磯﨑憲一郎は、1965年生まれの三井物産の現役の社員だ。彼は、仕事と趣味を上手く両立させているようだ。もちろん、現代の企業は、いずれ、彼の趣味もビジネスの一部として取り込んでしまうかもしれないが、今のところ趣味は趣味として行われているようだ。彼は、とても、有能なビジネスマンであるように思われる。『終の住処』(第141回芥川賞受賞作)の主人公の「彼」が製薬会社の中で、自然に上昇気流に乗っていつの間にか、画期的な仕事をこなし、重要な役割をするようになると語られているが、それは磯﨑憲一郎の立ち位置と同じような気がする。
この小説は、主人公と彼の妻が結婚してから、およそ20年間のことが描かれているが、それは象徴的な時間として描かれている。その20年間にあったことで、この小説の世界に登場してくるのは、主人公「彼」のいずれ崩壊してしまう妻以外の女性とのもつれた愛情関係と、それに比べてきわめて明るく楽天的な製薬ビジネスの成功と冒険のようなアメリカでの企業合併の交渉だ。それぞれの文は、暗く、もつれたように長く、いずれも固有名詞を持たない主体について語っている。象徴的という意味は、「死が遠くないことを知る」ために必要な時間という意味だ。
私は、この小説を読んだ時、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を読んでいた。これほど違う文体を同時に読むのは希有な体験だが、描き出された世界もまた、とても好対照的な世界だ。『ダンス・ダンス・ダンス』は数ヶ月の世界であり、これからひょっとしたら主人公の「僕」と「ユミヨシさん」が一緒になるかもしれない物語だが、『終の住処』はまるでせかされたように出会い、結婚に向かった「彼」と「妻」の二人がその後20年近い歳月を経て、家を建てそこに落ち着くまでの世界である。
彼も、妻も、結婚したときには三十歳を過ぎていた。一年まえに付き合い始めた時点ですでにふたりには、上目遣いになるとできる額のしわと生え際の白髪が目立ち、疲れたような、あきらめたような表情が見られたが、それはそれぞれ別々の、二十代の長く続いた恋愛に敗れたあとで、こんな年から付き合い始めるということは、もう半ば結婚を意識せざるを得ない、という理由からでもあった。じっさい、交際し始めて半年で彼は相手の実家へ挨拶に行ったのだ。それから何十年も経って、もはや死が遠くないことを知ったふたりが顔を見合わせ思い出したのもやはり同じ、疲れたような、あきらめたようなお互いの表情だった。(「文藝春秋」九月特別号・p364より)
この小説は、「彼」と「妻」の物語であるが、時々「娘」が登場するだけで、家庭そのものは、殆ど描かれていない。むしろ、なぜだか分からないが、突然「妻」が11年間も口をきかなくなってしまったり、家を建てたら建てたで今度は「娘」が自分と交替でアメリカに行ってしまったりする。家庭は、「彼」にとって、あちら側の世界のように存在している。「彼」にとってのこちら側の世界は、次から次へののめり込んでいかざるを得ない、女性との不思議な関係であり、なぜか知らないが勝手にうまくいってしまうビジネスの世界である。どちらの世界も、「彼」にとっては、よく分からない世界のように描かれているが、本当によく分からないのは、あちら側の世界だけである。
磯﨑憲一郎も小説の中に、謎を仕掛けている。その謎は、しかし、妻と自分との関係の中の謎である。あるいは、「家族」というものの謎だというべきかもしれない。11年間も口をきかない関係とは何か、また、自分の知らないうちに、知らない世界に行ってしまう娘との関係とはいったい何か。この小説の中には不可思議な場面がいくつか描かれているが、よくよく読んでみると、この小説の中で、本当によく分からないのはその二点だけなのだ。というのは、、「彼」のこちら側の世界には、未知の世界があるのではなく、「彼」の心理の異常さとして描かれているのであり、「彼」のビジネスの成功は「彼」の超能力のせいでもなく時代と「彼」の意志の結果であるといえるからだ。
もちろん、不思議なことに、家族の一般論から言えば、それは謎でも何でもない世界であり得る。ほとんど家庭など顧みない「彼」のような存在がいれば、「妻」や「娘」のような存在が導き出されるのは必然であるというように。こんなことを考えながら読んでいると、磯﨑憲一郎は、この小説の中で、終の住処を見つけるまでの20年間をこの短編の中に凝縮して、ある種の色を着けることを意図したよう考えられる。そして、20年間という時間は、そうした色に染めない限り、たいした意味がなくなってしまうように思われているのではないか。そのためにだけに、この小説の中で、時間を凝縮して色づけがされているような印象を持った。
ところで、芥川賞選評を読んでみると、山田詠美、小川洋子、黒井千次、川上弘美、池澤夏樹が高く評価し、石原慎太郎、高樹のぶ子、宮本輝、村上龍が低く評価している。何となく分かるような気がしないでもない。宮本輝と村上龍の評はほぼ同じような指摘をしているが、宮本輝はこの作者の可能性に期待しているところがある。そして、私も、宮本輝のように、磯﨑憲一郎の実験的な試みから伺われる彼の才能については面白そうだと思った。しかし、この作品だけでこの作家の評価を決めるべきではないが、この作品について言えば、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』や、また芥川賞をもらえなかった村上春樹の『風の歌を聴け』よりも私が物足りなさを感じたのは確かである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます