全国的に気温が下がって冬らしくなったようです。
寒さが苦手な私には厳しい季節がやってきました。
そんな私の11月第3四半期の365日継続記録表と365日勝敗表です。
ときには視点や気分を変えてみる。
何か努力を継続しているときなどには、試してみる価値はあると思います。
注意するのは、本筋を外さないことです。
例えば、何かを目指して勉強している方の場合、勉強する場所を変える等は良いと思いますが、我慢していた飲酒を解禁する等は、勉強の本筋からはずれてしまいます。
あくまでも、今やっている努力の中で、視点や気分を変えるということです。
視点や気分を変えるのは、一時的でもOKです。
要は、努力を継続する手助けとなることが肝要です。
何かの目標に向かって、正しい方向で努力を継続している皆さん。
未来はあなた方の手の中にあります。
新たな変異株が見つかり、コロナ禍は、まだまだ続きそうです。
元を絶たなきゃ駄目なんですが、その動きはありません。
でも、必ず終息する日は来ます。
それまでの間、智慧と工夫と気合いで乗りきって行ってください。
皆様に、神さま仏さまのご加護がありますように願います。
がんばれ。
負けるな。
絶対に、あきらめるな。
60歳のオッサン公認会計士でした。
ではまた。
新型コロナウィルスの患者が増加し、救命機器が足りなくなったときに、「生命(いのち)の選別」という言葉が使われました。
医療従事者が救命機器を使用する感染者を選ばなければならない。
大切な生命を存続させる人と存続させない人を医療従事者が選別しなければならない。
このような意味で使われたと思います。
たいへんショッキングな言葉として報道されていたようでした。
それは、生命というものが大切なものだと多くの方が認識しているからだと考えます。
「生命の大切さ」というと、数年前に、障害者施設で数十名の入所者を殺傷した元職員の裁判が思い出されます。
その裁判で被告には死刑が宣告されましたが、その裁判後に、ある方がテレビのインタビューに答え、裁判長は裁判で被告に対して「なぜ生命が大切なのかを説いてほしかった」ということを言っていました。
「なぜ生命が大切なのか」
被告の主張は、「障害者は、経済的価値を生み出さない。非効率である。居なくなれば効率的になる。」というようなことであったと思います。
裁判後も、被告は、この主張を変えなかったと記憶しています。
「なぜ生命が大切なのか」
結局、裁判で、裁判官は、このことを被告に理解させることはなかったようです。
「法律で殺人や傷害が禁止されているから、生命は大切なのだ」という説明では納得できなかったのだと思います。
多くの人は、生命は尊いもの、大切なものということを認識しています。
多くの宗教でも、戒律として、「人を殺すな。人を傷つけるな。」と教えています。
でも、なぜ生命は大切なのかを具体的に説明できるかというと難しいのではないかと思うのです。
このブログを見てくださっている方々は説明できますか。
思うに、この世が、経済的価値の追求だけを目的としているものならば、上記の被告がいうことにも一定の合理性はあるかもしれません。
しかし、そうではないような気がします。
以前、ある科学者の方がテレビに出ているのを見ました。
その方の子供さんの一人が障害を持っていたそうです。
その方が語ったのは、「家族に障害がある者が居たおかげで、家族がやさしくなれた。」ということでした。
この世の中が、経済的価値の追求だけでなく、人がやさしくなることも目的としているならば、障害者が居ることも意味もあると思うのです。
私は、現在、ほぼ寝たきりの母の介護をしています。
介護を始めて数年になりますが、少しやさしくなれたような気がします。
(私は、まだ楽な方だと思いますが、それでも、たった一行で片付けるほど介護は軽いものではありませんが・・・。)
それは、人として成長した、向上したことではないかと思うのです。
お釈迦様が教えたように、人は転生輪廻を繰り返すのなら、今は、障害者と生まれていたとしても、次に生まれてくるときは障害者とはならないでしょう。
そのように考えれば、周りの人をやさしくするために、今は、障害者として生まれているだけかもしれません。
残念ながら、今の私には、生命の大切さを具体的に説くような智慧や力はありません。
ただ、「障害をもっているから生きる意味はない」という主張には賛同はできません。
コロナ禍において、「人が生きる意味」というものが問われているのかもしれません。
雑草の中に咲く小さな花を見付けました。
気づかなければ踏んづけていたかもしれません。
でも、なぜか心が惹かれて写真に収めました。
最近、このような小さな生命にも意識が行くようなことが多くなりました。
年ですかねぇ。
何かの目標に向かって、正しい方向で努力を継続している皆さん。
未来はあなた方の手の中にあります。
がんばれ。
負けるな。
皆さん方に神さま仏さまのご加護がありますように祈ります。
60歳のオッサン公認会計士でした。
では、また。
努力を長く継続するのも結構たいへんです。
続けるコツの一つとして、「継続する中に、喜び、楽しみ、うれしさ、面白さを見付ける」ということを私はやっています。
公認会計士試験等の目指している時は、自分が向上していく変化を認識するのが、喜び、楽しみ、うれしさ、面白さでした。
今も、いろいろと継続していますが、惰性のようなところもあります。
いい言い方をすれば、習慣化したということになると思います。
そんな私の努力の継続の記録です。
毎日、継続しながら、小さな発見、自分に起こる小さな変化を、楽しんでいます。
人生の目標に向かって、正しい方向で努力を継続している皆さん。
未来はあなた方の手の中にあります。
がんばれ。
負けるな。
60歳のオッサン公認会計士でした。
このブログを読んでくれた方々に、神さま仏さまのご加護がありますように。
では、また。
「苦労なく長生きすること、それが幸せなんですよ」ということをよく耳にします。
テレビでも聞きましたし、介護の関係でも聞きました。
おそらく医療の関係も、そのような考え方があるのではないかと思います。
これらは、政府が、国民に、苦労をさせずに長生きさせること、その仕組みを提供することを意味しているようです。
「苦労もなく長生きすることが本当に幸せなのかなぁ。」というのが私の考えです。
また、「政府が多くの国民を苦労なく長生きさせるようにしようとすれば、行き着く先は、国民の財産をすべて国有にするような共産主義や国民が創造した価値のほとんどを税金で徴収するような社会主義となり、自由のない、制約だらけの国になってしまいます。結果、国民は、行動や思想の自由を奪われ、政府の想定したとおりの方法で長生きすることになります。これが幸せと言えるのでしょうか。」というのも私の考えです。
(ついでに言えば、政府が多くの国民を政府の想定したとおりの方法で長生きさせることなど不可能です。)
「幸せ」の価値観は多様です。
必ずしも「長生き」をすることだけをもって、その人が「幸せ」なのかどうかは分からないと思うのです。
それは、世の中の多くの人々、世界中の人々、歴史上の先人たちを見れば明らかです。
政府が、どんなに頑張っても国民全員を長生きさせることはできません。
コロナ禍にあっても、コロナ禍がなくても、そうです。
長い人生もあれば、短い人生もあるのです。
現在のコロナ禍において、「幸せとは何なのか」「生きる意味とは何なのか」といった人生の問題のようなものが投げかけられているのかもしれません。
ゴミ出しの途中で石垣の間から咲いている花に目が留まりました。
なぜか写真に収めたいという気持ちになりました。
何かの目標に向かって、正しい方向で努力を継続している皆さん。
未来はあなた方の手の中にあります。
厳しい時代が続きますが、今日できることを着実に実行していってください。
やり過ぎている時は、少し休んで、たるんでいる時は、自分に気合いを入れて、努力を継続していってください。
がんばれ。
負けるな。
60歳のオッサン公認会計士でした。
では、また。
『情報を集めて、考えて、自分に合う「正当な努力」を求める』
これは、私が公認会計士試験の勉強をする中で見つけた方法です。
勉強しても勉強しても成績が伸びずにいるときに、自分にあった勉強法がないものかといろいろと情報を集めました。
そして、やってみて、考えて、「この方法でいこう」というものを見付けて、それを繰り返していったのです。
この方法は、公認会計士になった後に、社会保険労務士試験、システム監査技術者試験の勉強をするのにも活用しました。
公認会計士試験、社会保険労務士試験、システム監査技術者試験で、自分に合う勉強法は違ったものでした。
正確には、肝心な部分は違うのですが、同じ部分もあるということです。
自分に合う勉強法を見付けるのは、試行錯誤の連続でしたが、なんとか合格することができました。
良い経験をしたと考えています。
11月8日までの365日継続記録表と365日勝敗表です。
この方法は、勉強法だけでなく、スポーツ等の運動でも使えると思います。
また、人生の困難に対峙したときも使えると思います。
お役に立てば幸いです。
何かの目標に向かって、コツコツと正しい方向で努力を継続している皆さん。
未来はあなた方の手の中にあります。
がんばれ。
負けるな。
60歳のオッサン公認会計士でした。
では、また。