新型コロナウィルスの患者が増加し、救命機器が足りなくなったときに、「生命(いのち)の選別」という言葉が使われました。
医療従事者が救命機器を使用する感染者を選ばなければならない。
大切な生命を存続させる人と存続させない人を医療従事者が選別しなければならない。
このような意味で使われたと思います。
たいへんショッキングな言葉として報道されていたようでした。
それは、生命というものが大切なものだと多くの方が認識しているからだと考えます。
「生命の大切さ」というと、数年前に、障害者施設で数十名の入所者を殺傷した元職員の裁判が思い出されます。
その裁判で被告には死刑が宣告されましたが、その裁判後に、ある方がテレビのインタビューに答え、裁判長は裁判で被告に対して「なぜ生命が大切なのかを説いてほしかった」ということを言っていました。
「なぜ生命が大切なのか」
被告の主張は、「障害者は、経済的価値を生み出さない。非効率である。居なくなれば効率的になる。」というようなことであったと思います。
裁判後も、被告は、この主張を変えなかったと記憶しています。
「なぜ生命が大切なのか」
結局、裁判で、裁判官は、このことを被告に理解させることはなかったようです。
「法律で殺人や傷害が禁止されているから、生命は大切なのだ」という説明では納得できなかったのだと思います。
多くの人は、生命は尊いもの、大切なものということを認識しています。
多くの宗教でも、戒律として、「人を殺すな。人を傷つけるな。」と教えています。
でも、なぜ生命は大切なのかを具体的に説明できるかというと難しいのではないかと思うのです。
このブログを見てくださっている方々は説明できますか。
思うに、この世が、経済的価値の追求だけを目的としているものならば、上記の被告がいうことにも一定の合理性はあるかもしれません。
しかし、そうではないような気がします。
以前、ある科学者の方がテレビに出ているのを見ました。
その方の子供さんの一人が障害を持っていたそうです。
その方が語ったのは、「家族に障害がある者が居たおかげで、家族がやさしくなれた。」ということでした。
この世の中が、経済的価値の追求だけでなく、人がやさしくなることも目的としているならば、障害者が居ることも意味もあると思うのです。
私は、現在、ほぼ寝たきりの母の介護をしています。
介護を始めて数年になりますが、少しやさしくなれたような気がします。
(私は、まだ楽な方だと思いますが、それでも、たった一行で片付けるほど介護は軽いものではありませんが・・・。)
それは、人として成長した、向上したことではないかと思うのです。
お釈迦様が教えたように、人は転生輪廻を繰り返すのなら、今は、障害者と生まれていたとしても、次に生まれてくるときは障害者とはならないでしょう。
そのように考えれば、周りの人をやさしくするために、今は、障害者として生まれているだけかもしれません。
残念ながら、今の私には、生命の大切さを具体的に説くような智慧や力はありません。
ただ、「障害をもっているから生きる意味はない」という主張には賛同はできません。
コロナ禍において、「人が生きる意味」というものが問われているのかもしれません。
雑草の中に咲く小さな花を見付けました。
気づかなければ踏んづけていたかもしれません。
でも、なぜか心が惹かれて写真に収めました。
最近、このような小さな生命にも意識が行くようなことが多くなりました。
年ですかねぇ。
何かの目標に向かって、正しい方向で努力を継続している皆さん。
未来はあなた方の手の中にあります。
がんばれ。
負けるな。
皆さん方に神さま仏さまのご加護がありますように祈ります。
60歳のオッサン公認会計士でした。
では、また。