ナオスミンの雑記

2009年9月14日より、四年半使用し続けた、グリチルリチン酸配合のATPリピットゲルを中止。リバウンド体験中。

サイババの写真立て

2019年08月31日 11時05分00秒 | サイババさん

私はもう何年もサイババの写真立てをカバンのポケットに入れて持ち歩いている。
この写真立ては、一時期、押入れのカバンに入れて、数年間置きっ放しになったこともあるが、また取り出して持ち歩いているものだ。
私はこれ以外にサイババグッズは持っていない。
ところで、この間、何気なしにこの写真立ての写真をスマホで撮った。
8月22日のことだ。
拡大して見てみると、サイババの左の口の下が白くなっている。
なんだ、また傷つけてしまったのかと、その時はがっかりした。
それから、昨日、またそれを写真を撮ってみた。
今度は白くなっていない。
ん?なぜだ?
そして、今日、22日と同じ条件にして、もう一度写真を撮ってみた。
やっぱり白いものは写っていない。
はて?
と思い、白いものが写っている写真をまじまじと眺めた。
これはなんだ?
さらに、写真を拡大して虫眼鏡で見てみた。
すると、サイババの、左の鼻の穴あたりから二本の白い糸?煙?の用のものが写っていて、それが白いものに繋がっているように見える。
さらに、白いものは光っているようにも見える。
よーく見ると、白いものは、上の方に小さな玉が3つ数珠のように縦に並んで付いていて、その下にひし形のようなものがあり、白く光っているように見える。
なんだこれは?宝石?
だって、この写真は、わずか横2センチ、縦3センチなのだ。
という事は、白いものだって1ミリくらいだし、さらに白い糸のようなものはミクロン単位だろう。
スマホで撮って引き伸ばして見て、さらに虫眼鏡で見て初めてわかったが、サイババの右手にはほくろがある。
親指の付け根の左側に小さなほくろが見えた。

この写真立てとの出会いは、26年くらい前になる。
はっきりした年は忘れてしまった。
1993年あたりのお盆か正月だったと思う。
私はまだ幼い子供達を連れて、近くのスーパーのゲームコーナーで遊んでいた。
親戚の幼い子供達も一緒だった。
子供達は大はしゃぎで遊んでいた。
私は主人と一緒にクレーンゲームの所にいた。
そのクレーンゲームは、ガチャポンを掴むゲームで、ガチャポンの中に色々な物が入っていた。
見ると、取れそうな場所にガチャポンがあった。
主人は、一回でこのガチャポンを掴む事が出来た。
開けて見たら、このサイババの写真立てだったのである。
この写真立ては、周りが綺麗に装飾されてあり、小さな玉が30個付いていたが、今では左上の玉が3つ取れて無くなってしまった。



 


時間

2019年08月30日 18時15分09秒 | 言いたいこと
時間という言葉には、色々な言葉が続く。
時間を大切に
時間を有効活用する
時間を取る
時間を作る
時間がない
時間がかかる
時間(時)は金なり
時間つぶし(暇つぶし)
時間があまる
時間が足りない
時間を忘れる
時間が長く感じる
時間がもったいない
時間がありあまる
などなど、時間という言葉は、色々な使われ方をする。
人間にとって、時間は有限だ。
いつか必ず時間が終わる。
いつかはわからないけど、必ず終わる。
時間を大事に使わないと、必ず後悔する。
限られた時間を無駄に過ごして終わったら、生きてきた意味がない。
ただただ時間をつぶすだけの人生にはしたくない。
起きて、仕事に行って、帰ってきて、ぼーっとテレビを見て寝る、その繰り返しでは、時間がもったい。
時間を有意義に過ごす
これを忘れないようにしよう。
平均寿命からすれば、私の時間はもう残り半分もない。
1日はあっという間に過ぎていく。
1年もあっという間に過ぎていく。
残りの時間で、私は何かを得られるように、努力したい。

最近の興味

2019年08月28日 13時00分43秒 | 言いたいこと
最近の私は、何に興味があって、何に感動するんだろう?
ゲームやスポーツ観戦にも興味は無いし、恋愛にも興味無し。
コンサートにも興味無いし、飲み会も好きじゃない。
高級レストランにも興味無いし、ブランド物にも興味ない。
ショッピングにも興味無いし、芸能界にも興味無い。
なんだか、大勢の人が好きで夢中になるものには、私は興味が持てないのだ。
なら、私は何が好きで何に感動するんだろう?
最近、最も感動したのは、富士山だ。
富士山には圧倒された。
他にも、5月頃の雪の残る美しい山が好きだ。
その他に良かったのは、日光東照宮。
あそこも行って本当に良かった。
旅行は、好きだ。
ドライブも。
他には、サイクリングや散歩もいい。
田んぼの中をサイクリングするのは、とでも楽しい。
あとは、自分の好きな音楽を聴くこと。
それから、英語の勉強も楽しい。
あ、それから姉妹で出かけるのは楽しい。
気兼ねなくて。
親しい友達との食事も楽しい。
忘れていけない、子供達や家族と過ごす時間は、もっと楽しい。
旅行も、家族と一緒に行くからこそ、楽しいのだ。
あとは、1日3回のコーヒータイムは好きだな。
ホッとする。
そうそう、寝ている時間は最高。
朝方まどろんでいる時は、ほんとに気持ちいいものだ。
あとは、お気に入りの映画を見ることかなぁ。

あるヨギの自叙伝

2019年08月23日 12時55分22秒 | 精神世界
今、あるヨギの自叙伝という本を読んでいる。
毎日トイレに入って、ほんの少しづつ読んでいる。
その本の中に、主人公ムクンダが、兄の命令で、無銭旅行するという場面がある。
もし、神が助けてくれると信じているのなら、お金を持たず一文無しで、今日中に帰って来てみろ、と兄に命令されたのだ。
ムクンダは、友人と共に、遠くの駅で降ろされ、そこから無銭旅行が始まる。
友人は、一緒に来たことを後悔して泣きわめく。
だが、ムクンダは平然として、神が助けてくれると安心しきっている。
そこから、偶然?が立て続けに起こり、昼食をご馳走してくれる人が現れ、次に町の案内と切符とお金をくれる人が現れ、無事に帰って来ることができたのだ。
これを読んで、私には到底無理だと思った。
まず、無銭旅行で無事に帰って来れるという確信がまったく持てない。
無銭旅行でも無事に帰って来れると心から確信できるムクンダは、並みの人ではなく、はるかにレベルの高い人なのだと思う。
そういう神様に近い人なら、なにかの力によって無銭旅行でも無事に帰って来れるのだと思う。
その力とは、カルマの法則によるものと、神の力によるものなのだろう。
レベルが上がれば上がるほど、神様から協力してもらえるのだろう。

私のように、無銭旅行で無事に帰って来れる確信が持てない場合、無理して無銭旅行を試しては危険だ。
特に女性は危険だから絶対にやってはいけない。
もし、確信を持てないままいい加減な気持ちで無銭旅行をすれば、必ず失敗するし、事件に巻き込まれる可能性が高い。
悪い事が起きるのも、その人の持つカルマだからだ。
確信が持てないという事は、自分がまだそこまでのレベルに至ってないからだ。
ただし、なんの根拠も無いのに自信満々な人もいることはいるが、そういう人は別である。
そういう人は、努力もせずにできもしないことを自信満々にできると言うが、結局はできないのだ。

ムクンダは特別レベルの高い聖人なのた。
一般人は、用心に用心を重ね、危険に巻き込まれないように、十分に気をつけなくてはならない。
自分は守られているから大丈夫、なんて変な勘違いして、不用心で努力もせずにいれば、危険に巻き込まれるのは当然だろう。
天は自ら助くる者を助く、君子危うきに近寄らず、である。

子は親の鏡?

2019年08月21日 09時26分01秒 | 精神世界
子供を見れば親がどういう人か分かる、と言われますが、半分当たってるけど、半分当たってないと思います。
確かに、育て方の違いによって、考え方や価値観が変わるようです。
でも、どうしてこの親にこの子?という場合もあるようです。
私にも二人の娘がいますが、同じ親に育てられたのに娘達の性格はまるで違います。
上の娘は、小さい頃からなんでも欲しがり、おしゃれで、浪費家で、社交的で、華やかなタイプです。
下の子は、小さい頃から、あまりものを欲しがらず、地味で真面目なタイプです。
私と旦那は、二人ともものをあまり買わないタイプで、派手な生活を好みません。
もし、子は親の鏡、だとしたら、二人の娘は、私達夫婦と似たような考え方、雰囲気を持つはずですが、そうではないのです。
上の子は、私よりも自分の方が優れていると思っているようで、私を尊敬していません。
逆に小馬鹿にしますし、何も相談してくれません。
上の娘から見たら、私は理想の母親などではなく、おしゃれのセンスもなく、地味でダサいダメな母親と映っているようです。
上の娘の、理想的な母親像は、若くて美人でおしゃれで、料理が上手なお母さんのようです。
やはり、人は自分の人格レベルで人を判断するのでしょう。
なので、自分の理解を超えている人は、変わった人、ダメな人と決めつけてしまうのです。
反対に下の娘は、私のことをバカにしたりせず、何かあったら私に意見を求めたりします。
下の娘から見た私は、自分と同等の存在、理解できる存在なのでしょう。
私から見た上の娘は、心配の種です。
友達付き合い、異性のと交際、やはり、娘の選ぶ人は、見た目だけのような人ばかりなのです。
なので、結婚に至らず、遊ばれているだけのように感じます。
だけど、私は上の子に指図する事は出来ないし、しません。
人は、苦労しながら学んでいかなければならないからです。
裏切られたり遊ばれたりしながら、そこから学んでいかないとならないのです。
親子だから、同じ考え、価値観、人格のレベルが同じ、という事は、無いですね。

色々な人格のレベル

2019年08月06日 14時08分32秒 | お気に入り
昨日の続きになるが、人格の高さによる、ものの見方の違いについて、また書こうと思う。
例えば、人格の高さを、わかりやすいように、赤ちゃん、保育園、小学校、中学校、高校、大学、大学院、とする。
ここでは、知識レベルを人格のレベルに置き換える。

もし、その人の人格が幼稚園レベルだったら、周りに小学校レベルの人格者がいようと、高校や大学レベルの人格者がいようと、その違いが分からず、全ての人を幼稚園レベルだと思って、判断する。
だから、大学レベルの人格者に対しても、自分と同じように、幼稚で本能のままにわがままで自己中心的に生きていると判断する。
そして、人の善意が分からない。
保育園レベルの人は、小学校があることも、その上に中学校があることも、高校や大学があることも知らないのだ。

もし、その人が中学校レベルなら、赤ちゃんレベルからから中学校レベルの人格が理解できる。
しかし、高校レベルや大学レベル、大学院レベルの人格がある事を知らないし、周りの人は、みんな赤ちゃんレベルから中学校レベルだと思っている。
中学校レベルは、まだ闘争心が強く、周りに流されやすく、自分の考えがまだはっきりしていない。
なので、弱い人や困っている人を、見て見ぬ振りをしたり、いじめたりする。
そして、外見が全てで、外見で判断する。

もし、その人が大学院レベルの人格者だったら、赤ちゃんレベルから大学院レベルまで全ての人格が理解できる。
この人は小学校レベルだから、こういうものの見方をするんだな、と分かるし、同じような高い人格者の善意を善意として理解できる。
自分の考えをしっかり持ち、他人に流されることがない。
権力やお金やブランド物に執着せす、それよりも大事な事があることを知っている。
また、弱い人をほっておけず、たすけようとする。
いつも穏やかに接し、感情のままに怒る事も暴力を振るう事もない。
優しいので、中学レベルあたりの人格者から弱いと見られ、馬鹿にされたり、サンドバッグにされたりする。
中学レベルの人や高校レベルの人とも仲良くできるが、それは相手に合わせてやっているのだ。

では、大学院が最終のレベルかというと、それよりももっと上のレベルがたくさんあるらしい。
そのレベルに達すれば、全てが理解できるのだろう。

善人と悪人

2019年08月05日 21時41分51秒 | お気に入り
人は、自分の人格で周りの人を判断する。
悪人は、自分の周りの人がみんな悪人に見えている。
どんなに人格の高い人も悪人に見えるのだ。
なので、人格の高い人の善意は、悪人にとっては悪意なのである。
善人は、周りの人を、善人と悪人と区別して見ている。
善人は善人のことが理解でき、善意を善意として受け取る。
人を裏切る人は、周りの人も自分を裏切ると思っていて、善人も裏切ると思っている。
だから、善人は、自分のやっていることが評価されなかったり、逆に悪意にとられても、落ち込む必要はない。
善人の善意は善人にしか理解してもらえないのだ、
理解してもらえないとしても、黙々と善意を重ねていけばいいのだ。

若いレゲエ風の男性の夢

2019年08月05日 07時18分59秒 | 見た夢
今朝方に見た夢の内容

私なのかそうでないのか分からないが、あるレゲエ風の若い男性Mと知り合いになった。
私は結婚しているのに、Mは、どこにでもついてくる。
私は次第にMと仲良くなっていった。
Mの家にも遊びに行くようになった。
だが、男女の関係ではなく、ただくっついていた。
Mは、タバコを吸っていた。
マリファナか?
ある日、私が家に帰ろうと歩いていると、M達が喧嘩をしていた。
私は関わらないように、急いで家に入り、鍵を閉めた。
Mの仲間が、私にジャラジャラした首飾りをよこした。
Mからだそうだ。
Mは、私のことを、あんな可愛い人から目が離せないんだ、と言っていた。
笑笑

誰も心配してくれない?

2019年08月03日 14時21分44秒 | 言いたいこと
今回、姉妹間でトラブルがあり、私と姉妹Bが揉めた。
私は傷ついた。
私のことをBは信頼していないのか?
疑っていたのか?
今まで、姉妹や親のために、陰ながら尽くして来たと、自分では思っているし、これからもそうするだろう。
だけど、私の努力など、誰もわかってはいなかったのかもしれない。
長女だから、やって当たり前、くらいに思われているのかもしれない。
要領のいい小狡い姉妹Cは、高みの見物なのだろう。
BとCがトラブったとき、私は知らんぷりなどせずに、うまく解決できるように橋渡しをして来た。
でも、私とBがトラブっても、誰も橋渡しをしてくれる人などいない。
誰も心配などしてくれない。
どう?元気?少しは落ち着いた?
なんて電話で聞いてくれる人もいない。
私は傷つかないと思っているのだろうか?
私を除け者にして、BとCで仲良くやっていきたいのだろうか?
なんだか、どんどんマイナス思考になっていく。
あんなに賑わっていた姉妹間のラインも、さっぱり書き込みがないし、自分から書く気にもなれない。
ましてや、自分から電話する気にもなれない。
こんなときは、相手の方から電話してくれれば嬉しいのだ。
やっぱり心配してくれていたんだと分かって嬉しいのだ。
こうなったら、私からはラインも電話もしないぞ。
私を利用するためのラインや電話は、嬉しくもなんともない。
心配してくれていると分かるようなラインや電話がない限り、私の気持ちは治りそうにない。

こうやって、姉妹とも縁遠くなり、友達からも遠く離れ、孤独になっていくのだとしたら、寂しいことだ。
だけど、孤独が嫌で、思いやりのない仲間や友達と付き合うのはもっと嫌だ。

ラインでのトラブル

2019年08月02日 05時51分37秒 | 言いたいこと
昨日は、姉妹間で揉めた。
原因は、姉妹間のラインだ。
ラインって便利だけど、反面昔はなかったトラブルが発生する。
リアルタイムのやり取りは便利だが、そこに姉妹以外の第三者が介入したときに、話がこじれてくる。
その第三者と姉妹Bが一緒にいたときに、姉妹Aがラインで、第三者にあー言って、これ頼んで、と姉妹間のラインに書き込む。
第三者は、スマホを持っていない。
それで、Bは、第三者にその事を伝える。
普段はなんでもないが、Aは、第三者の批判をラインに書く事がある。
Bはそれが批判なのか、第三者に伝えるべきものなのか区別が難しく、第三者に伝えてしまう。
すると、第三者 は気を悪くしてしまう。
さらに、AはBに対し、なんでなんでも本音で語り合えるラインのさっきの発言の事を、第三者に伝えてしまったのだ?と責める。
挙げ句の果てに、姉妹間のライン全てを、第三者にしゃべっているのか?と、Bを疑う。
Bはそんな事はまったくしていない。
たまたま、第三者とBが一緒にいたために、Aの発言の1つを第三者に伝えてしまっただけのことだ。
ラインさえなかったら、こんなトラブルは起きなかった事だ。
つくづく、ラインは使い方を間違うと、逆にトラブルを起こすと思う。
普段はとても便利だが、私は今後は、第三者と一緒にいるときは、姉妹間のラインは見ない、返信しない、と姉妹間に宣言した。
姉妹間のラインは、第三者が帰ってから見るからね、と宣言した。
第三者に、あー言ってくれ、と頼まれて、伝言板扱いにされて、今度は、なんでこの発言を第三者に言ったんだと恨まれるからだ。