私の実家になぜか亡くなった知らない男の子が寝かされてる
みんなでお葬式の準備を忙しくしていた
火葬される日に、その男の子は生き返った
今朝方に見た夢の内容
私は湖の辺りにいる。
湖を眺めていると、突然、太い円柱の水が天に向かって昇って行った。
びっくりして見ていると、止まった。
湖の向こう側に茶色い平屋の建物が見える。
カフェのようにも見える。
私はそこに向かって歩いて行った。
その建物に入ると、また湖の水がさっきと同じように天に向かって昇って行った。
私はそれを眺めていた。
すると、今度は建物が揺れ出して少し沈没していった。
場面は変わり、私はネジを探して持って来た。
どこかの部屋のベッドの上に中年の男性が横になっている。
その隣のベッドに中年の女性が横になっている。
残念ながら、その男性は亡くなられたようだ。
と思ったら、その中年の男性は6歳くらいの男の子になってしまった。
この前、何気なく私が持っている小さな小さなサイババさんの写真を撮ってiPhoneに保存しておいたものを、引き伸ばしてあれこれ見てました。
すると、、、サイババさんの指先から、何かが出てるんですよ。
これは、サイババさんの気が写真に映ったのでしょうか?
それとも、私のように、この小さな小さな写真を引き伸ばして見る人がいることを、当時予測したサイババさんが、写真を加工させたのでしょうか?
まあ、いづれにしても、この小さな小さな写真たては、なんだか不思議で面白いです。

最近の天候はどんどん異常になってきてます。
今年の夏は酷暑でしたし、おそらくその反動でこれから洪水も増えるのかもしれません。
イカが取れなくなり、さんまも取れなくってきていて、どちらも高価なものになってきています。
もしかしたら、将来は高すぎて食べられなくなるのかもしれません。
今年みたいに来年も再来年も酷暑になり、米や野菜もあまり取れなくなるかもしれない。
水不足も心配です。
高い山に行くと、松の木は全て枯れ木になっています。
これはどんなに人間が知恵を絞っても元通りに変えることができていません。
世界のあちこちで山火事も起きています。
なんて、暗いことばかり書いてますが、だからといって、無かったことにしよう、とか考えないようにしようと、このままの生活を続けたらどうなってしまうのか?
人間は行き着くところまで行かないと、やはりダメなのかもしれません。
どうやったら、異常気象を正常気象にすることができるんでしょうね。
今朝方に見た夢の内容
私は家族であるホテルに泊まっていた。
その日の朝食は、玉ねぎとひき肉を炒めたものを入れたパイだった。
次の日、私たちは朝食会場に行くためにエレベーターの前で待っていた。
なかなかエレベーターは来ない。
やっと来たエレベーターは、カゴみたいに外が丸見えで、下の方にも隙間がある。
仕方なく、私たちはそのエレベーターに乗り込んだ。
下の娘はまだ小さく2歳くらいだろうか。
私は下の娘を片方の腕で掴み、もう片方の手でしっかり手すりを掴んだ。
エレベーターが動き出すと、下の娘の体が持ち上がった。
危ない!と私は娘をしっかり抱っこする。
下を見ると、隙間から娘が落ちてもおかしくないくらい、隙間があった。
そのエレベーターの中にいると、私達はなぜか遠心力で振り回されそうになった。
昨日、ふと気が付きました。
いつもいつも、今日はこれだけしかできなかったと不満を持っている自分に。
最近は、暇さえあれば、保江邦夫先生の動画を見て、そして大事な部分をメモしたりしてますが、そのことに関しても、今日はこれくらいしかできなかったと、不満を持っている自分がいるのです。
一体自分はどうやれば満足するんでしょう。
どんなにやってもやっても、まだまだ足りないと、毎日思うのです。
これでは、この先何年生きたとしても、死ぬときに、まだ足りない、まだこれしかやっていない、と不満を抱えて死ぬことになります。
自分はこれだけしか旅行に行けてなかった、自分にはこれだけの友達しかいなかった、などと不満に思いながら死んでいくなんて。
これって、本当に不幸な死に方だなぁと思いました。
日々に満足することができなければ、一生満足などできないんですね。
なので、無意識にこういう考え方の癖がついている私は、きちんと言葉に出して、今日もこれだけの事ができて良かった、今日は少しでもこれができて良かった、今日はこれができなかったけど他のことをやれて良かった、と自分に言い聞かせていこうと思いました。
また、今まで〇〇に行けてうれしい、自分には〇〇さんという友達がいてうれしいと、心の中で言うのです
小さいころから、私は、もっと頑張れ、もっと頑張れと、今の自分に満足するなと言い聞かせられて育ってきたように思います。
満足したらもう頑張れなくなると。
でも、それは間違いでした。
今の自分に満足できなければ、死ぬその時も自分に満足できないまま死ぬことになるのです。
今の自分に満足していても、好きなことは喜んで続けられます。
頑張るって、自分に不満があるから起こる気持ちなのではないでしょうか。
今朝がた、ちょっと足を延ばした瞬間に、痛い!となって、ふくらはぎがつってしまった。
しかも両足で、しばらく動けず、じっとしていた。
ここ1年くらいは足がつらなくて助かっていたのだが。
1年前くらいまでは、本当に朝でも夜中でも足をつって悲鳴をあげていた。
それが、ある時、友達に健康食品の宣伝会場に誘われ、藻塩と言うものを買って食べていたら、なんと、足がつらなくなったのである。
それはとてもありがたいと思った。
しかし、その宣伝会場ではだんだんと高額な品物を宣伝するようになってきて、何も買わない私は宣伝会場には行かないようになった。
さて、その藻塩だが、なくなったので粗塩を代わりに食べてみたのだが、それが原因かどうかは分からないんだけど、また足がつるようになってしまった。
粗塩もミネラルは含まれているが、藻塩の方がより含まれているようだ。
これはもしかして、粗塩を食べないから?
と思って、さっそくスーパーに買いに行ったら、藻塩って高いですね。
250gで398円でした。
買ってきましたが。
ネットでもっと安い藻塩を探さなきゃね。
子供のころは足なんてつらなかったのに、やっぱり歳なんですね。
静脈瘤もあるんでしょうけど。
先日、矢作直樹さんの動画を見ていたら、縄文人は争いのない平和な社会を築いていた話をしていました
なぜかというと、縄文人は自分の役目を知っていたからなのだそうです。
それを、矢作さんは人間の身体に例えて、脳細胞には脳細胞の役目があり、皮膚細胞には皮膚細胞の役目があり、どちらも人体にとってはかけがえのない働きをしている。
そして、脳細胞が皮膚細胞になりたいとか、皮膚細胞が脳細胞になりたいなどとは思わずに各々の役目をこなしているとおっしゃいます
同じように、縄文人は、リーダー的な役目の人、それを補佐する役目の人、下働きをする役目の人、食料を作る役目の人など、各々が自分の役目を知り、決して争わなかったのだそうです。
なるほどなぁと思いました。
人が争うのは、リーダーになって、権力をもって、自分の思い通りに人を動かしたいから、なのでしょうか。
しかし、縄文人は、リーダーも農民も下働きの人も、かけがえのない働きをしていることをみんなが理解し、そこに上下関係がなかったのだと思います。
そこで、最近私がよく保江邦夫先生や矢作直樹先生の動画を見ているのですが、私とはまるで違う生活をされていて、うらやましく感じたり、それに比べて自分はなんてつまらない人生を送っているんだろう、なんて思ってしまうことがあったのです。
お二人とも、大学教授の経歴を持ち、世界中で仕事をし、日本中を飛び回っています。
あちこちで講演し、たくさんの人が先生たちの話を熱心に聞きます。
そして、先生たちはその活動上でさらにたくさんの人脈を作って行かれるのです
まさに、華々しい生き方をされています。
人体に例えれば、彼らは紛れもなく脳細胞の役目を担っているのでしょう。
では、私は何なのか。
毎日同じことを繰り返し、ここから動かないで、人脈もここ何年も全く増えない。
海外に行く機会もなく、国内ですら旅行でたまに移動するくらい。
私は人体の皮膚細胞なのかもしれません。
しかし、人体は脳細胞だけで生きることはできませんから、その他の細胞だって、立派な役目をになっているはず。
ということは、私のような人間も、人体、いやこの世界で、何らかの役目を持っていることになります。
そう考えたら、私は今のこの環境で、自分の役目を粛々とやっていくことが正しいことになります。
だから、他の人の役目をうらやましがったり、妬んだりする必要などなかったことに気が付きました
しかし、人体と違って、人間は自分の役目を喜んでやりながら、自分の好きなこともやっていくうちに、知らず知らず役目が変わることがあるのです。
それは、誰かを妬んだりうらやましがったりして手に入れるものではなく、毎日自分の役目を楽しくやっていて、気が付いたら少し自分の役目が変わっていたというような感じです。
その繰り返しをして、どんどん重要な役目を任されたりすることもあるんですね。
私も今の自分の役目を喜んでやりながら、知らないうちに別の役目を任されるような人生を歩めたらいいなと思います。