越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(9)キューバとアメリカ(その3)

2015年10月11日 | キューバ紀行

(写真:アメリカ大使館前に並ぶ人々 2015.9.1)

(3)キューバとアメリカ(その3) 

越川芳明

2015年7月20日、国交正常化交渉の結果、ハバナのアメリカ大使館が再開された。それまでスイス大使館に間借りするかたちの「利益代表部」だった。

だが、人々はそれまでも「アメリカ大使館」と呼んでいた。建物も場所も変わらない。ただ、大使がいないだけだった(1)。

海岸通りにあるアメリカ大使館に行ってみた。9月初旬の朝早くと、1週間後のお昼すぎに。いずれも35度を越す真夏日で、道を歩いているだけで、汗が吹き出てしまう。まるでサウナの中でフィットネスをしているような感じだ。

大使館から300メートルくらい離れたところに、うっそうとした大木に覆われた小さな公園があった。人々が木陰に群がっていたが、近くの別の役所への申請者もかなり混ざっていた。

数年前のこと。90年代初頭の経済不況を背景にしたフェルナンド・ペレス監督の名作『永遠のハバナ』(2003年)に想を得て、キューバで知り合った人々に「唐突な質問ですみませんが、あなたの夢は何ですか?」と、訊いてまわったことがある。

ほとんどの人が異口同音に、外国に行ってみたい、と答えたものだった。

 じゃ、どこへ? と訊くと、たいがいの人が、どこでもいいから、とにかくキューバを一度は出てみたい、と答えたものだった。

それほど閉塞感が強かったのである。

長引く経済停滞で、毎日のように、太陽は燦々と射しているのに、人々の心の上にはどんよりとした雲が覆っているかのようだった。 

もちろん、社会のエリート層をなす政治家、役人、医者、スポーツ選手、学者、芸術家などは例外である。海外からの招聘があれば、キューバを出ることは簡単だ。だが、私が質問したのは、そうした少数のエリート層ではなかった。

小さな公園のベンチに腰をおろす老女がいた。老女と一緒にいるのは、13歳の孫娘とその母親だった。老女の息子が、8年前に単身、アメリカに亡命した。いまはマイアミで別の女性と結婚しているという。こちらでも、妻は別の男と結婚している。

老女によれば、孫娘だけがアメリカに移住するのだという。少女は英語が話せない。いくら父親がいるとはいえ、海の向こうで待っているのは、他人の家庭である。こちらで実の母親と暮らしているほうがずっと安心なのではないか。この移住に関して、母親も娘も口数は多くない。老女がすべてを私に説明してくれた。少女はすでに申請を済ませ、ここ一週間毎朝ここに来て、入国査証(ビザ)が降りるのを待っているのだという。

経済不況による移住によって、こうして家族がばらばらになり、と同時に、別のパートナーやその連れ子と一緒に新しい家族を作り直すケースがいくつも見られる。キューバでは、とくに都市部で、血のつながりに寄らない家族が増えているようだ。

このことは、必ずしもデメリットばかりではない。日本では、昔からよく「血は水よりも濃い」と言われ、血のつながりの大切さが強調されるが、血は濃いほど、逆に働くこともある。遺産相続などで、きょうだいのあいだで骨肉の争いを繰りひろげられる例が多く見られる。また、血のつながりに甘えて、自分の子供をおもちゃにする親もいる。

たとえ血のつながりがなくても、新しい両親がそれぞれの連れ子たちをいたわり、連れ子同士が仲良くしさえすれば、家族として機能する。キューバは、そんな血のつながらない家族の実験場である。古い因習にとらわれないという意味で、キューバ革命はいまもつづいている。

註1 在キューバアメリカ大使の任命には、上院議会の承認が必要。過半数をしめる共和党の反対があれば、大使不在の大使館となる。

 (参考)

革命以後のキューバから米国への移民の流れ

第1波:1959年1月~1962年10月(4年間弱)

 富裕層・中間層の政治亡命。

 24万5千人。白人が98%

 ’61年4月亡命キューバ人による軍事侵攻(プラヤヒロンの戦い)

 

第2波:1965年~73年4月(7年半) 

 29万7千人。マタンサス州カマリオカ漁港の開放。

 ’66年11月:米国1年以上の滞在者に永住権(キューバ人調整法)

「フリーダム・フライト」バラデロからマイアミへ

 

第3波:1980年4月から5カ月

 カーター政権による受け入れ。12万5千人。

 4割が黒人。7割が男性で独身。米国に親類縁者なし。

 ハバナの西マリエル港からの出港を許可(マリエトス)。

 10万人がマイアミに。中に2万人の犯罪者や精神異常者も?

 

第4波:1990年~94年9月(約9カ月)

 特別期間(経済不況)

 筏やボートに乗った難民32万2千人。

 

*牛田千鶴「在米キューバ系移民社会の発展とバイリンガリズムーーフロリダ州マイアミ・デイド郡を事例として」南山大学ラテンアメリカ研究センター編『ラテンアメリカの諸相と展望』(行路社、2004年)pp.116-144を参考に作成。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿