越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

The Border Culture of the World and Japan

グラウベル・ローシャ(2)

2011年06月20日 | 映画
 こうした対立の図式は、地主と土地なしの羊飼いや小作農の対立という形で『黒い神と白い悪魔』(一九六四年)や『アントニオ・ダス・モルテス』(一九六九年)に引き継がれる。

 これらの映画は、より大きな歴史的な展望の中に第二次大戦後のブラジルの階級社会の欠陥や貧困問題を見すえ、民衆的な叙事詩として語ったものだ。
 
 どちらも、ブラジルの六〇年代「政治の季節」という狭い時代性を超えて、現在でも立派に通用するのではないか。
 
 むしろ、敵の正体がより強大で分かりにくいいまこそ、民衆の想像力の中で受け継がれて映画として新たな表現を得た英雄譚は見る者の心を打つのではないか。

 とりわけ『アントニオ・ダス・モルテス』(一九六九年)は、俳優のモノローグや村人による民族音楽をふんだんに使った表現の斬新さが光る。

 映画を通じて展開されるミニマリスティックな民族音楽や踊りが貧しい村人に陶酔をもたらす。

 そうした集団的な陶酔こそ、反乱を誘発するので危険視され、「大佐」と自称する強欲な地主はその歌を嫌う。

 物語は、「悪竜と戦う聖なる戦士」というアフロ・ブラジルのフォークロアに基づく。

 それはもともとキリスト教弾圧(悪竜退治)に立ち向かう一王子の栄誉をたたえた聖ジョルジュの物語だったが、ブラジルの黒人たちのあいだでは、圧制者の退治に向かった英雄「狩猟の神オクソス」の物語と混淆した。

 黒人奴隷たちにとって、聖ジョルジュ=オクソスとは黒人であり、悪竜は白人の支配者だ。


 一方、トロバドール(流しの歌手)がギター一本で物語を語る歌が映画を推し進める。

 冒頭に出てくるのは、政府に雇われて、貧困にあえぐ村人たちの蜂起を押しつぶしてきた殺し屋を紹介するこんな風なバラッドだ。

 数々の教会で懺悔したが
 すべての守護聖人に見捨てられた
 アントニオ・ダス・モルテス
 カンガセイロの殺し屋よ
 
 後半に入って、殺し屋アントニオは、自分がその家族を皆殺しにしたという「聖女」の足下で懺悔する。

殺し屋が「真の敵を見つけた」と覚醒したその瞬間、トロバドールの歌が長々と流れる。
 
 アントニオ・ダス・モルテス
 見よ 責め苦のあとを
 私はトラックに乗って出かけた
 いつの日か 一財産を作る気で
 
それから 
私たちは
道をさまよいながら
貧しい人を 助けた
 
 ミナス・ジェライス
 に着いたとき
  私は奴隷となり
 雇われた
 
マト・グロッソ
の森の中では
強い者だけが生き残り
弱い者は売り飛ばされた

 それから 反抗と後悔
  のときが来た
  私は 再びバイーア
 へ行く道をたどった
 
私は見た ジョアゼイロで
老人が5コントスで
自分の娘を
売らねばならない
 
  私は娘を奪って
 老人と荒地へ逃げ
 アラゴアスの外れまで
 たどり着いた
 
私は二人を 見て言った
おまえたち 哀れな天使よ
私は祖母の墓を 掘り起こし
その服を 娘に与えた
 
 老人には
 コイラナという
 毒蛇の
 名を与えた

(『現代詩手帖』2011年6月号、154-155頁)
* ***
「没後三〇年 グラウベル・ローシャ・ベスト・セレクション」は、2011年6月18 日より、渋谷ユーロスペースにてロードショー。

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