歩いたりジョグしたりして楽しく旅ラン(誰でも参加OK)…四ッ谷 走Run会!!(はしらんかい!!)

NPO法人ネイチャーズが母体の、基礎から始めてウォーキング、ジョギング、旅ランを楽しむ会です。孤独な人もおいで!

今年を振り返り・・・

2014年12月31日 | ちょっとした話
あと数時間で今年も終わろうとしているので、ウィスキーを飲みながら振り返ってみた。


・まず、ランニングに関して、…


平成26年はウルトラマラソン完走という、数年前の自分では全く考えられない1大イベントを達成することができた年であった。

今でも、完走出来たことが不思議に思える気分だ。

数年前の事、小野先生、佳子先生にウルトラマラソンの魅力を聞き、その世界を覗いてみたいと思うようになる。
同時に、夢のような絶対に無理な話に思えた。

だが、覗けないものがあると、どうしても覗いてみたくなるのが男の○○○心である。

二重あご、ビール腹の以前の自分に、
なあ、お前!ウルトラマラソンはそんなに甘いもんじゃおまへんにゃ、全く恐れ多い話である、頭が高い!控えおろう!
とウルトラマラソンの神様はおしゃったのだが、・・・。

そういわれると我、天邪鬼なる魂は『無理だ!』と決めつけられた束縛を嫌い、自由を求め、無謀にも挑戦し始める。
フルマラソンは5時間半ぐらいでしか走れないのにである。(今でもそうです。)

ただ、挑戦しても何も失うものは無く、死ぬ訳でもない。



結局、奥武蔵ウルトラマラソン第一関門にて挫折すること2回、奥秩父札所めぐりウルトラマラソン第二関門にて挫折。

ああ、こんなことで完走なんぞ夢のまた夢。

(ここでウィスキーをグィツと飲んだ)

ソッ、ソッ、ソクラテスか、プラトンか~
皆悩んで大きくなったぁ~!


そうだ!
人間は考える葦だとパスカル先生はおっしゃった。


弱々しい「葦」ではあるが、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神をもつ葦は必ず復元するのだ。

そこで、自分が完走できるために、どうすべきかを考えた。



バカボンのパパ風に

『吾輩は考える足になるのだ。
それでいいのだ。』



1. 足腰を傷めないように無駄のないエコな走り方を目指す。
2. 事故って怪我した足のハンディを如何にカバーするか?
3. 大会3か月前は月間200キロを目指すが、日々の日常活動の中で距離をどう稼ぐか?
4. 大会中、以下に走り方、歩き方、休み方を展開すべきか?



練習中は千日回峰行のお経をとなえながら走る阿闍梨ではないが、モチベーションをさげないよう岡村孝子の「夢をあきらめないで」を呪文のようにブツブツ唱えながら自分を鼓舞し、「絶対にあきらめない!」とひたすら地道に、近所の乾いた坂道を走っていた。





そして、今年…
ウソのようにチャレンジ富士五湖72k完走、伊南川ウルトラ遠足100k完走してしまった。
ヒョイっと完走してしまったのである。



アレ?


『考える』ということは、とんでもない可能性を広げるものだ。


とにかく、完走してしまったという言い方がピッタリなのである。




かなり、酔ってきました。
ふっー
そこで、ついでにもう一つ・・・



・世の中の流れに関して思う事


今年は日本、否、世界にとって大きなターニングポイントになる、まさに手前直前の年であったと思っています。

世界中の政治、経済、金融、暴動、格差、それらが、その兆候を示しています。

まるで、今年爆発した、木曽御嶽山のように真っ赤なマグマが静かな地上とは裏腹に地下で蠢いているかのようです。

特に実体経済と金融工学が生んだ仮想経済はあまりにも大きくかけ離れてしまいました。
その肥満した仮想経済がいまや破裂寸前であり、その歪が、いままさに大地震を起こさんとしている状態であると思います。


ですが、そういった大変な時代に生まれた自分をラッキーだと感じている自分がいます。
大嵐に向かうサーファーのような気分でしょうか。
まるで、ネイチェルカーソンのセンスオブワンダーに出てくる、大嵐の波の前に立つ子供の様にワクワクしてしまう自分がいます。
不謹慎かもしれませんが、なんだかんだといっても、世の中が大きく変化することが面白いのです。



来年から再来年にかけては、時代は残念ながら大きく暗く変わると思います。
ですが、その暗闇的混沌の中から人類は目覚め、新未来の幕開けの時代になるかもしれません。

その目前の嵐を如何に切り抜け、抜け出し、次に来る新たな価値観の時代を迎えるか楽しみです。

飲んでる御酒も危険量域になってきました。

もう書くのは止めようと思うが、まあ今日は大みそか


・健康に関して思う事

ここしばらく、母の介護もあり、また身近な同年代の人間がなくなっていくこともあり、今年は自分の死について考えさせられる年でもありました。

私の全く同じ歳の人の葬式は参列者が数千人であり、その人の仁徳が顕われた葬儀でした。
でも、写真に写る彼は俺には納得した死に方ではなかったように思えました。

そして、自分は参列者がゼロでもかまわないから、
「自分の魂が自由であり、納得した死に方をしたいものだ。」
と思ったのでした。



あと、俺は何年いきられるのだろう?

その間に、俺の魂は自由に羽ばたけるのだろうか?

自分は何かに固執してないだろうか?

ああ、だめだぁこりゃぁ。



もうやめよっと!





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