二宮忠八を追いかけているうちに、
結局のところ、人類は戦争によって飛行機を進化させてきたという歴史に想いを馳せざるをえなくなりました。
先日見た「ゴジラ-1,0」の山崎貴監督の有名な映画「永遠の0」は見ないわけにはいかないだろうと思い、アマプラで見てみました。
岡田准一がけっこう好きなので岡田准一の登場するシーンはどれもよかったなあ。
でも、あのベタな悲劇の描写は何とかならんのかい、と最後の方はかなり引いてしまいました。
ベタすぎる。
こんなもんをお涙頂戴の感動作に仕上げてどうする、というのが率直な感想です。
反戦映画に見せかけた戦争プロパガンダ、ですね。
泣かせておいて、どうだ酷いだろう、これが戦争だ、とたたみかける。
その根底にあるのは、お前はお国のために死ねるか? という問いです。時代錯誤もいいとこ。
もちろん描かれているのは特攻隊の若い兵士たちで、岡田准一演じるところの宮部久蔵は特攻隊の訓練士官。彼はとにかく生きて妻と娘のところに帰りたい。
特攻隊の訓練生たちにも「不可」を連発して何とか死地に赴かせないようにする。それが仲間や上層部の反感を買い、あいつは臆病だ、卑怯者だ、お国に命をささげることを厭う、と非難されます。
でも最後に、宮部は特攻兵としてアメリカ軍の航空母艦に激突して戦死します。
「ゴジラ-1,0」の敷島と似てますね。敷島はパラシュートで脱出して助かりますが、助かったからよい、ということではない。
この2本の映画に共通している思想はやはり、
「お前はお国のために死ねるか」だと思うのです。
そこにフォーカスすると、人生で何がしたいのか、どう生きたいのか、に霞や靄がかかってきます。
戦争プロパガンダとはそういうものだから。
ついでに言うと、初代「ゴジラ」(1954年)は戦争で亡くなった英霊たちがゴジラとなって現れたという解釈でいいのではないかと思いますが、
一方、「ゴジラ-1,0」のゴジラは、実はアメリカではないか、とも思うのです。
最後にノリコの首に奇妙な痣が残っていますが、その痣は(穿った見方をすれば)この先日本を支配するアメリカの権力の兆しである、ともいえるのではないか。
「ゴジラ」の真髄は「神」なのですが、「ゴジラ-1,0」のゴジラは神ではなく、ある意味アメリカであり、また人間が作り出したモンスターにすぎない。
だから、私はあれはゴジラではない、と思うわけなのです。
まあ、ごく少数派の見方ではありますが。
映画はエンターテイメントなので気楽に楽しめばいいのですが、その中にどんなメッセージが隠されているかについては注意しておく必要があるでしょう。
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