内容(「BOOK」データベースより)
優等生がひた走る本線のコースばかりが人生じゃない。ひとつ、どこか、生きるうえで不便な、生きにくい部分を守り育てていくことも、大切なんだ。勝てばいい、これでは下郎の生き方だ…。著者の別名は雀聖・阿佐田哲也。いくたびか人生の裏街道に踏み迷い、勝負の修羅場もくぐり抜けてきた。愚かしくて不格好な人間が生きていくうえでの魂の技術とセオリーを静かに語った名著。
色川 武大の文章は巧みで想像力を掻き立てられる。
色川 武大(いろかわ たけひろ、1929年3月28日 - 1989年4月10日)は、日本の小説家、エッセイスト、雀士である。
なお筆名は「色川 武大(いろかわ ぶだい)」。その他「阿佐田 哲也(あさだ てつや)」、「井上 志摩夫(いのうえ しまお)」、「雀風子」がある。
「阿佐田哲也」名義では麻雀小説作家として知られる。
略歴
東京市牛込区(現・東京都新宿区)矢来町生まれ。父親は40代の若さで退役した海軍大佐であって、色川は、父が44歳にして初めてうまれた長男であった。父は何も仕事をせず、常に自宅におり、家族は軍人恩給で生活していた。また、子どもをしかる時は鞭をつかい、98歳の長命を保った。この父親との関係は、色川文学の大きなテーマの一つとなっている。色川が小学校入学の年に弟が生まれる。
学校生活になじめず、小学生時代から、学校をサボって浅草興行街に出入りし、映画や寄席、喜劇などに熱中する。あまりに学校をサボるので、塾に通わされたが、そこもまたサボって、寄席に通っていたという。
また、アメリカ映画のスタッフの名前を覚えて各人の出世や退職などを見守ったり、実在の、相撲の力士や野球の選手の名前を書いたカードを作り、サイコロを振って勝敗をつける独自のゲームを考案して、その「一人遊び」に熱中する。相撲ゲームには20代なかばまで熱中した。後年、競輪に熱中するようになると、実在の競輪選手4000人のカードを作り、それを使ったゲームにも熱中した。
1941年旧制第三東京市立中学(現・東京都立文京高等学校)に進学。1943年からは勤労動員で工場で働くが、ガリ版同人誌をひそかに発行していたことが露見し、無期停学処分を受ける。
1945年に終戦を迎えるが、無期停学処分のままだったため、中学を中退。父親の恩給が止まったため、生活のため以後5年ほど、かつぎ屋、闇屋、街頭の立ち売り、博徒などの職を転々とし、アウトローの生活へ身を投じる。
後に執筆した『麻雀放浪記』の主人公「坊や哲」や「女衒の達」さながらのバクチ修行をし、サイコロ博打や麻雀の腕を磨く。稼いだ時は上宿へ泊まり、文無しになった際は野宿をした。このギャンブル没頭時代に、後に、彼の人生自身の哲学となる「ツキの流れを読んでそれに従う」「欲張りすぎず、(相撲でいえば)九勝六敗を狙う」などの考えを、身につける。
やがて1950年(昭和25年)頃から各種業界紙を転々と渡り歩くようになる。
1953年(昭和28年)には桃園書房に入社、事実上アウトローの世界より引退。『小説倶楽部』誌の編集者として藤原審爾や山田風太郎のサロンに出入りをする。特に、藤原審爾には「人生の師匠」とまで傾倒していた。
この頃の色川は、やせた美男子であった。また、山田によると「円形恐怖症」で、リンゴ、卵、ボールなどを怖がったという(のちの『怪しい来客簿』では、「山が怖い」と書かれている)。
また、この頃から既に、後に病名が判明するナルコレプシーの兆候があり、山田宅や藤原宅で麻雀が催されると、自分の番が来るまでに寝てしまいその度に、起こされていたという。なお、麻雀の玄人であったことがばれないよう、トップにはならず「いつも、少しだけ浮く」という麻雀を打っていた。吉行淳之介は、その打ち方を見て不審に感じ、のち阿佐田哲也名義で『麻雀放浪記』が刊行された際、「この作者は、おそらく色川武大だ」と直感したという。
藤原の主宰する小説勉強会で知り合った、当時北海道新聞の記者をしていた夏堀正元が、色川を「傑作を書ける男だ」と『中央公論』の笹原金次郎に紹介した。この頃、夏堀正元の紹介で新日本文学会にも入会(ただし、後年、夏堀が他の作家に「この人も『新日本文学』の会員ですよ」と紹介すると、「いや、違う」と色川は否定したという。新日本文学会のイデオロギー臭を嫌っていたと思われる)。当時の色川は「あまり本を読まない文学青年」で、夏堀が薦めたドストエフスキー等には反応せず、『旧約・新約聖書』に熱中していたという。
1955年(昭和30年)に桃園書房をクビになり、以降、生活のために「井上志摩夫」名義での娯楽小説を書く。この頃から、新宿ゴールデン街の名物バー『まえだ』に通うようになる。
1961年(昭和36年)に、父親のことを書き、本名で応募した『黒い布』が伊藤整や武田泰淳や三島由紀夫の激賞を受け、第6回中央公論新人賞を受賞。なお、この受賞パーティが、野坂昭如の「文壇パーティ・デビュー」の会でもあり、後の野坂の小説『文壇』でその様子が描写されている。
しかしその後はスランプに陥り、以降しばらく、同人誌での活動を行う。また、「生活費は競輪などのギャンブルで稼いでいる」と知人には語っていた。
夏堀正元、井出孫六、黒井千次らと同人誌『層』発刊。また、近藤信行、平岡篤頼、古井由吉等の同人誌『白猫』にも参加。有馬頼義主宰の若手作家の文学サロン「石の会」では、高井有一、高橋正男、五木寛之、佃実夫、萩原葉子、室生朝子、中山あい子、後藤明生、森内俊雄、渡辺淳一、梅谷馨一、立松和平らを知る。
1966年(昭和41年)に『週刊大衆』に、「雀風子」の筆名で『マージャン講座』というコラムを執筆したところ人気を博し、この連載はタイトルを変更しながらも2年間続く。この頃から原因不明の睡眠発作・脱力症状・幻視・幻聴・幻覚(後述)に悩まされるようになり、治療費が必要となった場合に備える構えで、さらなる別名での執筆を行うことを決めた。
1968年(昭和43年)に『週刊大衆』に「阿佐田哲也」名義で発表した、『天和の職人』などで、「麻雀の牌の並びが小説中に記載されている、麻雀小説」を発明する。
1969年(昭和44年)に、やはり『週刊大衆』に連載を開始した自伝的小説『麻雀放浪記』シリーズで、若い読者の圧倒的人気を得て脚光を浴び、世は麻雀ブームとなる。以後、麻雀小説を多数執筆し、その影響で「麻雀専門誌」や「麻雀専門劇画誌」などが生まれ、その多くに阿佐田は執筆した。
1970年(昭和45年)から『週刊ポスト』において、作家や芸能人、スポーツ選手などが参加する「麻雀勝抜き戦」の「観戦記」の執筆を開始(1976年まで)。自らも選手として参加し、麻雀を通して、交友範囲を大きく広げる。麻雀を通しての交友であったので、井上陽水などとは非常に親しい仲になったにもかかわらず、陽水の歌声をかなり後まで知らなかったという。また、この年から従妹(母親同士が姉妹)の黒須孝子と暮らしはじめる。なお、孝子は「この人は病気で数年で死ぬだろう。その間、看病して、この怪物のような人物と暮らしてみたい」という気持ちだっという。
また、若手の麻雀強豪(小島武夫、古川凱章ら)を集めて、麻雀エンターテインメントグループ「麻雀新撰組」を結成し、局長に就任。麻雀メディアにおおきな影響を及ぼす。この経緯はのちに、『小説・阿佐田哲也』に書かれている。
1973年(昭和48年)には孝子と結婚。孝子は直木賞受賞作『離婚』のモデルとなる。なお、若い頃、東宝から映画女優としてのスカウトがきたほどの美人であった。
1974年(昭和49年)に前述の精神病が難病のナルコレプシー(眠り病)と判明、終生悩まされる事になる。この年、色川名義で、『話の特集』誌に「怪しい来客簿」の連載を開始する。
1976年(昭和51年)には胆石の悪化で一時期危険な状態にまで陥った。家族は葬式の手配までし、『近代麻雀』誌は追悼号の印刷までした。だが、医者も驚く奇跡的な回復をする。退院後、すぐその晩から清水一行、畑正憲らと丸二日間、麻雀をした。
1977年(昭和52年)に『怪しい来客簿』が本名で刊行され、泉鏡花賞を受賞する。『黒い布』以来「色川武大」としては16年ぶりの復活であった。
1978年(昭和53年)には『離婚』で第79回直木賞を受賞する。この作品は事実とフィクションが入り混じった内容で、孝子夫人は「小説のとおりの人物」と人から思われ、人間不信になり自殺まで考えたという。以降は、本名と阿佐田哲也名義で執筆を続け、精通している博打、映画、芸能、ジャズや幅広い交友関係などを元にした著書を多数出版し続けた。
1989年(平成元年)4月3日に前の月に引越したばかりの(色川は過去20年の間で10回も引越しを行っていた)岩手県一関市において、心筋梗塞で倒れて病院に運ばれる。適切な手当の結果、一命を取りとめたと思われたが、1週間後の10日、入院先の宮城県の病院にて、心臓破裂で死去。享年60(数え年で61歳)。一関に移り住んでわずか10日後の事であった。
作家活動
色川武大名では主に純文学を、阿佐田哲也名では『麻雀放浪記』をはじめとするギャンブル小説を多数発表しているほか、井上志摩夫名では時代小説などを発表している。
「阿佐田哲也」のペンネームについては、麻雀で徹夜を繰り返し『朝だ!徹夜だ!』といったことに由来しており、「武大」の本名は父親が中国の小説『金瓶梅』の登場人物より名付けたものである(自著『ぎゃんぶる百華』より)。
ギャンブル
麻雀の分野においては、麻雀をカルチャーとして広めたという意味で戦後最大の功績者であると言える。「雀聖」とも呼ばれ、神格的扱いすら受けるビッグネームである(「雀鬼五十番勝負」などの作品に見られるように元々は「雀鬼」と呼ばれていたが、後にナンバーワン代打ちとして活躍する桜井章一を「雀鬼」と呼ぶことが一般的になったため、区別するために「雀聖」と呼ばれるようになった)。
また、麻雀技術書において、麻雀に戦術があることを書き、五味康祐とともに、「単なるギャンブル」とみなされていた麻雀を「知的なゲーム」として見直させることになった。
また、小説の中に登場人物の牌の状況図を入れる「麻雀小説」の発明者であり、その影響下により、他の作家たちによる「麻雀小説」「麻雀劇画」が生まれた。なお、牌の状況を書く際は、麻雀の牌が刻まれた特注のハンコを用意し、それを原稿用紙に押していたという。
1965年(~75年)に『麻雀放浪記』がヒットすると、1970年から『週刊ポスト』誌で有名人による麻雀勝抜戦(阿佐田が観戦記担当)が開始。1972年には、竹書房から、日本初の麻雀専門雑誌『月刊近代麻雀』が誕生。他の出版社からも専門誌が次々に刊行された。阿佐田はこれらの雑誌類にも、精力的に執筆・参加した。
1975年には、小島武夫・古川凱章らと「麻雀新撰組」を結成し、テレビ番組11PM(大橋巨泉:司会)の麻雀コーナーに出演して、麻雀を打つなど積極的なメディア展開を図り、「第二次麻雀ブーム」形成に大きく貢献した。
なお、週刊少年マガジンにて1997年から2004年まで連載されていた『哲也-雀聖と呼ばれた男』(原作:さいふうめい、漫画:星野泰視)のモデルにもなっている。
また、「競馬、競艇などのギャンブルの中で人が最後にたどりつく『ギャンブルの王様』は競輪である」と言うほど競輪を愛していた。これにちなみ、立川競輪場では毎年「阿佐田哲也杯」が開催されている。なお、麻雀でも過去に「阿佐田哲也杯」が開催されていた(現名称は「麻雀王座決定戦」)。
また、友人である作家山口瞳の競馬随筆などにも何度か登場しており、山口が雑誌で連載していた随筆連載では旅打ちのゲストとして登場している。この山口の随筆には、色川の持病のナルコレプシーについての描写も見られる。
ラスベガスへも何度も通った。好きだったバカラは、清水一行から教わったという。
その他、若い頃は、ギャンブル仲間と年頭に、「この1年に誰が死ぬか」という賭けもしていた。
なお、作家として高名になった後も、「その筋の人々」との「手本引き」などのギャンブルをしており、その際は数百万単位の金銭を持参して、賭場にのぞんだという。
ギャンブルを通じて、将棋の棋士たちと縁ができたことから、当人は将棋はあまり強くなかったが、将棋の観戦記も書いていた。「将棋ペンクラブ大賞」の選考委員も死去するまでつとめた。
また、色川がギャンブルから学んだ人生観として、「9勝6敗を狙え。8勝7敗では寂しい。10勝を狙うと無理がでる」という言葉がある。そのため、「幸運が続きすぎると危ない」という考えがあり、ギャンブルに大負けすると「ここで不運を消化しておけば安心だ」と語った。作家の向田邦子が1981年に飛行機事故で亡くなった際は友人に、「あの人は幸運が続きすぎたせいだ」と語った。
エピソード
劇作家の飯沢匡の母は色川家の人で、飯沢と色川は「高祖父が同じ」、また従兄弟の関係になる。
ナルコレプシーを患ってからは睡眠周期が乱れ1日内の時間感覚が崩れ、「起きていて、腹が減れば食事をする」こととなり、1日6食も食事をするようになった。そのため、後年のような肥満体となった。
めったに風呂にはいらず、また風呂にはいってもつかるだけであり、結婚後は夫人が体を洗っていた。
時間にルーズで、自分が文学賞を取った際の授賞式にも、必ず遅刻していた。
作家となった後は、非常に人づきあいがよくなり、そのため、文壇、芸能界、スポーツ界、麻雀プロたち、アウトローの世界を含めて、多数の人物と交際しており、色川家には人の出入りが絶えなかったという。山口瞳は色川の死後、「彼には八方美人の性格があり、だれもが『自分が一番愛されている』と感じさせた」と書いている。
チワワを飼っていたことがあって「アサダ」という名前をつけていた。その犬が死んだ直後に、黒鉄ヒロシが色川宅に電話すると、孝子夫人が「アサダが死んじゃったのよ!」と言ったため、黒鉄をあわてさせた。
一関への引越しは、同地に有名なジャズ喫茶「ベイシー」があったのがきっかけである。還暦を期に、作品に専念するという考えがあり、また純文学では稼げないため家賃の安い所に住みたいという理由もあった。
小松原茂雄元東京大学教授(ディケンズの世界の著者)とは小学校からの親友である。
受賞歴
全て本名の色川武大名義による受賞。
1961年 - 「黒い布」で中央公論新人賞を受賞
1977年 - 「怪しい来客簿」で第5回泉鏡花文学賞を受賞
1978年 - 「離婚」で第79回直木賞を受賞
1982年 - 「百」で川端康成文学賞を受賞
1989年 - 「狂人日記」で読売文学賞を受賞
色川武大名義の著作
『怪しい来客簿』(話の特集 1977年7月)のち角川文庫、文春文庫
『離婚』(文藝春秋 1978年11月)のち文庫
『ぼうふら漂遊記』(新潮社 1979年3月)のち文庫
『生家へ』(中央公論社 1979年7月)のち文庫、講談社文芸文庫
『小説阿佐田哲也』(角川書店 1979年11月)のち文庫
『無職無宿虫の息』(講談社 1980年7月)のち文庫
『花のさかりは地下道で』(文芸春秋 1981年6月)のち文庫
『百』(新潮社 1982年10月)のち文庫
『恐婚』(文藝春秋 1984年3月)のち文庫
『うらおもて人生録』(毎日新聞社 1984年11月)のち新潮文庫
『喰いたい放題』(潮出版社 1984年11月)のち集英社文庫、光文社文庫
『遠景・雀・復活』(福武書店 1986年2月)『虫喰仙次』文庫、原題で講談社文芸文庫
『寄席放浪記』(広済堂出版 1986年10月)のち河出文庫
『あちゃらかぱいッ』(文芸春秋 1987年11月)のち文庫、河出文庫
『街は気まぐれヘソまがり』(徳間書店 1987年11月)ISBN 4-19-123557-5
『唄えば天国ジャズソング 命から二番目に大事な歌』(ミュージック・マガジン 1987年5月)のちちくま文庫
『狂人日記』(福武書店 1988年10月)のち文庫、講談社文芸文庫
長部日出雄、村松友視、和田誠共著『戦後史グラフィティ』(話の特集 1989年8月)
『色川武大の御家庭映画館 映画ビデオ・ガイドブック』(双葉社 1989年7月)
『引越貧乏』(新潮社 1989年7月)のち文庫
『虫けら太平記』(文芸春秋 1989年7月)のち文庫
『なつかしい芸人たち』(新潮社 1989年9月)のち文庫
『明日泣く』(実業之日本社 1989年11月)のち講談社文庫
『ばれてもともと』(文芸春秋 1989年12月) ISBN 4-16-343900-5
『私の旧約聖書』(中公文庫 1991年9月)
『色川武大 阿佐田哲也全集1~16』(福武書店 1991年~1993年)
『いずれ我が身も』(中央公論新社 2004年3月)のち文庫
『映画放浪記 大人の映画館』(キネマ旬報社 2006年)ISBN 9784873762678「色川武大の御家庭映画館」の改題
この本は大学一回生の時、読んだ。衝撃を受けた。素晴らしい小説である。
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