横山 やすし(よこやま やすし、本名:木村 雄二(きむら ゆうじ)、1944年3月18日 - 1996年1月21日)は、かつて吉本興業・大阪本社(現・よしもとクリエイティブ・エージェンシー・大阪本部)に所属していた漫才師、タレント。
来歴・生涯
人物
高知県宿毛市沖の島出身。大阪府堺市堺区に育つ。身長163cm(本人談)。血液型B型。愛称は「やっさん」。結婚歴2回、離婚歴1回のバツイチ。俳優の木村一八は長男。エステシャンで漫才師さゆみ・ひかりの木村ひかりは次女(この二人は異母兄妹)。長女がいるが一般人の為、ほとんど公開されていない。 西川きよしとのコンビでの漫才は、漫才ブームの到来と共に記録的な人気を博し「やすきよ漫才」として20世紀を代表する天才漫才師と呼ばれるまでになった。親友に中学時代の同級生で競艇選手の野中和夫がいる。
天才少年漫才師誕生・負けず嫌いなポリシー
少年時代からラジオの素人参加番組『漫才教室』(ABCラジオ)で才能を発揮、元々勉強嫌いで負けず嫌いということもあり、「漫才教室」に出場したことを契機に漫才師になる事を決意した。中学卒業間際に当時の校長から「私立高校にも進学したらどうや?」と言われたが、これを固辞し漫才師になることを告げる。卒業式では漫才を披露し同級生からも拍手喝さいを浴びた。 1959年、堺市立旭中学校卒業後、松竹新演芸(現在の松竹芸能)に入社。漫才作家秋田實の門下に入り、芸能界のしきたりや漫才台本の書き方を厳しく教わりながら、堺伸スケの名で同級生の堺正スケこと岡田好弘とのコンビで「堺伸スケ・正スケ」を結成する。その年の5月に角座で少年漫才師としてデビューし、当時のマスコミも「天才少年漫才師誕生!」と書きたてた。しかしネタが中学時代の思い出話がメインだった為か人気は次第に衰え、さらに相方の岡田が「辞めたい」と言い出したため1961年にコンビを解消する(岡田がやすしの強固で強引な態度に付いて行けなかったため、けんか別れをしたという説もある)。
横山ノックに弟子入りし、「横山やすし」へ [編集]
相方の廃業後、見兼ねた横山ノックから「コンビ別れをしたんか、いっぺん遊びに来い」と誘われ、またやすし本人も横山エンタツをもっとも評価しており、エンタツから続く漫才の名門屋号「横山」への憧れがあったことから、改めてノックに弟子入りし、師匠の持ち物がある場所をすべて覚え、煙草を吸おうとすると一緒にライターを出し、出かけるときは靴と靴べらをいっしょに出すなど、弟子修業に励んだという。ある日、やすしの心の変化を見たノックから「日本一の漫才師になれ。今日から横山を名乗れ」と言われて、ついに「横山やすし」となり、同時に吉本興業に移籍する(秋田實には了解を得ていたらしいが、一説ではやすしの短気な態度と岡田とのけんか別れに秋田がさじを投げ、「破門」に近い意味合いであったとの説もある)。厳しい修行だったが、やすしはノックからの指示を完璧にこなした。
やすしは再び相方を見つけてはコンビを組み、ノックの元から離れると、また苦しい生活が始まった。昼はアルバイトでデパートの展示場の模型を作り、夜はスクーターの白タクシー(無免許)で生活費を稼いだという。この頃は暇さえあれば見知らぬ人のそばに行き、会話を聞いてノートに書くなど、漫才のネタ探しをしていたという。しかしノックから言われた「日本一の漫才師」を目指していたやすしは、相方との温度差が生じ解散を繰り返すことになった。周囲からは「相方(コンビ)別れの名人」とレッテルを貼られ、これらのことからやすし自身も迷いが生じ漫才をやめようかと思っていたという。過去の漫才の相方は、弟弟子の横山プリン、レツゴー三匹の正児(いずれも芸名は横山たかし)。
やすきよ結成、最愛の父の死と最初の過ち [編集]
数回(少年時代を除くと3回という)のコンビ結成~解消を経て西川きよしと1966年に「やすしきよし」のコンビ名でデビューする。きよしとコンビを組むきっかけは、歌謡浪曲師の中山礼子がきよしをやすしに紹介したことだった。やすしは京都花月の向かいにあった「水車」という喫茶店で、きよしにコンビを組むことを迫ったという。きよしは吉本新喜劇(当時はまだ研究員扱いだった)を辞めてやすしと漫才コンビを組むことを当時の社長や部長に相談すると、「やすしくんとだけはやめとけ、二度と芝居には戻ってこれんぞ」と言われた。また新喜劇の作家が「きよしを渡せるか」とやすしに怒鳴り込んできて喧嘩になったこともあり、コンビ結成は周囲から祝福されなかった。しかし、きよしの覚悟を見抜いたやすしは「きよしは化ける」と確信していたという。
2人は周りの漫才コンビを評価、採点し徹底的に分析・分類した。そして他の漫才師がやっていない「動き」というスタイルを見つけ、またデフォルメし、舞台の中央にあるマイクから離れたりするという革新的な漫才を編み出した。やすしがメガネを探す有名なネタもこの流れで出来たものである。やすきよはこの流れから全国制覇を目指したが、同じ動きの笑いを主体とするコント55号とテレビ中継で同じ舞台を踏んだとき、やすしは「こいつらを倒さんかったら日本一には立てん」と思ったという。その後また名古屋の大須演芸場で同じテレビ中継の舞台を踏んだが、コント55号が舞台を左右に動き回るのでテレビカメラが追いつけず、これを見たやすしが「チャンスや」ときよしに思いついた秘策を告げた。それは逆に動かないことであり、その違いを明確にすることでテレビ中継の視聴者を味方につけたという。この流れをもって1970年には第5回上方漫才大賞を受賞した。
そんな絶頂の時、悲劇が起こる。1969年11月、最愛の父である庄吉が南海高野線の中百舌鳥駅の踏切を渡ろうとした時に列車にはねられ、その7日後に意識が戻ること無く他界した(その10日後に長男・一八が誕生。やすしは父に息子を見せてあげたかったが、かなうことが出来なかった)。更に翌年、やすしは最初の事件を起こしてしまう。
1970年12月、タクシー運転手に対する傷害と無免許運転事件(傷害事件で実況検分に駆けつけた警察官に免許証の提示を求められ、「俺、国際免許やねん」と『グアムで国際免許を取ろう!』と書かれたチラシを見せただけで肝心の免許証に関しては答えに窮した結果無免許が発覚した)の影響で長期の謹慎処分を受ける。3年後には最初の妻と離婚。 その後の自らのライフワークであるモーターボート(競艇)の全日本K400選手権大会(アマチュア)に優勝したが、当時マスコミに向けて「病気療養中」と会見していたやすしのマネージャーだった木村政雄(元吉本興業常務取締役)に対する非難があったという。
再婚・愛娘ひかりの誕生
1975年3月に3歳年下の啓子夫人と再婚し、大鳥大社(堺市西区)で挙式した。仲人は師匠の横山ノックである。啓子夫人も再婚者で、前夫との間に1男1女がいる。 そして、1980年10月に二人の間に娘、光(次女)が誕生した。やすしもその時、娘に対して誕生の喜びを色紙に書いた。現在もその色紙は大切に保管されている。
啓子夫人に「雄ちゃん」と呼ばれていた。
相方の参議院選出馬
1982年の秋から日本テレビ『久米宏のTVスクランブル』のコメンテーターとしてレギュラー出演していたが、酒に酔った状態で生放送に臨み、暴言を発した事で問題になった。またコメントの最中にコマーシャルを挟まれたことに立腹し、「今日は黙秘権」と一言発すると放送中全くしゃべらなかったこともある。そして1984年11月、渋滞による飛行機の乗り遅れが原因で番組のドタキャンをした為に降板となり、吉本興業からは無期限謹慎処分を受ける。
1986年に相方・西川きよしが参議院選挙に出馬し、当選する。やすしはきよしの政界進出を"裏切り"と強く反発していたという。実際に「きよしは当選すると思うか?」と質問を受けたときに「落ちる、ほんまに落ちる」「応援はせん、落ちる奴にそれ行けと言えんやろ」と厳しい表情で応対していた。一方で「やすしは一番に後押ししてくれた」ともきよしはコメントしている。その反動の大きさもあって酒の量が増え、度重なるトラブルを引き起こし、芸人・タレントとしての生命も徐々に薄れて行くことになる。
度重なる不祥事
1987年12月に『スター爆笑Q&A』(ytv製作 日テレ系)で酒気帯びのまま出演をし、同じ司会の桂文珍、山田邦子の制止を振り切ってゲストの片岡鶴太郎らに食ってかかった。見兼ねた当時のマネージャーの大谷由里子(旧姓:松岡)が激怒してやすしを舞台裏でビンタしたことは有名。この事件が原因で番組を降板する。 さらに1988年10月にも二日酔いを理由に「三枝・やすし興奮テレビ」(MBSテレビ)のドタキャンを行い降板。そして翌月、やすしがかつて起こした過ちを今度は長男の一八が起こしてしまう。
一八の暴行事件
11月下旬、一八がタクシー運転手に対する傷害事件を起こして現行犯逮捕、一八はやすしを通じて解雇を言い渡された。やすしは当初、事件の内容を把握しておらず、女性リポーターの質問に「おい、ねぇちゃん!俺は息子に間違った教育はしてへんぞ」などとコメントしていたが、後に一八が被害者に一方的に暴行を加えて意識不明の重体にまで負わせたこと を知ると記者会見で陳謝し、「いくらカワイイ息子がやったこととはいえ、人を生きるか死ぬかの目に合わしてしまって、ホンマにすんまへんでした。スンマヘン」と自身の息子に対する教育論の過ちを認めて号泣、その責任を全て負う形でやすしは自ら無期限謹慎を申し出る。
謹慎から復帰
年が明けた1989年3月、芸能界に復帰し、きよしが司会をつとめる『すてきな出逢い いい朝8時』(MBS制作 TBS系)に復帰後初のゲスト出演をする。きよしからは「今度こそ心を入れ替えてがんばりや、(これ以上迷惑かけると)みんなに見捨てられるで」と言われ、「今度こそ心を入れ替えて頑張ります」と宣言した。この時既に吉本興業からは「今度不祥事を起こした場合は即刻解雇する」と最後通告を受けていた。しかし、最後通告を受けていたにもかかわらず、わずか1ヶ月後に芸人・タレントとしての生命を落とす決定的な不祥事を起こしてしまう。
吉本解雇・事実上の芸能界追放
1989年4月17日、愛車のトヨタ・ソアラを運転中にバイクとの人身事故を起こし、バイクに乗っていた男性に軽傷を負わせてしまった。被害者の男性は逆に「こんな時に大変やったなぁ」とやすしを慰めたという。警察での取調べの結果、体内からはアルコールが検出され、その知らせを受けた吉本興業は、遂にやすしの解雇を決断。やすしは息子一八の暴行事件で謹慎中だった2月にも(阪神高速道路において)人身事故を起こしていたことが判明。今回の事故直前にはゲスト出演していた「入川保則の日産さわやか文庫」(ラジオ大阪)の収録中にウイスキーを飲んでいたほか、宿泊先のホテルでも前日の夜からブランデーを飲んでいたことが、ラジオ大阪の番組スタッフの証言で明らかになった(木村はやすしの行動を聞き出す為に実際問い合わせていたが、当時マネージャーを兼務していた木村や、ほかのマネージャーが現場にいなかったため、やすし自身が身勝手な行動を取ったことになるものの、本来現場にいるべきマネージャーがいなかったことに関しては、吉本にも落ち度があったことになる)。解雇を言い渡された後、やすしは多くの報道陣に対し「やめる、もう漫才やめる」と号泣しながら話した。
啓子夫人の証言によると、夫人がやすしに問いただした際、前の日は確かに飲んだが、当日の朝は実際にはビールを一本飲んだかどうかというぐらいだったという。しかし事故の取材に訪れた新聞記者が「どのぐらい飲んだのか?」と質問したのに対し、やすしは「ウイスキーをボトル一本飲んだ」と答えてしまい、それが解雇を決定したと思われる。また、夫人がやすしに「どうしてそんなアホなこと言うの?」と聞くと「そんな、ちょっと飲んだ言うたら格好悪いやろ」と答えたという説もある。
やすしの解雇に関し、以下の人物はそれぞれコメントを述べた。
当時、吉本の制作部長で解雇を言い渡した木村政雄 : 報道陣からの「堪忍袋の緒が切れたのか?」の問いに対し、厳しい口調で「そうですね、我々のフォローもとっくに超えている。これ以上騒ぎを起こされたら会社の姿勢も疑われますから。」
やすしが様々なトラブルを起こしたときもかばい続けてきた吉本の会長林正之助 : 報道陣からの問いに対し、「やすしは問題ばっかり起こし続けるから反省の色がない。うちとしてもこれ以上は、面倒を見切れんし、世間も許さんでしょう。」
師匠の横山ノック : 淡々とした様子で「酒を止めてくれれば良かったのになぁ。」
解雇されたことを聞いた西川きよし : 厳しい口調で悔しさをあらわにしながら「もう殴ってやりたい。男として、これ以上あの人に情けを掛けることは出来ませんし、二度とコンビは組みたくありません。」
やすしが吉本を解雇されたのに伴い「やすしきよし」は解散。また松竹芸能、渡辺プロダクション、ホリプロ、浅井企画、マセキ芸能社などの他のプロダクションも獲得の意向が無く、やすしは芸能界を事実上追放された。さらに吉本からは、一八が傷害事件を起こした時に立て替えられていた賠償金の7000万円も請求された。
やすしの解雇は「アンチやすし派」でもある中邨秀雄(当時は副社長)、林裕章(当時は専務)らと木村が話し合って決め、それを会長の林正之助に決断を仰いだ所、「もうええ!もうよろし(それ以上喋らなくてもいいという意)」との一言であっさり決定したという。解雇通知書を発行したのも林裕章であった。
解雇された10日後に木村から「お話したい事がありますんで会社まできて下さい」と言われ、啓子夫人と共に吉本を訪れた。木村から「契約関係を解消します」と直接通告され、最初やすしは詰め寄ったが、木村が言葉を足して「本日を以てうち(吉本)のタレントではなくなりましたから」と通告し、やすしは聞き入れた。会長の林正之助は当日体調不良で出社していなかった為、やすしは林に詫びることが出来なかった。 .
解雇後と林会長の死
解雇された後は寂しさを紛らわす為に知人に会ったり、競艇場へ行ったり、飲みに行ったり、次女ひかりの小学校の運動会に参観するなどの気ままな生活を送っていた。ただし、知人のスナックの開店祝いの司会などでの謝礼や一部の親しいファンからプレゼントなどをもらっていたのでそれなりの蓄えはあり、生活には困ってはいなかったという。次女のひかりは「家にいるお父さんのイメージしか出て来ない」と雑誌の取材で語っていた。後に中学時代の同級生が社長を務める阪田エージェンシーに所属。しかし、吉本興業を解雇されて間もない1989年の夏、兵庫県赤穂市内のホテルにて、酒に酔った勢いでホテル所有の観光用クルーザーに無断で乗り込んだところを従業員に注意されて逆上し、注意した従業員にビンタとひざ蹴りを加えるというトラブルを起こした(結果、やすしは書類送検され、罰金刑を受けた)。その件で木村政雄は「既に解雇された芸人なんで当社には一切関係がないこと。これで完全に復帰は無理ではないでしょうか。あんな漫才師がおったなんていう思い出話にすんのがええんとちゃいますか」と他人行儀なコメントをした。そして2年後、やすしにとって悲しい出来事が起こる。
1991年4月、父親的な存在で度重なるトラブルをかばい続けてきた吉本興業の会長林正之助が死去。社葬にやすしは一般人として参列した。しかし、きよしと三枝が舞台で思い出話をしている場面を見た瞬間、泣き出して会場を後にしてしまった。それ以後、二度と吉本の敷居を跨ぐことは無かった。
1992年の夏、参議院選挙の比例代表区に野村秋介が代表を務める右翼団体「風の会」から立候補するも落選、山藤章二からは週刊朝日のコラムで「虱(シラミ)の会」と揶揄された。直後の会見では「この党に投票しなかった国民はアホや!ドアホや!」と吐き捨て、怒りをあらわにした。また、記者が「(大阪府選挙区では)誰に投票したか?」と質問したところ、「そんなもん『横山やすし』に決まっとる!」と答えていたが、やすしは比例区での立候補であり、これが事実であれば当然無効票となる(比例区の場合、当時は個人名での投票は無効票)。が、親しい関係者は「あれはあの人なりのリップサービス。まず間違いなく『西川きよし』に一票を投じたはずである」と口を揃える。なお、この選挙の大阪選挙区では西川きよしが改選につき立候補し、再選を果たしている。
その後、謎の暴行事件(犯人も襲われた理由も不明。既に時効が成立しており、「迷宮入り」となっている)を受けて重傷を負い、表舞台からはすっかり身を引いてしまった。この暴行事件でやすしは一時失語症となるが、驚異の回復力で復活をする。
晩年
1993年に「やすしを囲む会」を開き、知人を含め約100人が出席した。きよしと三枝らの旧知の芸人も招待していたが、吉本興業の圧力で彼らは出席出来なかった(当時の社長の中邨秀雄が芸人・社員に対して「出席した場合は即刻解雇する」と圧力を掛けた)。
その後、1995年7月には京都府八幡市石清水八幡宮での太鼓まつりのゲストとして姿を見せていたが、極度に痩せ、体もふらついた状態で、当時の祭りの参加者は往年のやすしの姿との落差を目の当たりにして驚いたという。更にその年の10月10日には兵庫県芦屋市照善寺での落慶法要イベントで桂福団治と即興漫才を披露、これが最後の公の姿になった。本番前には「ボートとタクシーの話をしたろかな」と呟いていたという。
死去
1996年1月21日の夜、摂津市の自宅で寝たまま意識を失っているところを啓子夫人が発見、救急車で病院に運ばれたが既に心臓と呼吸が停止しており、意識が戻ることなく急逝した。51歳没。死去前日、大量にビールを飲んで吐き出し、啓子夫人が病院で診てもらおうと思った矢先の死だった。 最後の言葉は啓子夫人と娘のひかりに対して「水を欲しい」「ちょっと調子がおかしいから病院に行かんとあかんなぁ」「明日病院に行くわ」であった。
病院の医師から自宅で亡くなったと診断された為、遺体は高槻市にある大阪医科大学で行政解剖された。解剖の結果、死因は「アルコール性肝硬変」と判明、更に血液からもアルコールが検出された。亡くなった翌日のスポーツ紙の見出しには、自宅の玄関前にビールの空き缶が多く入ったごみ袋が写し出されており、亡くなる前日までビールを多量に飲んでいたことが弱っていた肝機能を急激に低下させ、急死に至った原因であることが裏付けられた。 やすしは1986年に仕事先の徳島で吐血し、医師から「このまま飲み続けたらあと10年で死にますよ」と酒を止めるよう宣告されていたが、1994年頃から腹水が溜まるなど体調が悪化。肝硬変と診断されて入退院を繰り返したが、急に夜中にナースコールで「(俺の腹の)水抜けぇ!」とわめいたり、無断で退院したりとトラブルを起こし、更に酒も飲み続けた。そして10年後に医師の言葉が現実となってしまった。
やすしの死は関西のマスコミは元より全国に衝撃を走らせ、亡くなった翌日の早朝から多くの報道陣が自宅の前に駆けつけ、ビートたけしら多くの芸能人・芸能関係者が弔問に訪れた。
若手の頃に弟子とも慕われたビートたけし : 「雲の上にいるような人だった。やすしさんには芸も色気も敵わない。もう少し漫才を続けてほしかった」とコメントし、やすしの全盛期を懐かしんだ。
若手の頃にかわいがってもらった宮川大助・花子 : うめだ花月シアターで訃報を聞き、漫才している最中にやすしのことを思い出して号泣、観客もほぼ全員が号泣しやすしの死を偲んだ。
木村政雄 : 「静かに休んで欲しい」と淡々とした表情でコメントをし、報道陣からの「賠償金の支払いは今後どうなるか?」の問いに「亡くなった方から取り立てるわけにはいかんので」と残りの賠償金支払いを免除することを検討すると述べ、のちに正式に免除された。
当時吉本の専務だった林裕章 : 「人の話を聞かんからこうなったんや!」と厳しい口調でコメント。
師匠の横山ノック : やすしの遺体が安置された摂津警察署を訪れ「最後まで警察の厄介になりよって…」と泣きながらコメント。
横山ノックの弟子としての姿を見ていた上岡龍太郎(当時は横山パンチ) : 「僕には「漫才の天才少年・木村君」としての姿しか思い出されません」と、やすしが輝いた時代への評価と晩年の不遇を惜しむ発言をした。なお、上岡は吉本から解雇された後のやすしに何度も会い「まずは、ひとりで漫談やったらええやないか」などとアドバイスを与え、激励していた。
吉本を解雇されて以降、やすしの人生は特に晩年において不遇だったと言える。現在でもやすきよのファンや一部の関係者の間では「あの時、酒をやめれば復帰出来るチャンスがあったのでは?」「飲酒運転しなければ良かったのに」などの声が多い。
やすしの死から12年後の2008年6月23日、やすしを最後まで支え続けてきた啓子夫人が心筋梗塞で死去(51歳没)。
最後の別れ
大阪府吹田市の葬儀場で行われた葬儀・告別式では多くの芸能タレント・吉本芸人・芸能関係者、ファンの総勢2000人以上が参列した。やすしの亡骸は非常にきれいで安らかな顔をしていた。
以下の人物はそれぞれ泣きながら弔辞を読み上げた。
相方の西川きよし―「もうゆっくりしいや、何もかも忘れてゆっくり休み、頼むわ」
師匠の横山ノック―「君の芸は僕をとっくに追い越していたよ、「やす・きよ」の漫才は漫画トリオをとっくに追い越していたよ」と読み上げ、記者からの質問では「出来の悪い弟子ほど、かわいいというが、それ程完璧に僕の指示をこなしてくれた」とやすしとの師弟愛を物語るコメントを述べた。
親友の野中和夫―「雄二よ、今度俺がそっちへ来たらお前と一緒に(競艇で)走ろう!その時は古いエンジンも持って来たる!」。
出棺の時、ファンや吉本の後輩芸人たちから「やっさん!!」「やっさんありがとう!!」と声が上がり、最後のお別れをした。同年3月24日、故人の遺志により愛艇を置いた宮島競艇場にて「散骨の儀」が行われ、船上から遺骨の一部が散骨された。
やすし死去の報道を受けて在京の民放キー各局、及び在阪の準キー各局は揃って彼の追悼番組を編成し、生前の芸人としての業績を称えると共に、それら追悼特番は軒並み高視聴率を獲得。やすしの芸人としての非凡な才能に、多くの視聴者もまた、表舞台から去った後も親しみを抱き続けていたことを実証するものであり、これが没後における芸人・横山やすしの再評価へと繋がって行ったと見る向きもある。
現在でも、テレビ番組で相方のきよしや後輩としてかわいがられた明石家さんまや島田紳助らによってやすしの破天荒なエピソードが「笑い話」の類として紹介されることが多く、また、やすしのデジタル出演による「やす・きよ漫才」の復活を要望する声が関係者や視聴者から多く寄せられているなど、「伝説の芸人」として、やすしの存在は没後10年を経た現在もなお、語り継がれている。また、摂津市の自宅を改装し、「横山やすし記念館」も検討されている。
今日、横山やすしの記事を読んだ。あの・・・あの漫才をもう一度観たい。





