袋井宿・王女の館でシャワーを浴び、サッパリしたところで夕食を食べに行くことにした。
部屋から外の景色を眺めると妙に気になる真っ赤に輝く店がある。
それは、昼間見た「金の豚」の別店舗だった。
どうやら、チェーン店らしい。
あれこれ気に入った店を探す気力もないので、そこで食べることにした。
入ってみると、「金の豚」らしい金色の豚料理はなくて、ただのラーメン店だった。
店内はガラガラ。
ちょっとガッカリしたが、とりあえず注文。
生ビールはうまかったが、ラーメン他は特に特徴がなく普通だったように思う。
東京の高田馬場を中心とした激しいラーメン戦争を考えると随分とノンビリした味だった。
激戦区で生き残れる味ではないと思った。
ホテルに帰る途中で酒屋に寄って、豪華多種のつまみと缶ビール3本を買い込み、部屋に戻ってからはコインランドリーで洗濯をしながら、一人ご苦労さん会をやった。
一人旅は夜が寂しく、話し相手がいないと手持無沙汰になにかしたくなる。
拾ってきたお茶の実を砕いて飲んだらお茶の味になるかと試そうと思った。
砕くと中から白い油っぽい実がでてきたが、食べて腹でも壊すといかんと思い、また、明日があるからと早々に寝ることにした。
9時前には寝てしまったように思う。
だが、帰ってきてから調べたらお茶の実からはオリーブオイル以上の最高級の油が採れるらしい。
その名もティーオイル(茶実油)
食べてみれば良かった。
さて、翌朝・・・
睡眠時間が長かったせいか、朝からすこぶる快調で、足腰もいたくなかった。
ちらかった部屋の窓から見える「金の豚」
その「金の豚」の奥、その延長線上に富士山の頭が見えた。
豚つながりで頭というよりも、なんだか、豚の鼻にみえてしまった。
そしてまた「金」という字にも見えるのだから、朝から想像力(妄想力?)が働き前頭葉も活発だった。
金
チェックアウトの準備を済ませ、ホテルの朝食バイキングをいただいた。
すこぶる料理内容がよくて、普段朝飯は小食なのだが、「和食+洋食+フルーツタップリ」で、多分通常の3倍以上は食べたように思う。
昨日着いた旧東海道のポイントまで忠実に戻り、ゆっくりと走り始めた。
スタート時刻は7時半
医者の建物(記念館である。)
正面から見るとあまり大きくない家屋に見えるが、実はウナギの寝床である。
この宿の本陣も、跡地からして同じウナギだった。
おそらく、街道沿いには隙間なく間口が狭く奥行きが長い二階建ての町人の家屋がビッシリ建ち並んでいたことだろう。
ただし、二階を生活の場とすると大名行列を見下ろすことになるので、物置だったはずである。
細長い敷地だが、ゆとりのある間取りである。
仏間の前の座敷などは気持ちがよさそうである。
中に入って見学したかったが10時からオープンなのでダメだった。
ニワトリ語で朝の挨拶(コケコッコー!)
旧東海道は国道から別れ、旧道らしい幅の道になる。
そして、大きな一里塚(右写真)
なんだか由緒ありそうな許禰神社(こねじんじゃ)と境内にある大クスノキ(推定年齢300年以上)
-----(以下、説明看板より)-----
遠江では平治元(1159)年以降、しばしば熊野新宮を造営する費用をまかなうための国に指定されたので、多数の熊野神社が建てられました。
袋井市域でも、土橋で熊野権現社、松袋井で熊野十二社神社が現在でも祭られていることから、古代末期より和歌山県の熊野山とはたいへん深い関係にあったことが分かっています。 木原の許禰神社(こねじんじゃ)は、かつては木原権現社と呼ばれ、古代末期に創建されたと考えられています。許禰神社は古代の神社名帳(式内社)のなかに見られる神社で、一説には古代の許禰神社が木原権現社になったともいわれています。 「木原権現由来記」という全長17mもある巻物が残されています。由来記には、ある日木原の子供に熊野の神がのり移り、この地に熊野の神を祭れば、洪水を防ぎ、穀物の実りを豊かにするお告げがありました。天災に苦しんでいた村人は早速に熊野の神を祭った。これが木原権現社の由来だと記されています。当時の民衆が神様に対して切なる願いを記録した貴重な資料となっています。
--------------------------------
古代っていつ頃のことなんですかね?
神話の時代ということなのでしょうか?
旧石器時代?縄文時代?弥生時代?古墳時代?・・・
わかりません。
神社の本殿(ピンボケしたので、この写真は他人のを借りました)
そして、この裏手に武田軍vs徳川軍の三方ヶ原の戦の前哨戦となった木原畷古戦場があるのだが、先を急ぐので、そこまでは行かなかった。
旧東海道は太田川に架かる「三ケ野橋」という幅の広い橋を渡る。
雲に隠れた太陽がまるでゴッホの「星月夜」の様だ。
次の宿、見付に向かうのだが迷いやすい紛らわしい道がある。
その分岐点がコレ
本来は左の急な坂へ向かって登っていくのだが、右の道には大きな松が何本かある。
旧街道沿いには大きな松が多いのだが、故に俺もためらわずに右へ行ってしまったのだ。
右に行くと大きな国道1号線にでてしまう。
あの松を「誑(たぶら)かしの松」と名付けたい。
ここで何十分か迷って時間をつぶしてしまった。
この左への坂は崖崩れが多いらしく、あちらこちらで倒木の跡が見られた。
危険な道である。
根元の土が崩れ落ち、今にも道路に倒れて落ちてきそうなのだ。
坂を上がりきったところで旧東海道は突然90度に右折となる。
その曲がるか所には案内板があるにはあるが、大変小さくて見過ごして通過してしまう箇所である。
そして、28番目の宿場町、見付宿にはいった。
(つづく)
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部屋から外の景色を眺めると妙に気になる真っ赤に輝く店がある。
それは、昼間見た「金の豚」の別店舗だった。
どうやら、チェーン店らしい。
あれこれ気に入った店を探す気力もないので、そこで食べることにした。
入ってみると、「金の豚」らしい金色の豚料理はなくて、ただのラーメン店だった。
店内はガラガラ。
ちょっとガッカリしたが、とりあえず注文。
生ビールはうまかったが、ラーメン他は特に特徴がなく普通だったように思う。
東京の高田馬場を中心とした激しいラーメン戦争を考えると随分とノンビリした味だった。
激戦区で生き残れる味ではないと思った。
ホテルに帰る途中で酒屋に寄って、豪華多種のつまみと缶ビール3本を買い込み、部屋に戻ってからはコインランドリーで洗濯をしながら、一人ご苦労さん会をやった。
一人旅は夜が寂しく、話し相手がいないと手持無沙汰になにかしたくなる。
拾ってきたお茶の実を砕いて飲んだらお茶の味になるかと試そうと思った。
砕くと中から白い油っぽい実がでてきたが、食べて腹でも壊すといかんと思い、また、明日があるからと早々に寝ることにした。
9時前には寝てしまったように思う。
だが、帰ってきてから調べたらお茶の実からはオリーブオイル以上の最高級の油が採れるらしい。
その名もティーオイル(茶実油)
食べてみれば良かった。
さて、翌朝・・・
睡眠時間が長かったせいか、朝からすこぶる快調で、足腰もいたくなかった。
ちらかった部屋の窓から見える「金の豚」
その「金の豚」の奥、その延長線上に富士山の頭が見えた。
豚つながりで頭というよりも、なんだか、豚の鼻にみえてしまった。
そしてまた「金」という字にも見えるのだから、朝から想像力(妄想力?)が働き前頭葉も活発だった。
金
チェックアウトの準備を済ませ、ホテルの朝食バイキングをいただいた。
すこぶる料理内容がよくて、普段朝飯は小食なのだが、「和食+洋食+フルーツタップリ」で、多分通常の3倍以上は食べたように思う。
昨日着いた旧東海道のポイントまで忠実に戻り、ゆっくりと走り始めた。
スタート時刻は7時半
医者の建物(記念館である。)
正面から見るとあまり大きくない家屋に見えるが、実はウナギの寝床である。
この宿の本陣も、跡地からして同じウナギだった。
おそらく、街道沿いには隙間なく間口が狭く奥行きが長い二階建ての町人の家屋がビッシリ建ち並んでいたことだろう。
ただし、二階を生活の場とすると大名行列を見下ろすことになるので、物置だったはずである。
細長い敷地だが、ゆとりのある間取りである。
仏間の前の座敷などは気持ちがよさそうである。
中に入って見学したかったが10時からオープンなのでダメだった。
ニワトリ語で朝の挨拶(コケコッコー!)
旧東海道は国道から別れ、旧道らしい幅の道になる。
そして、大きな一里塚(右写真)
なんだか由緒ありそうな許禰神社(こねじんじゃ)と境内にある大クスノキ(推定年齢300年以上)
-----(以下、説明看板より)-----
遠江では平治元(1159)年以降、しばしば熊野新宮を造営する費用をまかなうための国に指定されたので、多数の熊野神社が建てられました。
袋井市域でも、土橋で熊野権現社、松袋井で熊野十二社神社が現在でも祭られていることから、古代末期より和歌山県の熊野山とはたいへん深い関係にあったことが分かっています。 木原の許禰神社(こねじんじゃ)は、かつては木原権現社と呼ばれ、古代末期に創建されたと考えられています。許禰神社は古代の神社名帳(式内社)のなかに見られる神社で、一説には古代の許禰神社が木原権現社になったともいわれています。 「木原権現由来記」という全長17mもある巻物が残されています。由来記には、ある日木原の子供に熊野の神がのり移り、この地に熊野の神を祭れば、洪水を防ぎ、穀物の実りを豊かにするお告げがありました。天災に苦しんでいた村人は早速に熊野の神を祭った。これが木原権現社の由来だと記されています。当時の民衆が神様に対して切なる願いを記録した貴重な資料となっています。
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古代っていつ頃のことなんですかね?
神話の時代ということなのでしょうか?
旧石器時代?縄文時代?弥生時代?古墳時代?・・・
わかりません。
神社の本殿(ピンボケしたので、この写真は他人のを借りました)
そして、この裏手に武田軍vs徳川軍の三方ヶ原の戦の前哨戦となった木原畷古戦場があるのだが、先を急ぐので、そこまでは行かなかった。
旧東海道は太田川に架かる「三ケ野橋」という幅の広い橋を渡る。
雲に隠れた太陽がまるでゴッホの「星月夜」の様だ。
次の宿、見付に向かうのだが迷いやすい紛らわしい道がある。
その分岐点がコレ
本来は左の急な坂へ向かって登っていくのだが、右の道には大きな松が何本かある。
旧街道沿いには大きな松が多いのだが、故に俺もためらわずに右へ行ってしまったのだ。
右に行くと大きな国道1号線にでてしまう。
あの松を「誑(たぶら)かしの松」と名付けたい。
ここで何十分か迷って時間をつぶしてしまった。
この左への坂は崖崩れが多いらしく、あちらこちらで倒木の跡が見られた。
危険な道である。
根元の土が崩れ落ち、今にも道路に倒れて落ちてきそうなのだ。
坂を上がりきったところで旧東海道は突然90度に右折となる。
その曲がるか所には案内板があるにはあるが、大変小さくて見過ごして通過してしまう箇所である。
そして、28番目の宿場町、見付宿にはいった。
(つづく)
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