旧東海道は目川池の周りを通る金勝川(草津川の支流)の土手に突き当たる。
土手は結構高くて、あがってみたが、川は水のない天井川であった。
(Google Map ストリートビューより)
川の向こうに目川池という池があるはずなのだが、全く見えなかった。
このあたりは目川という地名で、ヒョウタンが有名である。
面白い形のヒョウタンがあれば買ってもよかった。
ビニールで包まれタイヤのついた馬と牛のハリボテは何に使うだろうか?
それと、主食に菜飯(なめし)、副食に田楽という豆腐料理、お酒に菊の水というセット商品が「安くて、美味しくて、腹もちがよい」ということで「めがわ田楽」の商品名で有名だったらしい。
菜飯の菜っ葉を切ってますね。(北斎画)
目川田楽復元(左:銘酒「菊の水」、中:菜飯、右:田楽) (目川.おこし-やす.comよりコピペしました。)
今の豊かな食事と比較して、実に質素で少ないのだが、あの旧東海道を行き来していたという体力はどうやって出せるのだろうか?
調べてみた。・・・江戸ガイド、参照、
それは、庶民の食事の基本は「一汁一菜」なのだが、コメは沢山たべていたということらしい。
なんと、1日に米5合食べていた!!!
江戸ガイド、お米を1日5合食べていた !?よりお借りした(『美盾十二史(みたてじゅうにし)』「申与次郎」歌川国芳 画)
画はまさに一汁一菜だが、コメだけは米櫃ごとデーンと脇に置かれている。
(マラソンでも、バナナよりオニギリの方が腹持ちが良く、力が出る気がするのは自分だけじゃないだろう。)
タンパク質などの栄養素は乏しいが、エネルギーは相当充電される。
ただし、貧しい農家の場合には、米を食べることはめったになく、いもや麦、ひえなどを主食にしていて、厳しい食生活であったようだ。
ついでに江戸時代のお酒について調べてみた・・・「江戸時代の酒は薄かったのか?」を参照、以下要約すると
1. 江戸時代の精米では良くても精米歩合は92%→当然雑味も多く含まれ発酵過程で糖化が非常に進む→濃く甘い日本酒が出来る(味醂みたいに味が非常に濃い)
2. 江戸時代の酒税の特徴は造った酒の量に税金が課せられ、アルコール度数は関係なかった→蔵元はあらかじめ濃く造っておき、税金を安く上げた
3. もともとの味が濃いので加水して味を調整
ということで、日本酒は甘いものでアルコール度数は5%くらいだったようで、ビールぐらいの度数だから、相当飲んでも、今の日本酒(15~16度)とは酔う程度が違っていたようだ。
昔の大酒呑みでも、今の度数の高い酒なら酩酊してしまうだろう。
目川の立場跡に2軒ほど「菊の水」を飲ませる酒屋があった。
この酒はおそらく次の東海道と中山道の追分宿である草津宿で売られているであろうから、中仙道ランニングの時、草津に宿泊し飲もうと思う。
鬼百合の花が天井川である草津川の土手沿いに延々と咲いていた。
老牛馬養生所阯
説明板には、村の庄屋が老廃牛馬の打はぎ(殴り殺して皮をはぐこと)をしている様子を見て、その残酷さに驚き、息のある間は打ちはぎをやめさせ、ここに老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生所を設立したとある。
昔の庶民は牛馬を大事にしたからだ。
肉食の習慣はあまりなく、食べるとしても薬としてだ。
動物性タンパク源は魚であった。
現代の日本ではどうであろうか?
環境省の動物の殺処分方法に関する指針を調べてみた。
第3 殺処分動物の殺処分方法
殺処分動物の殺処分方法は、化学的又は物理的方法により、できる限り殺処分動物に苦痛を与えない方法を用いて当該動物を意識の喪失状態にし、心機能又は肺機能を非可逆的に停止させる方法によるほか、社会的に容認され
ている通常の方法によること。
では実際の方法はどうなのか、その実態を俺は何も知らない。
ただ、東中野のポレポレ座で牛のについての映画が上映されていたことは、興味が持てず観てはいないのだが、なんとなく知っていた。
ネットでアレコレ調べてみたら、次の映画だった。
小学生1年の頃、夜店で買ったヒヨコ(名前は、「ぴーちゃん」だったと思う?)を親代わりの目覚まし時計(カチカチ音がするからヒヨコが安心する)と温めるための豆炭アンカと、餌は野菜屑や野草で大きく育て、いつかは大きな卵を産むかと楽しみにしていたが・・・、
それが、なかなか生まず(トサカが大きかったからオスだったようだ)、ついにある時、父親がそれをお袋の田舎にお盆帰省した際にバイクで運んで、集まった親戚一同でから揚げ等にして食べてしまったことがある。
その時、「他の生物の命を戴いて人間は生きている」ということを教えるためだと思うのだが、親父が俺に、血を抜くために宙づりにされた「ぴーちゃん」をみせたという記憶がある。
親父は、御飯も「お百姓さんが汗水たらしてこしらえた米だから、一粒でも残したらダメだぞ!」とか、「お米の字をみればわかるが、八十八の手間がかかってるんだ。」とか、よく言ったものだが、食肉については、鳥をしめる現場を直接見せるよい機会だからと俺に見せたように思う。
俺は、全く泣かなかったようだ。
まだ幼かったからであろう。
とにかく、「悲しい」と思った記憶は全くないし、変わり果てた姿の鳥のから揚げも美味しく食べた気がするのだが、
宙づりになった「ぴーちゃん」の映像だけは、ありありと強烈に記憶として残っている。
だから、今でも食材を粗末にしたり、食べ残すことは嫌いである。
今思うと、映画を観ればよかった。
ついに草津宿に入る
横町の道標
結構、おおきな常夜灯である。
といっても、比較対象がないから判らないとは思うが・・・。
ココが草津宿の追分である。
常夜灯も横町の道標と同じぐらい大きい
今回の目的地である南草津駅に到着。
本日はここでオシマイ。
ここから、バスでスーパー銭湯へ向かった。
琵琶湖の傍のスーパー銭湯に入り、レストランで食事。
この黄金色の一杯が堪らない。
クゥーッ!!!
一杯が二杯、三杯となってしまった。
次回のランは草津宿から京都三条大橋(約26km)である。
ついに旧東海道の旅もゴールなのだ。
ラン実行日は、いつも思い立ったが吉日で決めているのだが、今回は、人気である京都の宿泊予約の関係から、紅葉の秋である11/26(土)に早めに決めたのだった。
シーズン中の宿の予約は結構いっぱいで、やっと取れたという具合であった。
26日の土曜日に三条大橋の上で、女房と合流することになっている。
(おしまい)
当ブログは若者の自立を支援する団体、NPO法人ネイチャーズを応援しています。
NPO法人ネイチャーズは、走Run会名誉会長、ウィンドサーフィンの師匠の山下光哉さんが運営する若者のためのNPO。
悩める若者や親御さん、是非お御問合せください。丁寧に対応してくれると思いますよ。
人気ブログランキングへ
ブログランキングに参加してます。宜しかったらポチっとクリック願います!
土手は結構高くて、あがってみたが、川は水のない天井川であった。
(Google Map ストリートビューより)
川の向こうに目川池という池があるはずなのだが、全く見えなかった。
このあたりは目川という地名で、ヒョウタンが有名である。
面白い形のヒョウタンがあれば買ってもよかった。
ビニールで包まれタイヤのついた馬と牛のハリボテは何に使うだろうか?
それと、主食に菜飯(なめし)、副食に田楽という豆腐料理、お酒に菊の水というセット商品が「安くて、美味しくて、腹もちがよい」ということで「めがわ田楽」の商品名で有名だったらしい。
菜飯の菜っ葉を切ってますね。(北斎画)
目川田楽復元(左:銘酒「菊の水」、中:菜飯、右:田楽) (目川.おこし-やす.comよりコピペしました。)
今の豊かな食事と比較して、実に質素で少ないのだが、あの旧東海道を行き来していたという体力はどうやって出せるのだろうか?
調べてみた。・・・江戸ガイド、参照、
それは、庶民の食事の基本は「一汁一菜」なのだが、コメは沢山たべていたということらしい。
なんと、1日に米5合食べていた!!!
江戸ガイド、お米を1日5合食べていた !?よりお借りした(『美盾十二史(みたてじゅうにし)』「申与次郎」歌川国芳 画)
画はまさに一汁一菜だが、コメだけは米櫃ごとデーンと脇に置かれている。
(マラソンでも、バナナよりオニギリの方が腹持ちが良く、力が出る気がするのは自分だけじゃないだろう。)
タンパク質などの栄養素は乏しいが、エネルギーは相当充電される。
ただし、貧しい農家の場合には、米を食べることはめったになく、いもや麦、ひえなどを主食にしていて、厳しい食生活であったようだ。
ついでに江戸時代のお酒について調べてみた・・・「江戸時代の酒は薄かったのか?」を参照、以下要約すると
1. 江戸時代の精米では良くても精米歩合は92%→当然雑味も多く含まれ発酵過程で糖化が非常に進む→濃く甘い日本酒が出来る(味醂みたいに味が非常に濃い)
2. 江戸時代の酒税の特徴は造った酒の量に税金が課せられ、アルコール度数は関係なかった→蔵元はあらかじめ濃く造っておき、税金を安く上げた
3. もともとの味が濃いので加水して味を調整
ということで、日本酒は甘いものでアルコール度数は5%くらいだったようで、ビールぐらいの度数だから、相当飲んでも、今の日本酒(15~16度)とは酔う程度が違っていたようだ。
昔の大酒呑みでも、今の度数の高い酒なら酩酊してしまうだろう。
目川の立場跡に2軒ほど「菊の水」を飲ませる酒屋があった。
この酒はおそらく次の東海道と中山道の追分宿である草津宿で売られているであろうから、中仙道ランニングの時、草津に宿泊し飲もうと思う。
鬼百合の花が天井川である草津川の土手沿いに延々と咲いていた。
老牛馬養生所阯
説明板には、村の庄屋が老廃牛馬の打はぎ(殴り殺して皮をはぐこと)をしている様子を見て、その残酷さに驚き、息のある間は打ちはぎをやめさせ、ここに老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生所を設立したとある。
昔の庶民は牛馬を大事にしたからだ。
肉食の習慣はあまりなく、食べるとしても薬としてだ。
動物性タンパク源は魚であった。
現代の日本ではどうであろうか?
環境省の動物の殺処分方法に関する指針を調べてみた。
第3 殺処分動物の殺処分方法
殺処分動物の殺処分方法は、化学的又は物理的方法により、できる限り殺処分動物に苦痛を与えない方法を用いて当該動物を意識の喪失状態にし、心機能又は肺機能を非可逆的に停止させる方法によるほか、社会的に容認され
ている通常の方法によること。
では実際の方法はどうなのか、その実態を俺は何も知らない。
ただ、東中野のポレポレ座で牛のについての映画が上映されていたことは、興味が持てず観てはいないのだが、なんとなく知っていた。
ネットでアレコレ調べてみたら、次の映画だった。
小学生1年の頃、夜店で買ったヒヨコ(名前は、「ぴーちゃん」だったと思う?)を親代わりの目覚まし時計(カチカチ音がするからヒヨコが安心する)と温めるための豆炭アンカと、餌は野菜屑や野草で大きく育て、いつかは大きな卵を産むかと楽しみにしていたが・・・、
それが、なかなか生まず(トサカが大きかったからオスだったようだ)、ついにある時、父親がそれをお袋の田舎にお盆帰省した際にバイクで運んで、集まった親戚一同でから揚げ等にして食べてしまったことがある。
その時、「他の生物の命を戴いて人間は生きている」ということを教えるためだと思うのだが、親父が俺に、血を抜くために宙づりにされた「ぴーちゃん」をみせたという記憶がある。
親父は、御飯も「お百姓さんが汗水たらしてこしらえた米だから、一粒でも残したらダメだぞ!」とか、「お米の字をみればわかるが、八十八の手間がかかってるんだ。」とか、よく言ったものだが、食肉については、鳥をしめる現場を直接見せるよい機会だからと俺に見せたように思う。
俺は、全く泣かなかったようだ。
まだ幼かったからであろう。
とにかく、「悲しい」と思った記憶は全くないし、変わり果てた姿の鳥のから揚げも美味しく食べた気がするのだが、
宙づりになった「ぴーちゃん」の映像だけは、ありありと強烈に記憶として残っている。
だから、今でも食材を粗末にしたり、食べ残すことは嫌いである。
今思うと、映画を観ればよかった。
ついに草津宿に入る
横町の道標
結構、おおきな常夜灯である。
といっても、比較対象がないから判らないとは思うが・・・。
ココが草津宿の追分である。
常夜灯も横町の道標と同じぐらい大きい
今回の目的地である南草津駅に到着。
本日はここでオシマイ。
ここから、バスでスーパー銭湯へ向かった。
琵琶湖の傍のスーパー銭湯に入り、レストランで食事。
この黄金色の一杯が堪らない。
クゥーッ!!!
一杯が二杯、三杯となってしまった。
次回のランは草津宿から京都三条大橋(約26km)である。
ついに旧東海道の旅もゴールなのだ。
ラン実行日は、いつも思い立ったが吉日で決めているのだが、今回は、人気である京都の宿泊予約の関係から、紅葉の秋である11/26(土)に早めに決めたのだった。
シーズン中の宿の予約は結構いっぱいで、やっと取れたという具合であった。
26日の土曜日に三条大橋の上で、女房と合流することになっている。
(おしまい)
当ブログは若者の自立を支援する団体、NPO法人ネイチャーズを応援しています。
NPO法人ネイチャーズは、走Run会名誉会長、ウィンドサーフィンの師匠の山下光哉さんが運営する若者のためのNPO。
悩める若者や親御さん、是非お御問合せください。丁寧に対応してくれると思いますよ。
人気ブログランキングへ
ブログランキングに参加してます。宜しかったらポチっとクリック願います!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます