お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

あの日は暑い日で、夕日を見ながら飲みに行って、店のテレビでニュースを見ました。

2006年01月07日 | 本・雑誌・漫画
墜落現場 遺された人たち―御巣鷹山、日航機123便の真実

講談社

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本当に暑い日でした。「JAL123便大阪行の機影がレーダーから消えた」というニュースを会社の先輩と居酒屋で飲んでいて、見ました。東京-大阪の出張の多い会社なので、とても不安になった事をはっきりと憶えています。

この本には、「日航機の事故」に関わった「上野村の人々」「自衛官」「医師や看護士」「葬儀屋」などの人達に当時の様子を取材して執筆された本です。あの事故の「見えないところ」ではこんな事があったのかと驚きました。
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「バスケ」と「合コン」

2006年01月07日 | エッセイ・日記・意見
中学・高校と男子校で「バスケットボール」やっていた僕は大学に入って、「バスケットボール愛好会」に所属。もちろん、正規のクラブではなく、「バスケットボールが好きな人達」が集まって、体育館や野外のコートで週3回練習。その練習のあとに、「麻雀」をやるか、「安い飲み屋」に飲みに行くか、が常で「アフター・バスケ」の方が主だった様に思う。

当時は、テニスが主流で、ラケットを持って颯爽とキャンパスを歩くのがかっこよく、「バスケ」は地味なスポーツだった。

もちろん、「愛好会」にも女子部があり、中高と男子だけでプレーしてきた僕にとっては、結構衝撃的かつ誘惑的な事。学部が経済学部だった性もあり、こちらもほとんど男だけで、ドキドキしながら、「バスケ」をやっていた。

夏には、飛騨高山や高知の中村で合宿があり、夜の宴会は新入生にとっては、かなりきついものがあった。まず、女子の先輩に呼ばれ、コップ酒をそれぞれから一杯ずつ頂く。断ろうものなら、「私のお酒は飲めないの?」と恫喝されるのである。
日本酒をお猪口で何杯飲めるかの競争を新入生同士でやり、泊まっている民宿の表を何周か走って、腕立て伏せをし、また飲まされる、というパターンだった。その間に「闇」に消えるカップルもいたりして、何がなんだか分からないうちに、民宿の二階の廊下をダッシュで走っていた。突き当たりが下り階段になっている事など、その時は忘れていた。全力疾走して、階段を一階まで転げ落ちて、吐いてしまったが、怪我一つしなかった。

民宿の朝は、必ず岸田智史(のちにドラマで一緒に仕事をする事になるのだが)の「君の朝」がかかっており、二日酔いの頭でそれを聞いていた。

「愛好会」の中で、交際し、結婚したカップルも何組かおり、僕も何回か、女子とデートに行った事もあったが、恋は実らなかった。彼女達は今、どうしているのだろう。北海道出身の子がいて、夏休み、高校時代の友達と彼女に会いたくて、北海道に旅した事もある。ほとんど・・・いや「ストーカー」そのものである。嫌われる訳だ。

その頃、学生はサントリーの「ホワイト」の大きな瓶でウィスキーを飲んでいた。「ダルマ(サントリーオールドの通称)」(3980円)等は高くて手が出せなかった。高校の友達が前述の北海道旅行の時に、「カティー・サーク」を持って来てくれて、いたく感激。
大学祭では、「模擬店」出し、サントリー「レッド」を「オールド」の空き瓶に入れ替えて、売ったものである。その時の打ち上げで、日本酒の一升瓶をみんなで回し飲みし、意識を無くし、気付いたら、大学の便所の床で「大の字」になって寝ていた。まあ、昔から「酒乱」だったという事。

合コンも何度かした。こちらは経済学部の面子とである。おかげ(?)で、同志社女子大の「大学祭」に行って、「イルカ」のコンサートも聴けた。
神戸女子大との時は、相手の女の子が酔い潰れて、友達と二人で女子大の寮まで、彼女を引き摺っていき、友達に「このまま、寮に潜り込もうぜ!」と誘われたが、小心者の僕は辞退した。あのまま、「女子寮」に潜り込んでいたら、どんな事態になっていたのだろう。
人生には色々分かれ道があるものだ。

合コンをしても、経済学部の友達は女の子に電話する事はほとんど無かったが、僕は大抵、電話していた。勇気を振り絞って。当時、もちろん携帯電話などというものは無く、女の子の自宅にかける事になるので、「怖い父親が出たらどうしよう」とか、「デートを誘って断られたら、ショックだろうなぁ~」等と思いつつ、「ダイヤル電話」を回すのだが、最後の「ダイヤル」を回した後、心に迷いが出て、「ダイヤル」が戻る途中で、サッと受話器を電話に置いたりして・・・こんな経験、僕達の世代にはきっとあるはず。

結局、大学時代やったのは、「バスケ」と「麻雀」。うちの会社の面接でも、正直にそう答えた。
今思えば、いろんな「バイト」に挑戦して、「自分の世界」を広げ、たくさんの人と出会っていたらと思う。
「バイト」は「家庭教師」と「デパートのお中元の配達」「引っ越し屋」「ゴミ収集車の製造工場」くらいだろうか。

今回も話題が跳んで跳んでの状態に・・・ではこの辺で。


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航空会社あれこれ

2006年01月07日 | 鉄道・車・タクシー・バス・飛行機
今回は、航空会社番付。今まで乗った航空会社を順に挙げてみると、
「英国航空」
「オリンピック航空(ギリシャ)」
「ノースウェスト航空(アメリカ)」
「エア・インディア」
「インディアン・エアライン(インド国内線)」
「コンチネンタル航空(アメリカ)」
「ヴァリグ・ブラジル航空」
「パキスタン国際航空」
「ルフトハンザ航空(ドイツ)」
「ユナイテッド航空(アメリカ)」
「日本航空」
「アメリカン航空」
「ラン・チリ航空(チリ)」
「エール・フランス」
「キャセイ・パシフィック航空(香港)」
である。

以下、私見であるが、いちばんサービスも乗り心地も良かったのは、「ヴァリグ・ブラジル航空」。次が「日本航空」。
アメリカ系の航空会社より、ヨーロッパ系の航空会社の方が全般にサービスも乗り心地もいい。

最悪だったのは、「パキスタン国際航空」。「成田-カラチ間」はB747だが、着陸すると、酸素マスクが落ちてきたり、イスが倒れている状態から元に戻らなかったり、パキスタンがイスラム教の国なので、「アルコール類」は一切積んでいなかったり、香港を離陸した時は、定員オーバーで、溢れたお客がキャビン・アテンダントの席に座り、キャビン・アテンダントは立ったままだった。機内食も叩き起こされ、配られる。
聞いた話では、南廻りでヨーロッパ等に行く時、いちばん料金が安いのが「パキスタン国際航空」と「エジプト航空」なのだそうだ。
だからなのか、香港から乗って来た乗客は「出稼ぎ列車」に乗り込んで来た様な雰囲気を醸し出していた。
「カラチ-ナイロビ間」はB737で、アブダビ空港に着陸した時、一度、バウンドして、空中に上がり、再び滑走路に着陸するという怖い目に遭った。
アブダビでのトランジットで、日本人はいっせいに飛行機から降り、免税店の方に走る。「ビール」を飲みたいからだ。十何時間も「アルコール類」から遠ざかっていると、こういう気持ちになる。僕も懸命に走り、ノドを潤して、機内に戻った事を憶えている。

今、乗りたいなぁ~と思っているのは、「シンガポール航空」(みんな最高という)と「カンタス航空(オーストラリア)」である。

でも、「パキスタン国際航空」の様に、いろんな「未体験な事」「ハプニング」を味わわせてくれる航空会社は、僕は密かに好き。
ケニアの人に聞いたら、「パキスタン国際航空」のパイロットは優秀だという。「何故?」と訊いてみたら、「よくあの飛行機で落ちない様に飛ばせられている」と返事が帰ってきた。多分、「パキスタン国際航空」B747の壁をめくると、「JAL」とかのマークが出てきそうだ。

こうして書いていたら、また海外逃亡したくなってきた。


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恩師からの年賀状

2006年01月07日 | エッセイ・日記・意見
恩師から年賀状を頂いた。恩師はアメリカ人の神父である。Flynn先生。初めての出会いは、中学一年の担任としてで、33年前の事である。中学に入り、担任がアメリカ人という事で、理由の無い「不安」を覚えたものだが、それは全くの杞憂だった。
英語の授業中は日本語禁止。いろんな「英語の遊び」で僕達、生徒の興味を惹きつけながら、英語を自然に身につく様、教えてくれた。
先生は、全国の多くの学校で使われている「Progess in English」(中一~高三)の著者でもある。夏休みにサイクリングに連れて行ってくれたり(この時、僕は小豆島をツーリング中、自転車事故で大怪我をした)、六甲山に登ったり、冬はアイススケートに行ったりもした。本当に僕たちの事を愛してくれていた。僕の所属するバスケット部の中学のコーチでもあった。50歳を過ぎても、若々しく、10代の僕達に負けないプレーを見せてくれた。家庭訪問はバイクに乗って来られた。まるで、スティーブ・マックィーンの様なかっこよさを感じた。
今の正確な年齢は分からないが、当時50歳代だったから、80歳は越しているだろう。

毎年、自筆の葉書形式の年賀状を頂いていたのだが、今年は封書。急いで開けてみると、大きく「A Happy New Year」という文字の書かれたグリーティングカードが出てきた。そして、その反対側の面には、10人以上の名前が英語を中心とした様々な言語で書かれ、その中にFlynnという文字を見つけた。
そして、カードの中ばかりを見ていて気付かなかったが、表紙に「集合写真」が載っていて、その中にFlynn先生もいらっしゃった。全員男性である。

現在、先生がおられるのは、「イエズス会で長年、教育やその他の分野で活動されてきた神父さんの養老院の様な場所」ではないかと思う。集合写真の前列には車椅子に座って写っておられる方もいらっしゃったので、そう僕が勝手に推測したのである。

10人以上の名前も意味が分かった。写真に写られている神父さん達の名前である。多分、英語圏出身でない方もおられるので、いろんな言語の名前が連ねられていたのだろう。

先生は、今、「少しアルツハイマー的な症状」が出ていて、僕の出した年賀状に封書で返事を出して下さったのは、お世話をしている職員(?)の方ではないかと思う。

戦後すぐ日本に来られて、僕達の通っていた中学・高校に赴任。僕達の卒業後、数年して、福岡の高校に移り、その後、萩、そして津和野の教会におられた。

一昨年、山口の先生のところに会いに行き、いろいろお話をした。バイクは、お会いした半年前に乗るのを止められたとの事。
僕の事でいちばん憶えておられたのは、「小豆島での自転車事故」。
みんなで下り坂を走っていたら、大きな穴ぼこがあり、僕の自転車はそこに突っ込んで、僕もろとも空中に投げ出された。僕が先に地面に落ち、僕の上に自転車が降ってきた。すぐに先生に病院に連れて行って貰い、包帯だらけの姿で、その後もツーリングを続け、神戸まで帰ってきた。

先生の故郷は、「ナイアガラの滝」に程近いバッファローという町。
「バッファローにはお帰りになっていないんですか?」と訊ねると、「もう何十年も帰っていない」とおっしゃっていた。

今年来た「年賀状」でいちばん心を打つ年賀状だった。ありがとうございます、Flynn先生。そして、お疲れ様でした。長生きして、いつまでも僕達を見守っていて下さいね。



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「年賀状」あれこれ

2006年01月07日 | エッセイ・日記・意見
帰省していた神戸から自宅に帰って来たら、年賀状が山ほど届いていた。今年は、長女が中学生になったせいか、彼女への年賀状も増えている。

年賀状あれこれ。

まずは、表も裏もパソコンで印刷したもの。せっかく出すんだから、一言くらい書けっちゅうねん!僕は一枚一枚、その人の事を考えながら、「笑ってもらえる年賀状」を200枚以上出すので、毎年四苦八苦。

パソコンが発達した性か、工夫を凝らしたレイアウトや内容の年賀状も多い。これにも「手書き」で一言くらいは欲しいなぁ~。贅沢かなぁ~。

毎年、写真館で撮った写真で年賀状を作っている友人。律儀な性格が表われている。

この正月合併した某銀行に勤める人からの年賀状。疲れた顔で映っている。顔って、「日々の生活」が出るんだよねぇ。

写真が多すぎたり、文章が長すぎたり、詩を詠んでいたり、それぞれの個性が年賀状からは滲み出る。

ちなみに、今年頂いた年賀状で、「これはアカンやろ」とため息まで出てしまったのが、「自分の会社での肩書きを入れた年賀状」。一通しかなかった。もちろん、(○○株式会社××部)と自分の名前の下にカッコで入れるのは、受け取る側が「その人の名前だけでは誰だか認識できないかも」という丁寧な年賀状だと思う。
そうではないのだ。実は某テレビ局の人間なのだが、「○○テレビ××部長」という肩書きを自分の名前の右上に付けた上、年賀状の文章に「○○テレビ」を背負って立つ、という様なニュアンスをてんこ盛りで入れているのである。貰ったのに、こんなに「足蹴」にしていいものかとも思うが、ちょっと「ええ歳になった大人の出す年賀状」では無いと思い、ほんまに悲しくなってくる。感性が無いとまで言うと、50円で出してくれた彼に失礼かもしれないが、誰か注意する奴はおらへんのやろうか。

「麻雀」や「ゴルフ」もその人の「人柄」「個性」が出るが、「年賀状」にも顕著に出るので、お忘れなく・・・

年明け早々から、超多忙で、さっき帰ってきて夕食。今、時計の針は午前2時10分を指している。ぼやき漫才もこの辺で・・・オヤスミナサイ!!!!!
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