とはいえ、現実がそんなに不安定なものだ、というのはにわかには信じがたいことです。
何かのイベントのたびに世界が分かれていたら、一体この宇宙にどれだけパラレルワールドがあるちゅうねん。気い遠くなるやろ。
でも、これは一つの物語として受け止めればいい、と私は思っています。
世界がパラレルワールドに分かれるだの、私とあなたの世界は違うだのといったことは、とても面白い「お話」だと思えばいい。
バシャールがポジティブに生きろというからといって、どんなことでもネガティブに受け取るのはよくない、という意味ではありません。
世界には理不尽なことがたくさん起きており、人間の歴史そのものがネガティブな事実の堆積であるといっても過言ではありません。
そんな世界の中でどうすればポジティブでいられるの?
自分の家族が殺されてもポジティブでいろというの?
もちろん違います。
そういう時は全力で戦うしかない、そう思います。
これは一つの思考実験だと思えばいいのです。
シュレジンガーの猫みたいな。
私は子どもの頃から、この世界って一体どういう場所なのか、ということに非常に興味がありました。
ポンと生まれてきたけど、ここはどこ、私は誰?
小学校の時、理科の教科書に宇宙の話が載っていて、
私たちがいるのは、銀河系の中の太陽系の中の小さな惑星である地球である。そして、銀河系は同じような銀河の集団である銀河団の一部であり、その銀河団はより大きな島宇宙の一部であり、そうした島宇宙が宇宙にはたくさんある・・というようなことが書いてありました。
それを読んだとき、突然世界がぐるぐるして、私は眩暈のようなものを感じました。
私がいるのはちっぽけな地球という星で、この宇宙は果てしなく(それこそ本当に果てしなく)広いのだ、ということを生まれて初めて実感したからです。
そして、宇宙ってどんな場所なのだろう、銀河って、島宇宙って・・と果てしなく想像を巡らせたのでした。
でも、当時は、女の子がそんな想像を巡らせるなんてことはご法度だったのですね(いつの時代じゃ)。
「本ばっかり読んでないで家の手伝いをしなさい」と母に叱られてばかりいました。
本を読むことも空想することも、やりたいことをやることも、何もかもがご法度だったのです。女の子は自発的に何かをしてはいけない。そういう時代でした。
高校生の時に「大学に行きたい」と言ったら、父は目をむいて怒りました。
「女が大学に行ってどうする!」
(その後家を出て自力で夜学には行きましたが好きなことはできなかった)
だから、大人になってもずっと不思議でした。
この世界とはどういう場所なのだろう。
地球とは宇宙とは時間とは過去とは未来とは・・どういうものなのだろう。
物理学や天文学は難しすぎてよくわからない。相対性理論や量子力学の入門書(素人向けに易しく書かれたもの)を読みあさった時期もありましたが、やはりよくわからない。
そうしていつのまにか時が過ぎていき、40歳頃になってようやく、シャクティ・ガーウェインやバシャールと出会ったのでした。
その時私は子どもの頃から抱いていた疑問、この世界とはどういう場所なのか、という疑問に対する答えの一端を得たような気がしました。
もちろん正解は一つではないと思います。人にはそれぞれの世界があるのだから。
ただこれだけは言えると思うのです。
子どもの頃から両親にしつけられてきた教訓(それこそ身に沁み込んでいます)、すなわち、
女は自力で何かをしてはいけない、女は男に従わなくてはいけない、自分で何でもできるといった傲慢に陥ってはいけない(女は往々にして傲慢になりがちだから)、
という教訓は全くもって全面的かつ完全に間違いだった、という確信を得たこと。
今の人たちには理解できないかもしれませんが、私の親の世代は軍国教育を受けて育った極め付きの保守が多い世代です。
その親に育てられた私たち団塊の世代の女たちは、いまだに、往々にして、その教訓の犠牲になっている気がします。上辺はそうは見えなくても、潜在意識の中に沁み込んでいるように思います。恐るべし幼児体験。
バシャールやシャクティ・ガーウェインは、そうした囚われた心を解放してくれたのですね。
そうか、私が私の世界を作っている、私は私の世界の王なのだ。
誰かに従う必要はない。私は自由なのだと。
そう教えてくれたのでした。
ネガティブな教え(~してはいけない、~をすると悪いことが起きる、あるいは、あいつのせいでこうなった・・等々)は人々を分断します。恐れや憎しみを植え付け、たえず怯えて生きていくことを強要します。
でも、愛は人々を幸福で満たし、それぞれの世界を認め合い、尊重しあい、そして、互いに繋がりあうことができます。
分断ではなく愛を!
今、世界に真に必要なことだと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます