俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

無差別殺人

2009-04-07 13:23:19 | Weblog
 無差別殺人に対して人は憤りを感じる。これは「いつ自分が被害者になるか分からない」という恐怖に加えて、その行為が全く合理性を欠いているからだろう。
 昔から「泥棒にも三分の道理」があると言われている。これは決して屁理屈とは言い切れない。子供に何日も食べ物を与えていないとか、どうしても金を払わねばならなければ、泥棒もある意味でやむを得ない。勿論、泥棒をしても良いと言うつもりは全く無い。情状酌量の余地があるということだ。
 殺人犯だって極悪非道の人とは限らない。被害者のほうが加害者より悪いという場合でさえあり得る。
 犯罪者をその事情を考慮せずに「悪人」と決め付けるのは誤りだ。多くは追い詰められた「普通の人」だろう。
 しかし無差別殺人はそうではない。一分の道理も無い。わがままで思い上がった妄想に基づいて人の命をまるで虫けらの命のように奪う。これは事情あっての犯罪者とは質的に違う。

使い捨て文化

2009-04-07 13:12:31 | Weblog
 日本の文化は本来「使い捨て」を嫌っていた。何でも再利用しようとするのが日本の文化だった。紙コップとカップヌードルが日本人の意識を狂わせたのかも知れない。
 かつては鋳掛屋という商売もあったし、服のツギ当ては当たり前のことだった。今では故障した家電は修理するほうが高くつくので買い替えられる。
 この傾向は雇用にまで及んでいる。派遣労働者だけではなく正規雇用労働者まで使い捨てにしようとしている。
 これは考えてみれば奇妙なことだ。社内で経験を積んだ人材がなぜお荷物になるのだろうか。確かに体力では若い人には敵わない。しかし精神的には成熟しているのではないだろうか。
 今、手元にある物を大切にするより買い換えれば良いとうい風潮はどこまで進むのだろうか。
 民間企業が高齢の労働者を姥捨て山に捨てれば、捨てられた労働者は納税者から社会的弱者へと激変する。企業による労働者の使い捨ては税収を減らして社会保障費を増やすという両面で社会の負担を増やすことになる。

無宗教

2009-04-07 12:56:31 | Weblog
 他人が食べている姿を見ていて不自然でぎこちなく感じることがある。何となく不快になる。実は左手を使っているだけだ。そのことに気付くと不快感は治まるがそれでも何か落ち着かない気分は続く。見慣れた動作と違うからだ。
 人間はこれほどまでに見慣れたものを「快」、見慣れないものを「不快」と感じる性質を持っている。左利きと右利きに優劣の差は無い。それにも関わらず少数者というだけの理由で醜い動作だと感じてしまう。
 西洋人は無宗教の人に対して強い偏見を持つ。神を信じない人間は倫理を否定する人間と同じようなものと感じてしまうらしい。
 しかし宗教こそひどい偏見であり事実を歪めるものだから、宗教を否定することは倫理的には正しいこととさえ言える。正と誤を的確に判定すれば宗教は誤であり無宗教こそ「正」だ。
 正しいことを正しいと認めることは正しいことだ。正しいことを教義に反するという理由で否定することこそ「悪」だ。
 インドでは牛を食べてはならない。イスラム教圏では豚を食べてはならない。キリスト教圏ではタコと鯨を食べてはならない。こんな奇妙な食習慣が成立するのはそれぞれの地域の「多数者」が支持しているからに過ぎない。キリスト教圏でもギリシャやスペインやポルトガルなどではタコを食べる。
 多数者が支持すればどんな不合理なことでも正当化されてしまう。偏見に凝り固まった多数者に対して少数者は無力だ。多数者は自分達こそ正しいと信じて疑おうとしないのだから。