「境界」を越える花嫁
ーーエラン・リクリス監督『シリアの花嫁』(2004年)
越川芳明
シリアとイスラエルの国境地帯のゴラン高原にあるマジュダルシャムスという村が舞台。
映画は、花嫁になるモナとその家族が過ごす結婚式の一日を追うだけだ。
だが、そうしたありふれた家族劇(ファミリー・アフェア)に世界規模の政治問題を盛り込むという離れ業を見せる。
結婚式という小さな舞台装置を使って、民族やジェンダーの問題に対して、「境界」を越えることの意義を映像でしめすボーダー映画の傑作だ。
さて、世界規模の政治問題とは、民族的・宗教的な少数派への弾圧や迫害をもたらす「国境線」をめぐる争いに他ならず、パレスチナのガザへのイスラエルによる軍事攻撃はいうまでもなく、それはアフリカのルワンダ紛争やインド・パキスタンのカシミール紛争など、アジアやアフリカを舞台にした列強による植民地支配の負の遺産というべきものだ。
ゴラン高原は、もとはシリアの領土だったが、第三次中東戦争(一九六七年)でイスラエルが占領し、八一年に併合を宣言した。
シリアから分断されてしまったこの地域には、イスラム教の少数派ドゥルーズ派の人々が二万人ほど住んでいる。
居ながらにして故郷を失った、そうしたディアスポラの民を、映画は扱っている。彼らのパスポートには、いま「無国籍」と記されている。
花嫁のモナは政治的にはごく穏健な女性だ。
彼女の結婚が通常のそれと異なるのは、二度目の結婚に不安を抱えているのみならず、今度の結婚相手がシリア人であり、イスラエルを出国してひとたびシリア国籍を取得すれば、ふたたびゴラン高原の村には戻れないからだ。
晴れの結婚式が家族との最後の悲しい別れになる。
映画は彼女のそうした非常にアイロニカルな状況を主題にする。
しかし同時に、国境線以外にも、個人の前に立ちはだかる「障壁」としての境界と、それを越えようとする人々の葛藤が描かれている。
それらは国境線の鉄のフェンスように目に見える明確なかたちを取っておらず、無意識の中に刷り込まれた壁である。
これを越えるには本人による主体的な意識革命が必要だ。
その一つは、ジェンダーの境界であり、その障壁には花嫁の姉アマルが挑む。
彼女は、長老たちを頂点とする男性中心主義によって周縁部に追いやられた「見えない存在」だ。
イスラエル人の警察署長と対等にわたりあう交渉力に示される秀れた知的能力を有しながらそれを発揮できる場を奪われた、共同体内部の「他者」だ。
冒頭とラストでこの女性の顔をアップで映し出す。
冒頭では、彼女はベッドで横になって憂鬱そうな顔をしているが、ラストでは妹の行動に刺激をうけて、明るく決然とした表情で坂をのぼっていく。
それは、彼女が不幸な結婚生活に見切りをつけて、夫の望まない大学進学を決意したことを暗示している。
もう一つ「境界」は、長老たちの言動に象徴される伝統的価値観であり、花嫁の父ハメッドの前に立ちはだかる。
ハメッドは村の掟を破ってロシア人女性と結婚した長男ハテムを許すことができない。
とはいえ、息子への愛情を失ったわけではない。そういったハムレット的ジレンマがどう解決されるのか、映画の一つの見所である。
監督のエラン・リクリスは、イスラエル人であり、イスラエルの国境地帯の人々(本作のようにイスラエルに住むパレスチナの住民や、国境地帯のイスラエルの軍人など)を撮ったドキュメンタリー作品『ボーダーズ』(一九九九年)がある。
国境線に制約されて生活することの不条理に、政治的なイデオロギーからではなく、庶民の視座で迫る。
本作でも、大人の男たちが一階の居間で議論するのに対して、女性たちはよそ者には入れない奥の方の、二階の居間や台所で本音を語る。
映画は、そうしたイスラム社会におけるジェンダーの記号論をふまえるだけでなく、「他者」の内面に入り込む。
とりわけ、女性たちの本音が渦巻く台所で、トマトの切り方をめぐって、異なる文化をもつロシア人女性イヴリーナと義母とが共に歩み寄るシーンが実に印象的である。
さらに、『シリアの花嫁』で注目すべきは、結婚式の一日を撮るべく雇われた、ちょっと太めのカメラマンの存在だ。
彼はイスラエル人であり、ドゥルーズ派の人たちにとって部外者であり、滑稽なかたちで他ならぬ監督の立場を「代弁」する。
カメラマンの存在が映画論的に見て興味深いのは、彼が撮っているという設定の非常に短いモノクロ映像が何度か差し挟まれている点だ。
そのうちの最初のモノクロ映像で、花嫁の姉アマルはカメラに向かって、「これを見る時、モナは既にあなたの妻のはず。今日が姉妹の最後の日よ。宝物をあなたに託す。どうか大切にして守ってあげて」と、述べる。
映画の中に数度差し挟まれるそうしたモノクロ映像は、部外者の視線を連想させるだけでなく、その場にいない人(結婚相手に象徴される)の未来からの視線をも想像させ、監督による「他者」への希望のメッセージを見事に映像化したものである。
映像芸術の語り文法(ナラトロジー)の可能性を大きく押し広げた編集の妙といえよう。
先頃イスラエルで行なわれた総選挙では、パレスチナ独立国家の樹立に消極的で、ゴラン高原のシリアへの返還にも断固応じないとする姿勢を見せた右派リクード党が議席を倍増させた。
そんな予断を許さない時世だからこそ、ユーモアをもって「境界」に挑むこの映画の存在意義は大きい。
(『すばる』2009年4月号306-307頁に少し手を加えました)
ーーエラン・リクリス監督『シリアの花嫁』(2004年)
越川芳明
シリアとイスラエルの国境地帯のゴラン高原にあるマジュダルシャムスという村が舞台。
映画は、花嫁になるモナとその家族が過ごす結婚式の一日を追うだけだ。
だが、そうしたありふれた家族劇(ファミリー・アフェア)に世界規模の政治問題を盛り込むという離れ業を見せる。
結婚式という小さな舞台装置を使って、民族やジェンダーの問題に対して、「境界」を越えることの意義を映像でしめすボーダー映画の傑作だ。
さて、世界規模の政治問題とは、民族的・宗教的な少数派への弾圧や迫害をもたらす「国境線」をめぐる争いに他ならず、パレスチナのガザへのイスラエルによる軍事攻撃はいうまでもなく、それはアフリカのルワンダ紛争やインド・パキスタンのカシミール紛争など、アジアやアフリカを舞台にした列強による植民地支配の負の遺産というべきものだ。
ゴラン高原は、もとはシリアの領土だったが、第三次中東戦争(一九六七年)でイスラエルが占領し、八一年に併合を宣言した。
シリアから分断されてしまったこの地域には、イスラム教の少数派ドゥルーズ派の人々が二万人ほど住んでいる。
居ながらにして故郷を失った、そうしたディアスポラの民を、映画は扱っている。彼らのパスポートには、いま「無国籍」と記されている。
花嫁のモナは政治的にはごく穏健な女性だ。
彼女の結婚が通常のそれと異なるのは、二度目の結婚に不安を抱えているのみならず、今度の結婚相手がシリア人であり、イスラエルを出国してひとたびシリア国籍を取得すれば、ふたたびゴラン高原の村には戻れないからだ。
晴れの結婚式が家族との最後の悲しい別れになる。
映画は彼女のそうした非常にアイロニカルな状況を主題にする。
しかし同時に、国境線以外にも、個人の前に立ちはだかる「障壁」としての境界と、それを越えようとする人々の葛藤が描かれている。
それらは国境線の鉄のフェンスように目に見える明確なかたちを取っておらず、無意識の中に刷り込まれた壁である。
これを越えるには本人による主体的な意識革命が必要だ。
その一つは、ジェンダーの境界であり、その障壁には花嫁の姉アマルが挑む。
彼女は、長老たちを頂点とする男性中心主義によって周縁部に追いやられた「見えない存在」だ。
イスラエル人の警察署長と対等にわたりあう交渉力に示される秀れた知的能力を有しながらそれを発揮できる場を奪われた、共同体内部の「他者」だ。
冒頭とラストでこの女性の顔をアップで映し出す。
冒頭では、彼女はベッドで横になって憂鬱そうな顔をしているが、ラストでは妹の行動に刺激をうけて、明るく決然とした表情で坂をのぼっていく。
それは、彼女が不幸な結婚生活に見切りをつけて、夫の望まない大学進学を決意したことを暗示している。
もう一つ「境界」は、長老たちの言動に象徴される伝統的価値観であり、花嫁の父ハメッドの前に立ちはだかる。
ハメッドは村の掟を破ってロシア人女性と結婚した長男ハテムを許すことができない。
とはいえ、息子への愛情を失ったわけではない。そういったハムレット的ジレンマがどう解決されるのか、映画の一つの見所である。
監督のエラン・リクリスは、イスラエル人であり、イスラエルの国境地帯の人々(本作のようにイスラエルに住むパレスチナの住民や、国境地帯のイスラエルの軍人など)を撮ったドキュメンタリー作品『ボーダーズ』(一九九九年)がある。
国境線に制約されて生活することの不条理に、政治的なイデオロギーからではなく、庶民の視座で迫る。
本作でも、大人の男たちが一階の居間で議論するのに対して、女性たちはよそ者には入れない奥の方の、二階の居間や台所で本音を語る。
映画は、そうしたイスラム社会におけるジェンダーの記号論をふまえるだけでなく、「他者」の内面に入り込む。
とりわけ、女性たちの本音が渦巻く台所で、トマトの切り方をめぐって、異なる文化をもつロシア人女性イヴリーナと義母とが共に歩み寄るシーンが実に印象的である。
さらに、『シリアの花嫁』で注目すべきは、結婚式の一日を撮るべく雇われた、ちょっと太めのカメラマンの存在だ。
彼はイスラエル人であり、ドゥルーズ派の人たちにとって部外者であり、滑稽なかたちで他ならぬ監督の立場を「代弁」する。
カメラマンの存在が映画論的に見て興味深いのは、彼が撮っているという設定の非常に短いモノクロ映像が何度か差し挟まれている点だ。
そのうちの最初のモノクロ映像で、花嫁の姉アマルはカメラに向かって、「これを見る時、モナは既にあなたの妻のはず。今日が姉妹の最後の日よ。宝物をあなたに託す。どうか大切にして守ってあげて」と、述べる。
映画の中に数度差し挟まれるそうしたモノクロ映像は、部外者の視線を連想させるだけでなく、その場にいない人(結婚相手に象徴される)の未来からの視線をも想像させ、監督による「他者」への希望のメッセージを見事に映像化したものである。
映像芸術の語り文法(ナラトロジー)の可能性を大きく押し広げた編集の妙といえよう。
先頃イスラエルで行なわれた総選挙では、パレスチナ独立国家の樹立に消極的で、ゴラン高原のシリアへの返還にも断固応じないとする姿勢を見せた右派リクード党が議席を倍増させた。
そんな予断を許さない時世だからこそ、ユーモアをもって「境界」に挑むこの映画の存在意義は大きい。
(『すばる』2009年4月号306-307頁に少し手を加えました)