大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負う
分け入っても分け入っても青い空 山頭火
1926年(大正15)、「層雲」発表句。
熊本で世話になっていた味取観音に安住できず、山頭火が行乞の旅にでたのは1926年(大正15)である。これは尾崎放哉が「入庵雑記」を『層雲』に連載開始した年にあたる。面識はなかったものの心の通じあっていた放哉が、小豆島の西光寺南郷庵で4月7日に亡くなったと、木村緑平から報せを受けた。
その直前の4月14日、山頭火は緑平に次のような内容のハガキを出している。
「あはたゞしい春、それよりもあはたゞしく私は味取をひきあげました、本山で本式の修行をするつもりであります。
出発はいづれ五月の末頃になりませう、それまでは熊本近在に居ります、本日から天草を行乞します、そして此末に帰熊、本寺の手伝をします。」
本山とは曹洞宗大本山の永平寺のことで、山頭火は本式修行を望んでいたが、実現しなかった。年齢的なこともあり、きびしい修行に耐えられないだろう、と報恩寺の義庵和尚が判断した。世俗を捨てたいという思いは果たせなかったが、あたかも放哉の死の報せに促されたかのように、山頭火は味取観音を飛び出した。木村緑平から知らせうけとった数日後のことである。
さて、句の前書きに「大正15年4月、解すべくもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」と述べているが、『解すべくもない惑ひ』とは何を指しているのだろうか。
その前に、この旅にでる切っ掛けを山頭火研究の第一人者である村上護の著書を引用し、山頭火の心情に触れてみたい。
『彼は大分行脚のほか、すでになんどかこの種の旅を試みている。しかし、そのいずれも味取観音堂を拠点とした、帰るところのある旅であった。味取を去ったのちは、熊本の報恩寺に寄宿しながら約一ヶ月、近郷を行乞しながら歩いている。その間、その先々で俳友たちを訪ねることもあったらしい。そこではきまって、尾崎放哉の噂を聞いた。近ごろ、放哉が小豆島で静かにその生命を閉じたというのである。その訃に接し、彼の気は転倒せんばかりであった。敬慕していた放哉との、この世での逢う瀬は、ついに断たれてしまったのだ。』
山頭火と放哉は会ったことがない。同じ破滅型の人生だが、陽と陰、自力と他力と、開放的と閉鎖的等々異なる点が多いが、『層雲』の誌上と通じて心で繋がっていたようだ。
「解すべくもない」とは、やはり過去の不幸だろう。母の死、まだ幼い末の弟の死、姉の正体不明の病死、実弟二郎の縊死などなど。解すべくもない、不幸の連続が、山頭火を苦しめたのだろう。
そして生くべきか、死すべきかの迷いもあったろう。同じ心境の放哉が先だった。死に憧れた山頭火には先を越された思いと、羨望があった。しかしどうしても自分は死ぬことが出来ない。貧しくとも寺守として安住の生活がないわけでない。が、心とは裏腹に過去の業を背負いつつも脚は放浪の旅、宮崎、大分へと向かっていた。
【参 考】
〇味取観音
報恩寺の末寺で瑞泉寺といい、味取観音の名で知られていた。山頭火は出家得度を果たした後、法名を耕畝と称してここで堂守(番人)となった。
〇木村緑平
明治21年福岡県三潴郡浜竹村(現柳川市)生まれ。大正3年、当時医学専門学生だった緑平は、自由律俳句誌「層雲」を知り、投句を始める。山頭火は、緑平よりも一年先に「層雲」で活躍しており、山頭火と緑平は「層雲」を通じてお互いの存在を知った。専門学校卒業後は、病院に就職して炭鉱医として勤務。大正8年、緑平の自宅を山頭火が訪れ、以後、山頭火と生涯を通しての親交を続けることとなる。
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