8月26日の命日を前に、今日22日に亡父の33回忌法要を営むことになった。身内と言っても、父を知っている者はほとんど鬼籍に入っており、子どもは、姉と弟、私の3人だけである。孫が3人いるが、弟の長男は千葉県在住で遠いし、その妹は来月出産をひかえフーフー言っている。姉の一人娘は近くに嫁いでいるが、今日は町内の子ども会の行事で、四国の「レオマパーク」へ行っているという。弟の子ども2人は、父の亡くなる少し前に生まれたので、祖父の記憶はまったくない。というわけで、みんなそれぞれ予定もあり、わざわざ呼び寄せるのも可哀そうなので、我々姉弟だけで営むことにしたのだが、法要と言ってもお寺で経を上げてもらうだけで、格別なことは何もしない。
10時前に読経がはじまり、我々も「日蓮宗信行要旨」とかいう経本を見ながら、住職の後に続いて唱和するのであるが、修行をしている住職とは声の重みも張りも違う。第一、住職の呼吸に合わせて経を唱えるだけでも息が苦しくなってくる。それにいつも思うのだが、経本にはルビが打ってあるので読めはするが、意味は全然分からない。住職に遅れまいとただ一生懸命読むだけで、その意味も分からずでは、ありがたくも何ともない。これで供養と言えるのだろうかと、年忌どおりに営む法要の意義を考えさせられた。
亡父は胃ガンで1年8ヶ月の闘病生活の末、数え年65歳で亡くなったが、父方の家系は遺伝子学的にガンの系統ではなかろうかと思われる。父の兄弟とその息子たちも胃ガン、肺がん、上顎ガン、腎臓ガンなど、私の弟を含めて6人もガンに侵された。
亡父は昔の古きよき時代ではなく、「遊びは男の甲斐性」が公然とまかり通った古き悪しき時代の人そのものであった。生家が裕福であったため、学生時代から放蕩を繰り返していたらしい。父の父、祖父が風呂に入っている間に、祖父の財布からお金を抜き取っては遊びに出かけるので、困った祖父は最後には風呂の中に財布を持ち込んでいたなど、数々の逸話を父方の伯父叔母からよく聞かされた。弁当を持って学校へ行く振りをして、いつもビリヤード店に入り浸っていたというだけあって、ビリヤードの腕前はたしかだった。どうも父は○○家の異端児であったらしい。母と結婚した後も、当時銀行勤めをしていたが、帰ると和服に着替えて夜遊びに出かけ、いつも午前様だったそうである。俗に言う「飲む、打つ、買う」の3拍子である。
太平洋戦争に突入して、父にも赤紙が来たが、外地に出かけることはなかった。大阪の何とか師団にいたというが、そこで何をしていたかと言うと、上級将校のマージャンの相手をさせられていたという。後になってそれを聞いた私は「お父さんみたいな人がいたから日本が負けたんだ」と言った記憶がある。第一戦では命を掛けて闘っているというに、マージャンに呆けるなどもってのほかだが、軍隊では辛酸をなめたのは下級兵士だけ、将校たちは何をやっていたかわかったものではない。
除隊した後に銀行を辞めたそうだが、それからの母は苦労の連続であった。おかげで私たち姉弟も人並みの家族生活を味わったことはない。しかし、おかしなもので「血は水よりも濃い」というように、どんな無責任な親でも親である。病を得てから後は、菊池寛の小説「父帰る」ではないけれど、夫婦は他人でも親子は親子、何十年ぶりかに親子の絆を取り戻したように思った。また、苦労した母にも亡くなる少し前に「苦労を掛けてすまなかった」と詫びたそうである。
家族を省みず、男として好きなように生きて、最期は家族に看取られて死ぬ。考えてみればこれほど幸せな人はいないのではないかと思っている。長生きして邪魔にされずによかったね、お父さん。今頃はきっと母にしっぺ返しをされているかもネ。
10時前に読経がはじまり、我々も「日蓮宗信行要旨」とかいう経本を見ながら、住職の後に続いて唱和するのであるが、修行をしている住職とは声の重みも張りも違う。第一、住職の呼吸に合わせて経を唱えるだけでも息が苦しくなってくる。それにいつも思うのだが、経本にはルビが打ってあるので読めはするが、意味は全然分からない。住職に遅れまいとただ一生懸命読むだけで、その意味も分からずでは、ありがたくも何ともない。これで供養と言えるのだろうかと、年忌どおりに営む法要の意義を考えさせられた。
亡父は胃ガンで1年8ヶ月の闘病生活の末、数え年65歳で亡くなったが、父方の家系は遺伝子学的にガンの系統ではなかろうかと思われる。父の兄弟とその息子たちも胃ガン、肺がん、上顎ガン、腎臓ガンなど、私の弟を含めて6人もガンに侵された。
亡父は昔の古きよき時代ではなく、「遊びは男の甲斐性」が公然とまかり通った古き悪しき時代の人そのものであった。生家が裕福であったため、学生時代から放蕩を繰り返していたらしい。父の父、祖父が風呂に入っている間に、祖父の財布からお金を抜き取っては遊びに出かけるので、困った祖父は最後には風呂の中に財布を持ち込んでいたなど、数々の逸話を父方の伯父叔母からよく聞かされた。弁当を持って学校へ行く振りをして、いつもビリヤード店に入り浸っていたというだけあって、ビリヤードの腕前はたしかだった。どうも父は○○家の異端児であったらしい。母と結婚した後も、当時銀行勤めをしていたが、帰ると和服に着替えて夜遊びに出かけ、いつも午前様だったそうである。俗に言う「飲む、打つ、買う」の3拍子である。
太平洋戦争に突入して、父にも赤紙が来たが、外地に出かけることはなかった。大阪の何とか師団にいたというが、そこで何をしていたかと言うと、上級将校のマージャンの相手をさせられていたという。後になってそれを聞いた私は「お父さんみたいな人がいたから日本が負けたんだ」と言った記憶がある。第一戦では命を掛けて闘っているというに、マージャンに呆けるなどもってのほかだが、軍隊では辛酸をなめたのは下級兵士だけ、将校たちは何をやっていたかわかったものではない。
除隊した後に銀行を辞めたそうだが、それからの母は苦労の連続であった。おかげで私たち姉弟も人並みの家族生活を味わったことはない。しかし、おかしなもので「血は水よりも濃い」というように、どんな無責任な親でも親である。病を得てから後は、菊池寛の小説「父帰る」ではないけれど、夫婦は他人でも親子は親子、何十年ぶりかに親子の絆を取り戻したように思った。また、苦労した母にも亡くなる少し前に「苦労を掛けてすまなかった」と詫びたそうである。
家族を省みず、男として好きなように生きて、最期は家族に看取られて死ぬ。考えてみればこれほど幸せな人はいないのではないかと思っている。長生きして邪魔にされずによかったね、お父さん。今頃はきっと母にしっぺ返しをされているかもネ。
レディーさんは苦労したでしょうね。
それにしてもそういう苦労をしたので兄弟の結束が固いのでしょう。
わが家の恥なので詳しくは書けませんが、本当に小説になるような歴史がありました。父は結婚を機に分家したのですが、親が甘やかしていたせいか、家族に対する責任感に欠けていたようです。その分母は実家の援助を受けるなど、最初から苦労したようですが、その時代にはそれがあたりまえで通ったようです。
また、父が放蕩するのは母が至らぬからだと、姑、小姑から嫌味を言われて、実家の両親が頭を下げていたとか、今だったら尻に帆かけて逃げ出していたでしょうね。
吉行和子のお母さんのあぐりさんが、岡山市で美容院を開いていました。そこへ兄の吉行淳之介が帰省すると、よく悪友のディック・ミネが東京から遊びに来ていたようです。そして、父が出入りしていたビリヤード店で顔を合わせていたらしく、父も彼らにくっついてよく遊んでいたと後年聞きました。
昔の女性はみんなそうだったようですが、母が強くなければ私たちは生きていなかったと思います。金銭的にも苦労しましたが、母方の祖父母や叔父叔母には随分助けられました。
昔の貧しかった頃を思えば、裕福ではないけど、そこそこの旅を楽しみ、食べたい物を食べられる今の生活が本当にありがたいと思います。
苦労も年を経るごとになつかしい思い出になったのは、多分今が幸せだからだろうと思います。
ただ、苦労の連続で何一ついいことなしで亡くなった母には申し訳ないと思っています。
一家の中には、色々なタイプの兄弟姉妹が現れます。少しづつ遺伝子が異なるのかも知れません。私の長兄も、変わったエピソードを残しています。私より30才ばかり年長ですが、大昔の中学生時代から、馬に乗って登校し、追われるようにして京都の東山中学に転校しました。その後も、バーの用心棒をしたり、それこそ何人かの女を騙して、軟派の生涯を終えました。
次兄は大阪の浪速商業で、全国野球大会に優勝し甲子園を賑わしました。硬派な生涯でしたが、26才でフィリピンのレイテ島で戦死しました。
残った私はカス男て゜、何の取り柄もなく、じずぐずと生きています。兄弟でも三人三様です。出来れば私の命を次兄に譲りたいくらいです。
どこのお宅でも1人くらいは毛色の変わったのがいますね。今だったらとても認められませんが、昔は「男の甲斐性」で通っていたのですから、妻はたまったものではありません。
だけど、「外良し内悪し」というか、世間ではいい人で通っていたようですから、余計に腹が立ちます。
兄上様も自由奔放に生きて、案外幸せだったのかもしれませんね。いい人ほど早死にするのは不公平だと思います。
父は長生きして私たちに邪魔にされるのがイヤなのと、最期に子ども孝行をと、早死にしたのだろうと思っています。それがせめてもの罪滅ぼしだったのかも…。