至難の技だ。下手に他教の教えを批判すれば喧嘩になってしまう。
 日本は全然違う。宗教的無知と空虚感が蔓延している。入り込む余地があるどころではない、巨大な市場が手付かずで存在しているのだ。無知な魚の群れのようなものだ。新興宗教が網を投げれば幾らでも信者を獲得できる。
 怪しげな新興宗教が幾らでも繁殖できるというのだからこれ極めて危険な状態だ。オウム真理教など氷山の一角に過ぎない。世間には危険な新興宗教が雨後の筍のように現れる。早急に宗教教育を実施して免疫を作らないと危険な状態だ。(「宗教教育」参照)

意識

2007-11-14 21:03:26 | Weblog
 子供の頃、私は自分が木になった姿を想像して恐怖を感じた。獣が私の枝を折ったり人間が私を切り取るのが分かっていても何も抵抗できない。逃げ出すことさえできずただ只管我慢することを強いられていることに絶望を感じた。
 多分、絵本で木が話しているのを見て勝手に想像したのだろう。絵本の大木は長生きで得た知恵を人間や獣に優しく話し掛ける。その延長として攻撃される木を想像したのだろう。
 実際には木には意識は無い。痛みを感じることも無い。動けない植物が痛みを感じても対応できないのだから、そんな無駄な能力が進化の過程で獲得されることはあり得ない。
 進化の過程ではこんなことは起こらないが事故でなら起こり得る。事故で脳に重い障害を負った人が植物人間になってしまうことがある。しかし多くの場合は意識を喪失しているので本人は平気だろう。周囲の人は大変だが。
 大学生の時に「ジョニーは戦場へ行った」という映画を見た。主人公のジョニーは爆弾で両手・両足・顔面を失いながら奇跡的に一命を取り留めた。医師は意識が無いと思っていたがジョニーは体を揺すってモールス信号で意思表示をした。「SOS、助けて」と。その後意思表示は「SOS、殺して」に変わった。
 映画ではジョニーの痛みについては全く触れられていなかったと思うが多分全身に激痛を感じていただろう。何しろ四肢と顔面を失くしたにも関わらず意識の無い者として不充分な治療しかされなかったと思われるから。
 気の滅入るような話だが、今後の終末医療においては現実的な話になる。意識だけで植物のように生きるよりは死を選びたい。

廃仏毀釈

2007-11-14 21:03:15 | Weblog
 廃仏毀釈は単に仏教と神道を分離しただけではない。仏教の権威の失墜と、仏教を包含する寛大な伝統的神道の破壊だ。新たに用意された宗教は現人神という教義を持つ国家神道という邪教だった。
 天皇はもともと神道の宗主などではない。多くの天皇が「上皇」という地位に着いたことから見ても、仏教を含めた日本の宗教全体の宗主と考えるべきだろう。例えば聖徳太子の墓は叡福寺の境内にある訳で古墳や陵墓だけに天皇が埋葬されている訳ではない。
 廃仏毀釈が日本の宗教すなわち神道と仏教の両者を破壊したと考えて間違いはなかろう。

共有

2007-11-14 21:03:05 | Weblog
 傘と自転車と自動車は共有できないものだろうか。どれも共通して「目的地に着くまでは必要だがその後は帰路に着くまで必要ない」という性質を持っている。
 傘を持つのが嫌いな人は多いようで最近駅に捨ててある傘をよく見かける。多くの自転車が朝の通勤時から夕方の帰宅時まで駅前に放置されている。もし共有できれば昼間に駅を通る人が利用できる筈だ。自動車は放置する訳にいかないから駐車場に止めるが、この本人が使わない時間を単に駐車するだけではなく他の人が利用できる仕組みにすれば持ち主にも利用者にも経済的メリットがある。
 形見の品などの貴重な品は人によって思い入れの度合いが違うので共有できない。しかし移動時に使うだけの道具と割り切るなら充分共有できる筈だ。

猿の母性愛

2007-11-14 21:02:56 | Weblog
 猿の母性愛を示す映像はしばしばテレビで放映される。子猿を抱えて敵に対して歯を剥き出して威嚇する姿や死んだ子猿がミイラになっても手放そうとしない母猿の姿がしばしば放映される。視聴者はこれを見て「猿でさえ母性愛があるのだ」と考えて感情移入をする。しかし残念ながら「猿でさえ」ではなく「猿だから」母性愛が本能的に備わっているのだ。人間の母性愛は本能ではない。
 進化は本能を強化する場合もあれば弱体化させる場合もある。前者の代表例は昆虫だ。昆虫は生きる術が本能によって決められていて「学習」する余地は無い。蝶は襲われても同じ「蝶の道」を何度でも通る。個々の昆虫は環境が変わってもそれに対応する能力を持っていない。個体差があるのでその環境に適応した個体が生存して繁殖する。
 逆の方向に進化した代表例が人間だ。人間の本能は極めて緩い。本能の不足を「学習」によって補っている。本能が足りないことは決して欠陥ではない。それだけ「自由」だということだ。自由であるということは育て方を誤れば獣以下にもなり得るということだ。

企業努力

2007-11-14 21:02:46 | Weblog
 昨今の物価の上昇に対して「企業努力で何とかして欲しい」という声を耳にすることがある。これは無理な要求だ。「失われた10年」などの景気停滞期を通じて大半の企業は目一杯の努力を続けて来た。アンタッチャブルだった筈の「人」にまで手を付けた。目一杯の努力を怠った企業は既に淘汰されている。企業努力を続けて来た企業ほど改善の余地は少ない筈だ。
 石油価格の高騰という経営の根幹に関わる問題を企業努力で何とかしようとするのはB29に竹ヤリで抵抗するようなものだ。価格据え置きなど無理なのだから適正な範囲で値上げをすることが経営破綻を招かないための唯一の選択肢だろう。増してや下請けをいじめて自社だけの繁栄を図るなどの行為こそ許されないことだ。現在および将来の石油価格に基づく価格体系に修正せず、我慢に我慢を重ねていればいずれ破綻を招くことになる。

風が吹けば桶屋が儲かる

2007-11-14 21:02:35 | Weblog
 「風が吹けば桶屋が儲かる」は笑い話に過ぎない。原因と結果を無理に繋ぎ合わせた詭弁に近いものだ。
 人間界ではこのようなことは起こりにくい。人間の社会はあちこちで分断されているからだ。ところが自然界は人間界以上に有機的に連鎖している。「森は海の恋人」という言葉があるが、これは森の栄養分が川を経て海に流れ込んでプランクトンや海藻を育てるから魚や貝が増えることを表現している。
 あるいは捕鯨禁止によって不自然に増えた鯨のために魚が減ったり、コクジラが増えたためにシロナガスクジラなどの大型鯨が減少するといったことも起こる。諫早湾の干拓はムツゴロウの全滅だけに留まらず他の生態系にも影響を与えることは間違いなかろう。自然界の連鎖は無限であり、どう連鎖するかはスーパーコンピュータを使っても解析できないだろう。
 自然界の連鎖を過小評価して自然破壊をすることがどんな恐ろしい結果を招くかについて人間はまだ充分に理解していない。人間界レベルの因果関係しか理解できない状態で、自然を人為的に「改善」しようとすることは危険を招く。

未完成(2)

2007-11-14 21:02:25 | Weblog
 人間は肉体も脳も、他の動物と比べて遥かに未完成な状態で生まれる。本能も他の動物より貧弱だ。この未完成な状態で生まれる赤ん坊は人為的に手を加えないとまともには育たない。
 人間の赤ん坊は自力で摂食することさえできないから放置されれば餓死する。仮に食べ物だけを与えられれば食欲だけしか無い、四つ足で這い回り奇妙な唸り声をあげる豚のような獣に育つ。
 立つことだけを教えればかろうじて立って歩くことぐらいは覚えるだろう。立って歩けば手を使うことぐらいなら勝手に身に付けるだろう。これで辛うじてオランウータン程度の能力を獲得したと言える。
 教えられないと知性は身に付かない。倫理について全く学ばなければ身に付く筈が無い。全く教えないよりは誤ったキリスト教倫理を教え込んだほうがまだマシだろう。しかしこれは100点満点のテストで0点よりは10点のほうがマシだという意味以上ではない。

親の恩

2007-11-14 21:02:15 | Weblog
 親の恩に報いることは非常に難しい。「親孝行したい時には親は無し」と言われるように親孝行できるだけの時間的・精神的余裕ができた頃には親が死んでしまって充分な報恩ができない。殆どの人が心ならずも「恩知らず」になってしまう。
 親の恩は子か社会に返すことが恩知らずにならないための唯一可能な方法だろう。