深い思索を促す「哲学」の書
今福龍太『ボルヘス 伝奇集 迷宮の夢見る虎』(慶應義塾大学出版会)
越川芳明
ボルヘスは、小説家や詩人といった肩書きより、ことばの「創造者」という名称がふさわしいような気がする。
今福龍太はアルゼンチンの「創造者」を「自己分裂の冷徹な目撃者」(14)と称する。自己分裂するのは人間一般である。我々は誰しもが「分裂症」であり、「生と死、この世とあの世、現と夢、自意識と無意識、死と不死の夢のはざまで」生きていて、自己分裂を強いられるからだ。
今福は、ボルヘスの「分裂症」の世界観を「虎」という形象に託して論じる。たとえば、ボルヘスの「Dreamtigers(夢の虎)」という文章は、「幼いころ、わたしは熱烈に虎にあこがれた(中略)縞模様の、アジア産の、王者のごとき虎にである」という告白で始まるが、すぐに「ああ何と無力なことか!わたしの夢は決して、願いどおりの猛獣を生み出せない。なるほど虎は現われる。しかし、それは剝製にすぎない」とつづく。
「夢の虎」とは「有限の時間」であり、「宿命」であり、「直線的な時間の流れ」であり、「宿命を背負ったわたし」だ。今福に言わせれば、「虎の探求は、人間という存在の現世における限界をおのれに知らしめることにもなった」(6)
と同時に、ボルヘスは「ただひたすら「いま」という瞬間の充満によってのみ「永遠」へと侵入」しようとするという。「彼の時間への反逆は、「ボルヘス」という人格でありつづけることの「不幸」からのまったき自由を、どこかで夢見ていた」(8)と。そういう意味では、「夢の虎」は、「永遠」(「いま」という瞬間の無限の連鎖)であり、「夢」であり、「迷宮」であり、「不死のボルヘス」なのだ。
このように、ボルヘスの「夢の虎」は両義的な特性を帯びた存在であり、人間の自己分裂の隠喩となる。
ボルヘス自身の自己分裂を端的に表しているのは、「ボルヘスとわたし」という創作である。それは「さまざまなことがその身に起こっているのは、もう一人の男、ボルヘスである」という二重人格者のような発言で始まる。まるでみずからの尾をくわえるウロボロスのように、「ボルヘス」という「創造者」は文学伝統、言語そのものに呑み込まれ、「わたし」は「ボルヘス」に呑み込まれる。
「「わたし」とは、生身の人間としてついには無に帰する「死すべき」mortal存在である。一方、「ボルヘス」はすでに言語あるいは伝統に属するものとして「不死」immortalの属性を与えられている」(17)と、今福はいう。
「自己の分裂、分身、アルター・エゴ、鏡、円環的時間の主題。ボルヘス自身が「フィクション」において探求したすべてのテーマが、この一文で「わたし」と「ボルヘス」の関係としてすでに語られている」(18)と。
シェイクスピアを論じた「Everything and Nothing ――全と無」というボルヘスの文章も、イギリスの文豪に言及しながら、実はボルヘス自身について語ってもいるようで、パラドックスに満ちていて面白い。ボルヘスによれば、シェイクスピアは自分が何者でもないという恐れを抱き、実に多くの別の人間を演じつづけたが、死の直前には「ただひとりの人間、わたし自身でありたい」と神に願う。すると、どこからか、神の声が聞こえてきてこういう。「わたしもまた、わたしではない。(中略)お前はわたしと同様、多くの人間でありながら、何者でもないのだ」と。
「神の夢見(創造)の産物であるかもしれぬ人間が、その神から、自分もまた世界を夢見ることを通じて無数の他者へと転生していたのだ、と告げられたとき、唯一無二の絶対者へと向けられるべき儚い人間の魂の救いはどこにあるだろう? すべてであり無。神もまたこの宿命から逃れることは、ボルヘスの世界においては、できないのである」(144−145)と、今福は告げる。
別の見方からすれば、ボルヘスの文学は、自己言及のそれであり、作者の「オリジナリティ」は否定され、「すべては「異本」であり決定版は存在しない」(51)のだ。
今福の訳したボルヘスの詩「夢」には、どこか他の作品で聞いたようなフレーズが木霊(こだま)する。
わたしはユリシーズの漕ぎ手たちよりはるかに遠く
人間の記憶の及ばない
夢の領野へと赴くだろう。
(中略)
死者たちとの対話
ほんとうは仮面である顔
とても古い言語に属する言葉
(中略)
わたしは万人であり、何者でもないだろう。
わたしは他者であり、それがわたしであることを知らないだろう(146)
ボルヘスの文章からは、宿命と不滅のはざまに生きる「創造者」の夢見る、逆説に満ちた「宇宙」が窺われるのではないか。
ボルヘスの「分裂症」の世界観は、逆説の宝庫とも言える。「極小であり、極大である世界」を志向し、「ボルヘスのどれも短い物語が語るのは、つねに一つの限定づけられた世界。(中略)にもかかわらず、(中略)大宇宙へと果てしなく拡大する」のである。また、「バベルの図書館」では、「無限に向けて開かれていたはずの空間が、極限の幽閉空間になってしまう」(85)のだ。
本書には、詩や短編やエッセイや講演など、ボルヘス自身のことばが例文として(著者自身の名訳で)豊富に挙げられており、これからボルヘスを読もうとする者にとっても、すばらしい入門書になるだろう。だが、だからと言って、ボルヘス理解が容易になるわけではないのだが。
というのも、今福は「客観的にボルヘスという作家を同定し、解説的に叙述すること」(20)を意識的に避け、彼なりのボルヘス解釈を通じて、わたしたち自身に人生や死、自己や宇宙についての深い思索を促す、「哲学」の書を目指そうとしているようだから。(了)
初出『図書新聞』(2020年3月21日号)
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