1933年に中国で宣教師の息子として生まれたシュナイス牧師は、ドイツで神学を学び、1958年から日本で宣教師として活動。

2022-02-13 09:17:26 | 31朝鮮独立運動の教訓

独記者に取材を要請…

「5・18光州抗争」を世界に知らしめたシュナイス牧師が死去

登録:2022-02-12 04:29 修正:2022-02-12 07:08
 
ドイツの宣教師で1958年から日本で活動 
朴正煕政権時代、韓国民主化運動を伝えて追放 
日本人妻と共に「TK生」に資料を渡す 
1980年「5・18」ヒンツペーター記者に取材要請
 
 
                                     パウル・シュナイス牧師=資料写真//ハンギョレ新聞社

 5・18民主化運動などの1970~80年代の韓国の民主化運動を世界に伝えたパウル・シュナイス牧師が11日未明、ドイツで死去した。享年89。

 民主化運動記念事業会はこの日、シュナイス牧師の死去を発表するとともに「苛酷な軍事政権時代に多くの困難を甘受しつつも、韓国の民主化運動を支援し、世界に伝え続けた人物で、韓国の民主主義のための彼の献身に感謝しつつ、平和と正義は共にあらねばならないという彼の遺志を受け継いでいく」と述べた。

 1933年に中国で宣教師の息子として生まれたシュナイス牧師は、ドイツで神学を学び、1958年から日本で宣教師として活動。1970年からはドイツの宣教団体である東アジア宣教会の所属となり、韓国と日本を行き来した。

 同氏は、朴正煕(パク・チョンヒ)長期政権時代から韓国の民主化運動を国外に伝え続けてきた。1974年の民青学連事件、1976年の3・1民主救国宣言の裁判を欠かさず傍聴した。国外に滞在する人物と国内の民主化運動関係者との橋渡しも担った。1975年には、日本の時事月刊誌「世界」で「T.K生」というペンネームで「韓国からの通信」と題するコラムの執筆を主導していた池明観(チ・ミョングァン)東京女子大学教授に、韓国の資料を秘密裏に手渡した。

 シュナイス牧師は1978年12月、韓国政府によって香港への強制出国処分を受けた。その後、入国が禁止された同氏に代わり、日本人のサクライキヨコ夫人と子どもがソウルとの間を行き来した。1980年5・18の際には、ソウルで軍部隊の移動を目撃したという夫人の話を聞いたシュナイス牧師は、ドイツの放送局NDRの東京支局を訪れ、映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』の実際のモデルであるユルゲン・ヒンツペーター記者に光州取材を要請した。ヒンツペーター記者は撮影した5・18の映像の原本をドイツに送る一方、放送用ベータテープのコピーをシュナイス牧師に手渡した。このコピーがアムネスティ・インターナショナルなどに送られたことで、5・18が全世界に知れわたった。

 シュナイス牧師とその家族は200回以上も韓国との間を行き来しつつ、韓国の民主化運動に関する資料の収集と著書活動を続けるとともに、関連資料を韓国政府に寄贈した。その功労により、夫人とともに2011年に「5月の母」賞を受賞した。昨年には5・18記念財団から功労賞が、政府から民主主義発展有功部門国民褒章が授与された。

 
 
パウル・シュナイス牧師(右)と夫人のサクライキヨコさん=民主化運動記念事業会提供//ハンギョレ新聞社
イ・ウヨン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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イ教授は「最近、文化体育観光部・旧全羅南道庁復元推進団が5・18関連映像をまとめた写真を見て、当時会った4歳児のことが思い浮かび、心臓が止まりそうだった」と語った。

2021-05-10 11:50:58 | 31朝鮮独立運動の教訓

光州民主化運動当時、軍バスに乗せられた4歳児はどこへ

登録:2021-05-10 05:53 修正:2021-05-10 08:58
 
イ・ドンチュン教授、海外メディアのカメラに収められた姿を発見 
ノーマン・ソープ元記者の写真にもかすかに写っており 
「被弾して死亡した4歳の無名烈士と同一人物の可能性高い」
 
イ・ドンチュン木浦科学大学教授が1980年5月27日の朝、4歳ぐらいの男の子を抱いて軍用バスに座っている=イ・ドンチュン教授提供//ハンギョレ新聞社

 1980年の光州民主化運動(5・18)の最終日に軍用バスに乗せられていた4歳くらいの男児の姿が撮られた映像と写真が、初めて発見された。この4歳児の行方が41年間明らかになっていない中、被弾して死亡し、野山に埋められた状態で発見された「4歳の5・18無名烈士」と同一人物と推定されている。

 イ・ドンチュン木浦科学大学教授(62)は9日、「1980年5月27日の朝、私が4歳くらいの男の子を抱いて軍のバスに載せられていた姿を、映像で発見した」と述べた。海外の放送局が撮影したとみられる5・18関連映像で、当時大学生だったイ教授は軍用バスに4歳くらいの男児を抱いて乗っていた。映像で赤い上着を着た子どもは、不安そうにバスの外をじっと見つめていた。イ教授は「最近、文化体育観光部・旧全羅南道庁復元推進団が5・18関連映像をまとめた写真を見て、当時会った4歳児のことが思い浮かび、心臓が止まりそうだった」と語った。

 
木浦科学大のイ・ドンチュン教授が2020年11月、国立5・18民主墓地で4歳の無名烈士の墓に参拝している=チョン・デハ記者//ハンギョレ新聞社

 軍用バスの中の4歳児の姿は、元「ウォールストリート・ジャーナル・アジア版」記者のノーマン・ソープ氏が撮った写真(5・18特別展にて公開)にも写っている。イ教授は「5月27日未明に旧全羅南道道庁で捕まった後、バスに乗ったが、海外メディアの記者がバスの外から撮影したようだ」と話した。イ教授の前の座席に座った人はイ教授と旧全羅南道道庁本館2階の副知事室で逮捕された故イ・ジョンギ弁護士(1917~1997)だ。

 イ教授が4歳児に会ったのは5・18の最後の夜明けだった。旧全羅南道道庁で銃を持って戒厳軍の鎮圧に抵抗した彼は「道庁の前庭に連れて行かれたが、先に来ていた男女高校生2人から4、5歳くらいの男の子を預けられた」と語った。イ教授は、光州の軍部隊だった尚武台の営倉に連行され、分類審査を受ける際、憲兵に子どもを引き渡したという。

 
ノーマン・ソープ元ウォールストリート・ジャーナル・アジア版記者が撮った写真の中に、イ・ドンチュン教授が子供を抱いている姿(赤い四角)が映っている。イ・ドンチュン教授の前に座っている人は故イ・ジョンギ弁護士(青い四角)だ=チョン・デハ記者//ハンギョレ新聞社

 軍尚武隊の営倉に収容された4歳の子どもが銃事故で死亡した可能性が高いという指摘もある。イ教授は「実弟が5・18当時尚武隊憲兵だった知人に『あの時、市民軍が連れてきた子どもを覚えている。軍の兵舎で保護していた子どもが突然いなくなり、大騒ぎになった』という話を聞いた」とし、「私と一緒に軍の営倉に連れていかれた4歳児と国立5・18民主墓地に埋められた4歳の無名烈士が同一人物かどうか、5・18真相調査委が徹底的に調査しなければならない」と述べた。

 
4歳の無名烈士の検死調書//ハンギョレ新聞社

 光州市北区雲井洞(ウンジョンドン)の国立5・18民主墓地には「4歳の無名烈士」(4-97)が葬られている。4歳(推定)の無名烈士は1980年6月7日、光州市南区孝徳小学校の向かい側にある野山(光州大学に変わった当時のインソン高校前)で発見され、5・18墓地に埋葬された。4歳児の検死記録には「左後頸部盲管の銃傷」(左の後ろ首に弾が刺さった状態で死亡)が死因となっている。また、「死者を30代の女性が軍用ジープ車に乗せてきて、孝徳洞(ノドクドン)所在のインソン高校前の山に埋葬し、その車で立ち去った」という内容も記されている。4歳児の遺体周辺には「ブラウンの女性用セーターで包まれた、韓国銀行1000ウォン札1枚が入っていた」という。この遺体を収容した光州市役所社会科の元職員のチョ・ソンガプさん(78)は、「尾根の方に埋まっていた。(遺体は)とてもかなり小さくて痩せてこけていた。乾いた真砂土の多い地に誰かが埋めたんだ」と振り返った。

 4歳の無名烈士の身元や家族などは、いまだに明らかになっていない。5・18行方不明者78人のうち10代未満の犠牲者イ・チャンヒョン君(7)やパク・グァンジン君(5)の家族と4歳の無名烈士の遺伝子は一致しないことが分かった。光州市は旧5・18墓地に埋葬された無名烈士の墓11基を新しい墓地に移転する過程で、行方不明者家族の遺伝子を比較・分析し、2002年に3人、2006年に3人の身元を確認したが、4歳の男児ら5人の身元は明らかになっていない。イ・ギョンリュル旧全羅南道道庁復元推進団チーム長は「5・18当時軍のバスに乗っていた4歳児の家族や知人が現れ、真相が明らかになることを望んでいる」と話した。

チョン・デハ、キム・ヨンヒ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
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チョン長官は「被害者のみなさんの意思がきちんと伝わるように積極的な役割を果たすのが私たちの役目」とし「被害事実の歴史的な記録を体系的に収集して拡散するために、さらに努力する」と述べた。

2021-03-03 07:28:32 | 31朝鮮独立運動の教訓

慰安婦被害者イ・ヨンスさん、

女性家族部長官と面会「国際司法裁判所への提訴に力を」

登録:2021-03-02 03:23 修正:2021-03-02 07:07
 
チョン・ヨンエ長官「政府支援を積極検討…被害事実の収集、拡散に努める」 
イさん「『強制連行』の証拠溢れている…
一人でも多く生きている時に日本は謝罪すべき」
 
女性家族部提供//ハンギョレ新聞社

 三一節(独立運動記念日)を迎えた1日、日本軍「慰安婦」被害者のイ・ヨンスさんは女性家族部長官と面会し、「日本軍『慰安婦』問題についての日本政府の責任を明確にするためには、国際司法裁判所に提訴して判決を受ける必要がある」と語った。

 この日、イさんは、チョン・ヨンエ女性家族部長官と正午にソウル光化門(クァンファムン)周辺の飲食店で会い、2時間あまり食事を共にした。この席でイ・ヨンスさんはチョン長官に「被害者が一人でも多く生きている時に日本はしかるべき謝罪をすべきだ」と強調した。最近物議を醸しているハーバード・ロースクールのマーク・ラムザイヤー教授の論文について、イさんは「日本が強制的に連れて行き、人権を侵害したという証拠は溢れている」と反論した。ただしイさんは、ラムザイヤー教授の論文について、政府が直接対応すべき問題ではないと述べたと女性家族部は伝えた。

 
チョン・ヨンエ女性家族部長官が1日午後12時、ソウル光化門周辺の飲食店で日本軍「慰安婦」被害者イ・ヨンスさんと会い、意見を交わしている=女性家族部提供//ハンギョレ新聞社

 チョン長官はイさんの意見を聞いた後、「日本軍『慰安婦』問題を伝え、解決に努めてきたイ・ヨンスさんが進めようとしていることに対して、政府が支援できる部分を前向きに検討する」と答えた。特にチョン長官は「被害者のみなさんの意思がきちんと伝わるように積極的な役割を果たすのが私たちの役目」とし「被害事実の歴史的な記録を体系的に収集して拡散するために、さらに努力する」と述べた。

 イさんは国と国の間での学生や青少年同士の交流と教育の強化が必要だと要請し、これに対しチョン長官は「民間で行われている様々な記念事業に関する支援を強化していく」と述べた。

 最近、日本軍慰安婦被害者を「自発的売春婦」と主張するラムザイヤー教授の論文が物議を醸す中で、女性家族部は、被害者との直接対話を増やし、関連学界と専門家の意見を収集する一方、国際カンファレンスの開催など「慰安婦」問題についての認識拡散に向けて努力していく予定であることを表明している。

キム・ミヒャン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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チェさんは「毎年、三一節や光復節には子どもたちの祖父が眠る顕忠院を訪れているが、今年はコロナのために、家で読書とお絵描きをすることにした。

2021-03-02 10:38:34 | 31朝鮮独立運動の教訓

独立叫んだ三一節102周年、

オンライン空間などで「それぞれの記念日」熱く

登録:2021-03-02 03:21 修正:2021-03-02 07:59
 
コロナの影響で記念行事が中止に 
ソウル、蔚山など全国で「画像記念式」 
ラムザイヤー批判、「独立万歳」も叫ぶ 
 
SNSに#手書き3・1運動をアップ 
家で子どもと太極旗を描くなど 
市民、非対面で3・1節を再確認 
 
ソウル興士団「オンライン3・1運動記念式」より//ハンギョレ新聞社

 市民は太極旗に敬礼した後、殉国烈士に対する黙祷へと移った。独立運動記念日である三一節102周年を迎えた3月1日午前11時、ソウル、蔚山(ウルサン)、慶尚南道昌原(チャンウォン)、密陽(ミリャン)など、全国各地の市民が一堂に会した。ただし、広場ではなくビデオ会議システム「ZOOM(ズーム)」でだ。彼らはノートパソコンやタブレットなどで、それぞれのやり方でこの日の行事に参加した。新型コロナウイルス拡散防止のためオフラインでの三一節記念行事のほとんどは取り消しとなったものの、三一節を称える市民の動きは止まらなかった。多くの市民がオンライン空間と自宅で三一節の意味を再確認した。

 この日、市民団体「ソウル興士団」はビデオ会議システムを通じて「オンライン3・1運動記念式」を開いた。同団体会員のヤン・スンテクさんが「興士団は未完の解放を完成するため、日本の歴史歪曲に強く対応し、慰安婦問題に積極的に取り組む対日市民運動をさらに強化する」との内容の声明を読み上げた。日本軍「慰安婦」のことを売春婦と主張するハーバード大学のマーク・ラムザイヤー教授を批判したり、独立運動家を称えたりするプラカードを手にした50人あまりがこれを見守った後、「大韓独立万歳」を三度叫んだ。オンライン記念式に参加したソウル興士団団員のタク・イルチャンさんは、「コロナのせいで直接集まることはできないが、3・1運動の精神を一人ひとりの暮らしの中で実践していってほしい」と語った。

 
チェ・ウンギョンさんの5歳と6歳の子どもが童話を読み、太極旗と柳寛順(ユ・グァンスン)烈士の絵を手にしている=チェ・ウンギョンさん提供//ハンギョレ新聞社

 自宅で子どもたちと太極旗を描くなどして三一節の意味を再確認したという市民もいた。全羅北道全州(チョンジュ)に住むチェ・ウンギョンさん(40)は、5歳と6歳の2人の子どもと一緒に、三一節に関する童話を読んで太極旗を描いた。チェさんは「毎年、三一節や光復節には子どもたちの祖父が眠る顕忠院を訪れているが、今年はコロナのために、家で読書とお絵描きをすることにした。子どもが『あの方たちがいなかったら、今の私たちは幸せに暮らしていられなかっただろう』と言った。殉国先烈への感謝の気持ちを抱く時間を過ごした」と話した。大田(テジョン)に住むチョン・ヒョンジュさん(38)も、4歳と6歳の子どもと一緒に太極旗を描いて三一節を祝った。

 
チョン・ヒョンジュさんの4歳の息子が、自分で描いた太極旗の絵を手にしている=チョン・ヒョンジュさん提供//ハンギョレ新聞社

 普段の趣味を活かして三一節を記念する人もいた。京畿道華城(ファソン)のアン・スジさん(34)は、太極旗を刺繍してSNSにアップした。アンさんは「今は集まること自体が危険なので、各自の気持ちで三一節を祝うのがいいと思う。私の得意な刺繍で、約100年前に独立運動をした方々に対する感謝の気持ちを表現した」と語った。京畿道光明(クァンミョン)に住むソン・ヘジンさん(29)はカリグラフィーで「大韓独立万歳」を書き、それを撮影してSNSにアップした。ソンさんは「私が好きなやり方で三一節を記念した」と笑った。

 インスタグラムなどには、三一節を記念する書き込みも続々とアップされた。多くの人々が「大韓独立万歳。今日の困難も最後まで勝ち抜きます」と書いた手書きのメッセージを撮影し、「#手書き3・1運動」というハッシュタグをつけてアップした。「手書き3・1運動」に参加したパク・チュンヒさん(38)は「独立精神を再確認したいが、集まること自体が難しい今は、こうした方式への参加が最も望ましいと思い、参加した」と話した。

 
アン・スジさんが刺繍した太極旗=アン・スジさん提供//ハンギョレ新聞社
 
ソン・ヘジンさんの「大韓独立万歳」カリグラフィー=ソン・ヘジンさん提供//ハンギョレ新聞社
キム・ユンジュ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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「南北の人々が大同団結し、大衆運動で中立化を成し遂げてこそ、核問題も解決できます。そうすれば、韓国の自主性も確保できます」

2021-02-25 07:37:07 | 31朝鮮独立運動の教訓

[インタビュー]

「南北の国力と自主意識の高い今が『中立化宣言』の適期」

登録:2021-02-24 08:00 修正:2021-02-24 10:43
 
「朝鮮半島の中立を推進する人々」のイ・ヒョンベ代表
 
「朝鮮半島中立化を推進する人々」のイ・ヒョンベ常任代表がハンギョレとのインタビュー後、写真撮影に応じた=カン・ソンマン先任記者//ハンギョレ新聞社

 3月1日正午、ソウルのタプコル公園で「朝鮮半島永世中立化宣言文」の朗読イベントが開かれる。

 「朝鮮半島の中立化を推進する人々」(以下、中推人)のイ・ヒョンベ常任代表らが宣言文を朗読し、付帯行事としてパンソリのイム・ジンテク名唱が演出したマダン劇も繰り広げられる。仮想の寸劇であるこの公演には、朝鮮半島周辺4大国の指導者たちが仮面をかぶって登場し、朝鮮半島の状況をめぐって激論を交わした後、朝鮮半島の中立化が最善だという結論を下す。

 「朝鮮半島の中立化だけが、統一を妨げる相互不信と軍事的対峙という障害を解消し、周辺大国の利害関係から始まった抑圧の手綱を断ち切る唯一の道だ。(中略)中立化の道は、単にわが民族の生存だけのためではなく、米国や中国、ロシア、日本などを含む近隣諸国の共同利益にも合致する」。今月からオンライン署名を受け付ける「朝鮮半島永世中立化宣言文」の一部だ。

 昨年6月25日に創立した中推人のイ・ヒョンベ常任代表と19日、ソウル鍾路3街駅近くの事務所で会った。

 イ代表は維新時代の1974年、独裁者朴正煕(パク・チョンヒ)の永久政権のために企てた「民青学連事件」の死刑囚7人(ヨ・ジョンナム、キム・ジハ、イ・チョル、ユ・インテ、ナ・ビョンシク、キム・ビョンゴンなど)の一人だ。慶北大学の卒業生であるヨ・ジョンナムとイ代表を除いた5人は、軍事裁判の一審判決から1週間後、国防部長官の決裁過程で無期懲役に減刑されたが、イ代表は一審の2カ月後に開かれた二審でようやく無期懲役の判決を言い渡された。ヨ・ジョンナムは最後まで減刑されることなく、人民革命党再建委関係者7人とともに「司法殺人」の犠牲者として生涯を閉じた。詩人キム・ジハと共に「民青学連組織員」の後輩らを操った疑いで、イ代表は4年6カ月間にわたる刑務所生活の末、1978年の光復節(日本の植民地支配からの解放記念日)に釈放された。

 歴史学の教授になるために1963年にソウル大学史学科に入学したイ代表は、翌年から朴正煕政権の暴政に対抗する学生運動の尖兵の役割を果たした。1964年の韓日協定反対闘争では、キム・ジハら先輩グループが指名手配され、2年生の彼が先頭に立って6・3大規模デモを率いた。軍服務を終えて復学した1967年には、ソウル大学民主守護闘争委員会の委員長を務め、朴正煕政権がその年の総選挙で犯した違法と不正を糾弾する学生デモを主導した。盧泰愚(ノ・テウ)政権時代の1990年代初めには、経済正義実践市民連合の第2代常任執行委員長として、社会経済的正義を追求する活動にも力を注いだ。

 「60、70年代は独裁権力に対する抵抗が最終目標でした。独裁者が消えれば、民主化はもとより社会経済的正義も実現すると思っていました。今になって見ると、形式的な民主主義が花開いたのは事実ですが、社会経済的正義の実現とは程遠いもので、社会の葛藤も解消されていません。このようになった最大の要因は分断と外国勢力の介入です。自主性なしには解決できません」

 彼が中推人の結成に直接乗り出したきっかけは、いわゆる「THAAD(高高度防衛ミサイル)事態」だという。「韓国へのTHAAD配備問題で米中対立が発生し、4年前に中国が韓国に経済制限を加えたことで、韓国の旅行業界が大打撃を受けました。その時の衝撃が大きかった。その状況を見て、北朝鮮核問題を解決し、米中対立の被害から抜け出す道は中立化しかないと思いました。北朝鮮の核問題をめぐり、米国が二度も北朝鮮に対し、戦争をちらつかせて脅かしたではありませんか。しかし、北朝鮮が最後の生存手段である核を簡単に手放すはずがありません」

 中立化とは、簡単に言えば他国の戦争や紛争に介入しないことだ。国際法上、中立国は自衛目的でないいかなる戦争にも参加せず、自国を戦争に引き込むかもしれないいかなる協定も締結してはならない。欧州のスイスやオーストリア、南米のコスタリカなどが代表的な中立国だ。大韓帝国の高宗も日露戦争を控え、中立化を宣言したが、朝鮮半島を狙っていた大国たちはこれを認めなかった。

 「中立化の具体的経路」を尋ねると、イ代表は「200人以上の中推人メンバーが討論を重ねて決めた」と答えた。「第1段階は南北の同時中立化宣言です。その次に、南北国家連合を構成して中立化と統一に備える協議を行います。最後に南北と米中など、朝鮮戦争における主交戦国が平和会談を開き、中立化などを含む平和条約を一括妥結します」。彼は、北朝鮮核問題は外交や軍事的には解決できないとも述べた。「南北の人々が大同団結し、大衆運動で中立化を成し遂げてこそ、核問題も解決できます。そうすれば、韓国の自主性も確保できます」

昨年6月、朝鮮半島の永世中立化を目指し 
「中立化を推進する人々」を結成 
タプコル公園で宣言文を朗読 
「北朝鮮核問題の唯一の解決策は中立化だけ」 
 
1964年、大学2年生の時、「6・3デモ」を主導 
“民青学連事件の黒幕”とされ死刑判決も

 終戦宣言や平和協定を求める統一運動陣営からすると、中立化は多少突拍子もないと思われるのではないだろうか。「私たちも終戦宣言に賛成します。しかし、終戦宣言には北朝鮮の核をどうするかが抜けています。外国軍の駐留基地や撤退の話もありません。だから、終戦後も南北の間には緊張状態が続かざるを得ないのです。最小限の防衛力で国家を防御する中立化宣言で、北朝鮮の核問題と外国軍の撤退問題をともに解決できます」

 彼は「6・15南側委員会のイ・チャンボク常任代表議長や、市民団体『キョレハナ(同胞は一つ)』のチョ・ソンウ理事長など、長い間統一運動をしてきた方々が中推人の活動を支持しており、米国の同胞団体の米州民主参与フォーラムのメンバーからも署名が多かった」と語った。中推人共同代表はチャン・ヨンダル元国会国防委員長、パク・ソクム茶山研究所理事長、ユン・ギョンノ元漢城大学総長、キム・ギョンイム元チュニジア大使で、歴史学者のイ・マニョル教授やイム・ジェギョン元ハンギョレ副社長などが顧問を務めている。事務総長はイム・サンウ元西江大学副総長。

 「韓米同盟」がいわゆる国是とされる韓国で、軍事同盟を否定する中立化が現実性があるのかという質問に対し、彼は首を横に振った。「中立化に進む最大の困難は、韓国で人々の意識を(中立化の方に)団結させることです。次に、北朝鮮の人たちに協力を求めることです。その次が外国勢力です。内部勢力に力があれば、外国勢力の問題は解決できます。今の国際関係も、朝鮮半島を中心に見ると、国際力学がバランスを取る方向に進んでいます。今の韓国と北朝鮮の国力や自主意識もいつになく高い。このように内外の環境が合致しているから、中立化の可能性はあると思います」

 彼は、多くの韓国人が「停戦麻痺」状態に陷っていると語る。「朝鮮戦争(1950~53年)の停戦協定後、韓国人たちは日々(停戦協定体制に)縛られて生活しています。にもかかわらず、人々は幸せに暮していると錯覚している。私が今やっているのは、この麻痺状態を壊すことです。年は取りましたが、いかなる形であれ、行動を起こさない限り何も起きませんから」

 イ代表は1日に朗読する宣言文は世界主要国の政府とマスコミにも送る計画だと述べた。現在70代が中心の中推人に若いメンバーたちを迎え入れるのが急務だと強調した。「中推人に市民委員会を設置し、若いメンバーの確保に力を入れるつもり。スポーツや芸能などの職能別、そして地域別支部も作り、ニューヨークやワシントン、ベルリンにも支部を置くつもりです。また、私たちの力を見極めながら、国会が先に中立化を提起できるよう働きかけようと思っています。まだ私たちの力が及ばず、韓国政府側に話すのは見送っています。今言うのは互いの負担になりかねませんから」

 
イ・ヒョンベ中推人常任代表=カン・ソンマン先任記者//ハンギョレ新聞社

 イ代表は民青学連事件で、キム・ジハらとともに黒幕として学生を操った容疑で逮捕された。当時、彼はソウル大学史学科大学院を修了し、東学の創始者である水雲崔濟愚(チェ・ジェウ)の人間観をテーマに修士論文を準備していた。「後輩たちにデモをしろと言ったものですから、後ろで操ったと言われても仕方がないかもしれません。ソ・ジュンソクやユ・インテ、アン・ヤンノに、維新に反対できる勢力は学生しかいない、君たちが先頭に立たなければならないと言いました。私やチョ・ヨンネのような先輩グループと学生たちの間の連絡係はソ・ジュンソクが務めました」

 ヨ・ジョンナムを除いた民青学連事件に関連した死刑囚6人のうち、唯一二審で無期減刑された。 「朴正煕政権はソウル大学に長期にわたり在籍し、学生たちを扇動し続けたとして、キム・ジハと共に私を消そうとしていたようです。ところが、キム・ジハは文人でカトリック信者でもあるため、殺したら騒がれるだろうし、私は詩人でもなく、教会にも行ってないので、『こいつにしよう』と思ったのでしょう」。彼は史学科に入学してから8年後の1971年に卒業証書を受け取り、翌年大学院に進学した。

 では、ヨ・ジョンナムと彼の運命はどのように変わったのだろうか。彼は確かなことは分からないと言いながら、このような裏話を聞かせてくれた。「私が死刑を言い渡された衝撃で、当時妊娠35週目だった妻が破水し、敗血症で生死をさまよいました。早産した息子はインキュベーターに入れられました。私の母親は、息子と嫁、孫の3人が死んでいく姿を見ているしかありませんでした。一審判決が下された後、ファン・インチョル弁護士の依頼で、キム・オッキル梨花女子大学総長(当時)が朴正煕夫人のユク・ヨンス氏に会い、このような状況を伝えてお願いしたそうです。ユク・ヨンス氏は涙を流しながら夫に話してみると言ったようですが、二審の1カ月前に、ユク氏がムン・セグァンの銃弾に倒れ、命を落としました。すると、キム総長が再び大統領府に行き、娘の朴槿恵(パク・クネ)に会ってお願いしたそうです。当時、朴槿恵は政治問題には関与したくないときっぱりと断わったそうです。私が無期懲役に減刑されたのは、ユク氏が夫に話してくれたおかげなのか、それとも朴政権レベルの他の考慮があったのか、正確な内幕は分かりません」

カン・ソンマン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
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