中学・高校と男子校で「バスケットボール」やっていた僕は大学に入って、「バスケットボール愛好会」に所属。もちろん、正規のクラブではなく、「バスケットボールが好きな人達」が集まって、体育館や野外のコートで週3回練習。その練習のあとに、「麻雀」をやるか、「安い飲み屋」に飲みに行くか、が常で「アフター・バスケ」の方が主だった様に思う。
当時は、テニスが主流で、ラケットを持って颯爽とキャンパスを歩くのがかっこよく、「バスケ」は地味なスポーツだった。
もちろん、「愛好会」にも女子部があり、中高と男子だけでプレーしてきた僕にとっては、結構衝撃的かつ誘惑的な事。学部が経済学部だった性もあり、こちらもほとんど男だけで、ドキドキしながら、「バスケ」をやっていた。
夏には、飛騨高山や高知の中村で合宿があり、夜の宴会は新入生にとっては、かなりきついものがあった。まず、女子の先輩に呼ばれ、コップ酒をそれぞれから一杯ずつ頂く。断ろうものなら、「私のお酒は飲めないの?」と恫喝されるのである。
日本酒をお猪口で何杯飲めるかの競争を新入生同士でやり、泊まっている民宿の表を何周か走って、腕立て伏せをし、また飲まされる、というパターンだった。その間に「闇」に消えるカップルもいたりして、何がなんだか分からないうちに、民宿の二階の廊下をダッシュで走っていた。突き当たりが下り階段になっている事など、その時は忘れていた。全力疾走して、階段を一階まで転げ落ちて、吐いてしまったが、怪我一つしなかった。
民宿の朝は、必ず岸田智史(のちにドラマで一緒に仕事をする事になるのだが)の「君の朝」がかかっており、二日酔いの頭でそれを聞いていた。
「愛好会」の中で、交際し、結婚したカップルも何組かおり、僕も何回か、女子とデートに行った事もあったが、恋は実らなかった。彼女達は今、どうしているのだろう。北海道出身の子がいて、夏休み、高校時代の友達と彼女に会いたくて、北海道に旅した事もある。ほとんど・・・いや「ストーカー」そのものである。嫌われる訳だ。
その頃、学生はサントリーの「ホワイト」の大きな瓶でウィスキーを飲んでいた。「ダルマ(サントリーオールドの通称)」(3980円)等は高くて手が出せなかった。高校の友達が前述の北海道旅行の時に、「カティー・サーク」を持って来てくれて、いたく感激。
大学祭では、「模擬店」出し、サントリー「レッド」を「オールド」の空き瓶に入れ替えて、売ったものである。その時の打ち上げで、日本酒の一升瓶をみんなで回し飲みし、意識を無くし、気付いたら、大学の便所の床で「大の字」になって寝ていた。まあ、昔から「酒乱」だったという事。
合コンも何度かした。こちらは経済学部の面子とである。おかげ(?)で、同志社女子大の「大学祭」に行って、「イルカ」のコンサートも聴けた。
神戸女子大との時は、相手の女の子が酔い潰れて、友達と二人で女子大の寮まで、彼女を引き摺っていき、友達に「このまま、寮に潜り込もうぜ!」と誘われたが、小心者の僕は辞退した。あのまま、「女子寮」に潜り込んでいたら、どんな事態になっていたのだろう。
人生には色々分かれ道があるものだ。
合コンをしても、経済学部の友達は女の子に電話する事はほとんど無かったが、僕は大抵、電話していた。勇気を振り絞って。当時、もちろん携帯電話などというものは無く、女の子の自宅にかける事になるので、「怖い父親が出たらどうしよう」とか、「デートを誘って断られたら、ショックだろうなぁ~」等と思いつつ、「ダイヤル電話」を回すのだが、最後の「ダイヤル」を回した後、心に迷いが出て、「ダイヤル」が戻る途中で、サッと受話器を電話に置いたりして・・・こんな経験、僕達の世代にはきっとあるはず。
結局、大学時代やったのは、「バスケ」と「麻雀」。うちの会社の面接でも、正直にそう答えた。
今思えば、いろんな「バイト」に挑戦して、「自分の世界」を広げ、たくさんの人と出会っていたらと思う。
「バイト」は「家庭教師」と「デパートのお中元の配達」「引っ越し屋」「ゴミ収集車の製造工場」くらいだろうか。
今回も話題が跳んで跳んでの状態に・・・ではこの辺で。