一、川西の印象
川西に着いてまず驚いたのは、家のお粗末なことであった。 内地の家が立派だったことから、特に印象があったと思うが、信部内の製軸工場の長屋(柾葺屋根)を移したのだから地元ではそう悪いとは云えない。 まだ開拓中の農家には拝み小屋に入っている人さえあった頃である。 叔母とは初対面であったが特別やさしい言葉もかけてもらえなかった。
内地の父母が云われた言葉がしみじみ感ぜられた。 実の叔母なのに誠に薄情で永い旅路を足に豆をつくって苦労してようやく辿りついたことに対する労りの言葉もなかったことが、温かい家庭に育った私にはんんとも言葉には言いあらわせない、淋しい感じがしてそぞろに故郷を思い出していた。
又食事も粗末な者で北海道の開拓者の苦労の程が偲ばれたものの、全開拓者共通ではなく、友澤家が特に節倹の家だったに違いない。
翌29日は養父に連れられて湧別市街に行った。 当時の湧別の市街は学校、役場、お寺、郵便局それに商店、漁家などが集落をなしておりその戸数は概ね百戸足らずであったと思う。 それに四号線の四辻を中心として3,40戸の集落があった。
市街では内地に差出す手紙を書かされた(養父は文盲である)
そして局から投函無事に友澤の家に着いたことを知らせた上、市街の主な建物などを廻って、帰りには三号線の田辺商店で11文の革靴を買ってもらったので念願が叶って実に嬉しかった。
当時この湧別の友達の中でもあまり持っていない外套であり靴であった。 これで内地からの約束は果たしてもらったが、家に帰っても叔母が打とけず、何かよそよそしく親しみがもてないのが、ふる里を出て北の地に来た者として何となくしっくりしない気持ちが晴れなかった。
二、高等科に入学
明治40年4月1日から入学するということで、お隣の熊本県出身の渡辺文雄さんに連れられて湧別尋常高等小学校へ行った。 そして無事入学式も終わった。(私は内地で小学校4年までは修了して来た)驚いたのは尋常高等小学校というのに教室は3教室で屋内運動場は5間×8間の40坪だけでどうして多くの生徒を収容して勉強するのかと案じた。
所がいよいよ授業がはじまったら、運動場や、真宗寺を借り受け、お寺の行事のときや、天気の良い時は、グランドの木に黒板をつるして筵を敷いて、北海道らしい勉強ぶりでまあ納得したのである。
入学当時は校長先生以下次の先生。
校長 川添 健次郎
先生 岡嶋 梅之助 後藤 徳三郎 田村 源治 今野 稀
中山 みき 島村 戒三郎
以上の7人であった。
私たちの高等1年生は、高知県出身の島村先生に1ヶ年教えられた。
明治41年4月から義務教育2ヶ年延長され1学期から屯田兵家族の一員である平野勇助先生が受持となりヶ年懇切真剣に教育された。 平野先生は書道の達人で私は字が下手であったが手をとって字体や筆法を教えて下さったので大変上達した。
信望熱く尊敬された。 今野先生は誠に中の良い間柄であったが時々お酒を呑むと気が荒くなり、良く喧嘩をして繃帯をして登校され、「今日は皆にすまないが自習をやれ」 と云われると、平素真剣に教育して下さるので、生徒一同も誰一人不満な顔をあらわさないで従順に勉強していた。
当時学制改革で小学校は4年までが2ヶ年延長して高等2年を卒業することができた。 高等1年の頃、はじめて札幌師範学校出の安岡与太先生、中野徳治の両先生が本課訓導として勤務された。
一方明治43年4月に3教室を増築され、漸くきまった教室で勉強できるようになった。
三、安らぎを勉強にもとめて
さて話しはさかのぼるが、内地から連れて来られて、湧別小学校に入学してからのことだが、夜勉強していると、遅くまでやるので石油を約3升位(3.4リットル)消費したと思うが時に養母に火を消された。 「お前が来ない打ちはヶ年に石油四合瓶1本(700ミリリットル)で充分であったのに僅か半年足らずの中に、3升も炊いた」 といってやかましく云われるので勉強も満足にできない有様で私も考えたすえ、床の中では火が危ないから、仮に火箸を焼いて穴を4ヶ所あけ、柳の細木をさして紙をなり、昔の「アンドン」 をつくり上から着物をかけて火の明かりが漏れないようにして、床の中に入って勉強したが、時々見つかって火を消されるのである。 これでは勉強できないということで、お隣の渡辺三次郎さんに頼み込んで毎晩行って勉強させていただいた。
幸い明治41年12月川西特別教授所(小学校3年迄)が設置され、初代の後藤徳三郎先生に事情を話し頼んだら心良く承知して下さったので、どんなにひどい吹雪や風雪の晩でも欠かさず通って勉強することができた。
又湧別小学校へは身体に故障のない限りは1日も休まず通学した。 4年間で吹雪のためとても家に帰ることができないので泊めてもらったのは4回あったが、四号線の中川商店や道教生の中山君であった。
ただ首席で通してきた勉強も、養父等18名が道議選挙違反で公判のため根室裁判所に呼び出されて行ったため、学校を1ヶ月休み、そのために女生徒に首席をゆづらざるを得なかったことは、かえすがえすも残念だった。 選挙の話しはあとにゆづるとして、暖か味のない家庭でのさびしさ、切なさ、情けなさ、と事々味わっていた私には勉強に逃避することが何よりの安らぎであり、救いであり楽しかったのである。
養母は、内地の父母が云ったとおり、誠に厳格そのもので、何事につけてもやかましかった。 学校に行く前には必ず一仕事しなければ、学校に行かせないと云われ、時間ギリギリまで使われた。
天気のよい日は草鞋ばき、雨のときは下駄ばき、冬はつまご、である。 そうして4年間の勉学が実を結んで、明治44年3月21日、高等科を卒業することができたのである。
四、選挙違反事件
北海道の北の果遠軽を開拓して、キリスト教の教義を生かした私立大学を設立しようとする一団が明治30年頃資金造成の一端として、1千町歩の原野を拓き将来は3千町歩を開拓使学校基本財産をつくり30年後にこの地に大学校を建設しようという偉大な計画で、その中心を学田と名づけた。 この主唱者は東北学院創設者の押川方義であり、実践者として学院出身で押川の信任が厚かった。 信太寿之が現地に派遣された。 信太は遠軽開拓にも大きな実績を上げた功労者であったが、一方湧別村信部内に原野1.500町歩の貸付けを受けて45戸の小作開拓者を入植させ、自らも牧場を経営していた。
後年緑蔭地区に多額の私財を投じ5万円の補助金を得て、水田耕作のために貯水池に大投資を行うなど地域の発展に献身的な努力を重ね、住民から深い尊敬を集めていた人物であった。
道議会議員に4回立候補し4回目に当選した人であったが、この時は第1回目であったと思う。 明治44年8月の或る日、区長、渡辺三次郎宅に集まり、川西に馬頭観世音の碑を建てる協議会が催され信太さんから碑にする角材を寄贈してもらうことに一決交渉者は小川清一郎と出口助次郎の両名に決めた。
そこえ、信太の帳場長である相馬積太が来訪、 「信太先生が同義に候補として出馬するからよろしく頼む」 と依頼され、供応を受けたのを何某に密告された。 当日道議候補としては渚滑から岩田宗晴、雄武から田口源太郎と3名が出馬していて、それぞれ川西内にも運動員がいたのである。 当日馬頭観世音、建立の話に集まった人は、
小谷幸九郎 江沢良馬 小西春治 三宮助次 宮田亀之助 友澤乙吉
宮田 崇 本宮徳太郎 渡辺三次郎 滝本房吉 浅い代次郎 岩佐良馬
小玉久助 小川清一郎 出口助次郎 作藤善食(市議) 菅原末吉(市議)
相馬精太(市議) 以上8名がその場に居合わせたのである。
最初から信太寿之を道会議員に当選させたら湧別原野は相当開発の度合いが変わっていたと思う。 その後16年の後、四号線の谷虎五郎が道議に出馬したわけだが、信太は最後に当選し、これから地域のために働いていただくべきとき、一期の中途で病を得て亡くなるという悲運があったのである。 信太は太っ腹の人格者で信部内の関係等前記のとおりだが、再三にわたる選挙戦のため、莫大な費用がかかり、遠軽の土地をはじめ、全地を失い、財産全て使い果たしてしまったといわれている。
さてその選挙供応の件で前記18名の者が罰金30円という判決があり、これを不服として、異議を申立て、控訴したので、根室地方裁判所まで陸路徒歩で出かけたのが9月上旬であった。
養父も18名の中の一人で、根村まで皆と行動を共にしたので私と養母とが留守を守って営農に励んだがその年、夏季の収穫時期に毎日のように雨が降りつづき、当時農作物といえば主に裸麦、菜種で裸麦は青くなるほど芽生するし、菜種は全然収穫できずダメになり、1町歩火をつけて焼き払ったという誠にいやな思い出が残っているのである。
五、青年活動に打ちこむ
小学校(高等科)を卒業した明治44年7月に川西教授所が川西分校場に昇格し初代の校長が島村戒三郎であった。 4月に友人西沢鶴尾と2人で川西校の校庭に卒業記念として楓を植樹したが、西沢が1本、私が2本植えた(現在校門の南に大木となって残っている)
校長が住む住宅がないので、校長は1年間5号線の自家から通勤された。 川西に青年会が発足したのは、明治35年といわれているが、それを遡ること3年(明治32年頃)位前から四号線の青年会があり、川西からこの買いに参加した者も5,6名いたといわれている。
明治35年には、横山玉四郎・宮本光馬・出口助次郎・小川清一郎。 西沢健一等10余名が集まって川西青年団が結成されたことは、小川清一郎の「開拓の記録」にもくわしく書かれている。
そこで明治44年当時の青年団の団長は小川清一郎・次に出口助次郎・伊藤代助等の先輩達であり、私は最初から会計を担当していた。 当時青年会員18名で基本金造成のため色々仕事をやったものだ。
湧別川の築堤工事等もよくやった。 そして校長住宅建築の案が出て、三号線の森マッチ製軸工場が廃止になったので、その古家を買い役場から補助金をもらい、青年会で蓄積した金も出し、大工も頼まず、宮本正則・小川清一郎の両名が素人ながら大工をやり、皆で労力奉仕をして校長住宅を建てた。 完成したので島村先生家族一同川西に引っ越された。
それから以降、小川市十・宮田関治・西沢田鶴雄・小松孝寿・小松真見・宮本正則・岩佐徳孝・川合清澄・それに私と10名が漢文(十八史略・作文・国語・歴史・地理・社会学等)を教えられ、毎晩5年間教えていただいたのである。
大正元年から剣道を学ぶべく、みんなで防具を購入する金を共同事業をやったり、不足金を出し合って4組買い、5中隊3区の三好先生を頼み、学校に於いて出口助次郎・小川清一郎・伊藤代助・小松孝寿・小杉真見、小川浅十・岳上徳市・吉田金之助・それに私穂か命が2年間習ったがその後、四号線の石川林作・市川実蔵両先生に3年間指導を受けた。
そして9月湧別神社祭典祭に毎年出場したが当時有段者も多く、四号線では飯豊健吾・石川耕作・西一線の浜口聖教、三号線に笠巻(本間彙の叔父)湧別市街には大東流柔術の武田忽岳という大先生も居られて時折敬子をつけてもらい軍隊に入るまで、文武両道を学んだのである。
川西に着いてまず驚いたのは、家のお粗末なことであった。 内地の家が立派だったことから、特に印象があったと思うが、信部内の製軸工場の長屋(柾葺屋根)を移したのだから地元ではそう悪いとは云えない。 まだ開拓中の農家には拝み小屋に入っている人さえあった頃である。 叔母とは初対面であったが特別やさしい言葉もかけてもらえなかった。
内地の父母が云われた言葉がしみじみ感ぜられた。 実の叔母なのに誠に薄情で永い旅路を足に豆をつくって苦労してようやく辿りついたことに対する労りの言葉もなかったことが、温かい家庭に育った私にはんんとも言葉には言いあらわせない、淋しい感じがしてそぞろに故郷を思い出していた。
又食事も粗末な者で北海道の開拓者の苦労の程が偲ばれたものの、全開拓者共通ではなく、友澤家が特に節倹の家だったに違いない。
翌29日は養父に連れられて湧別市街に行った。 当時の湧別の市街は学校、役場、お寺、郵便局それに商店、漁家などが集落をなしておりその戸数は概ね百戸足らずであったと思う。 それに四号線の四辻を中心として3,40戸の集落があった。
市街では内地に差出す手紙を書かされた(養父は文盲である)
そして局から投函無事に友澤の家に着いたことを知らせた上、市街の主な建物などを廻って、帰りには三号線の田辺商店で11文の革靴を買ってもらったので念願が叶って実に嬉しかった。
当時この湧別の友達の中でもあまり持っていない外套であり靴であった。 これで内地からの約束は果たしてもらったが、家に帰っても叔母が打とけず、何かよそよそしく親しみがもてないのが、ふる里を出て北の地に来た者として何となくしっくりしない気持ちが晴れなかった。
二、高等科に入学
明治40年4月1日から入学するということで、お隣の熊本県出身の渡辺文雄さんに連れられて湧別尋常高等小学校へ行った。 そして無事入学式も終わった。(私は内地で小学校4年までは修了して来た)驚いたのは尋常高等小学校というのに教室は3教室で屋内運動場は5間×8間の40坪だけでどうして多くの生徒を収容して勉強するのかと案じた。
所がいよいよ授業がはじまったら、運動場や、真宗寺を借り受け、お寺の行事のときや、天気の良い時は、グランドの木に黒板をつるして筵を敷いて、北海道らしい勉強ぶりでまあ納得したのである。
入学当時は校長先生以下次の先生。
校長 川添 健次郎
先生 岡嶋 梅之助 後藤 徳三郎 田村 源治 今野 稀
中山 みき 島村 戒三郎
以上の7人であった。
私たちの高等1年生は、高知県出身の島村先生に1ヶ年教えられた。
明治41年4月から義務教育2ヶ年延長され1学期から屯田兵家族の一員である平野勇助先生が受持となりヶ年懇切真剣に教育された。 平野先生は書道の達人で私は字が下手であったが手をとって字体や筆法を教えて下さったので大変上達した。
信望熱く尊敬された。 今野先生は誠に中の良い間柄であったが時々お酒を呑むと気が荒くなり、良く喧嘩をして繃帯をして登校され、「今日は皆にすまないが自習をやれ」 と云われると、平素真剣に教育して下さるので、生徒一同も誰一人不満な顔をあらわさないで従順に勉強していた。
当時学制改革で小学校は4年までが2ヶ年延長して高等2年を卒業することができた。 高等1年の頃、はじめて札幌師範学校出の安岡与太先生、中野徳治の両先生が本課訓導として勤務された。
一方明治43年4月に3教室を増築され、漸くきまった教室で勉強できるようになった。
三、安らぎを勉強にもとめて
さて話しはさかのぼるが、内地から連れて来られて、湧別小学校に入学してからのことだが、夜勉強していると、遅くまでやるので石油を約3升位(3.4リットル)消費したと思うが時に養母に火を消された。 「お前が来ない打ちはヶ年に石油四合瓶1本(700ミリリットル)で充分であったのに僅か半年足らずの中に、3升も炊いた」 といってやかましく云われるので勉強も満足にできない有様で私も考えたすえ、床の中では火が危ないから、仮に火箸を焼いて穴を4ヶ所あけ、柳の細木をさして紙をなり、昔の「アンドン」 をつくり上から着物をかけて火の明かりが漏れないようにして、床の中に入って勉強したが、時々見つかって火を消されるのである。 これでは勉強できないということで、お隣の渡辺三次郎さんに頼み込んで毎晩行って勉強させていただいた。
幸い明治41年12月川西特別教授所(小学校3年迄)が設置され、初代の後藤徳三郎先生に事情を話し頼んだら心良く承知して下さったので、どんなにひどい吹雪や風雪の晩でも欠かさず通って勉強することができた。
又湧別小学校へは身体に故障のない限りは1日も休まず通学した。 4年間で吹雪のためとても家に帰ることができないので泊めてもらったのは4回あったが、四号線の中川商店や道教生の中山君であった。
ただ首席で通してきた勉強も、養父等18名が道議選挙違反で公判のため根室裁判所に呼び出されて行ったため、学校を1ヶ月休み、そのために女生徒に首席をゆづらざるを得なかったことは、かえすがえすも残念だった。 選挙の話しはあとにゆづるとして、暖か味のない家庭でのさびしさ、切なさ、情けなさ、と事々味わっていた私には勉強に逃避することが何よりの安らぎであり、救いであり楽しかったのである。
養母は、内地の父母が云ったとおり、誠に厳格そのもので、何事につけてもやかましかった。 学校に行く前には必ず一仕事しなければ、学校に行かせないと云われ、時間ギリギリまで使われた。
天気のよい日は草鞋ばき、雨のときは下駄ばき、冬はつまご、である。 そうして4年間の勉学が実を結んで、明治44年3月21日、高等科を卒業することができたのである。
四、選挙違反事件
北海道の北の果遠軽を開拓して、キリスト教の教義を生かした私立大学を設立しようとする一団が明治30年頃資金造成の一端として、1千町歩の原野を拓き将来は3千町歩を開拓使学校基本財産をつくり30年後にこの地に大学校を建設しようという偉大な計画で、その中心を学田と名づけた。 この主唱者は東北学院創設者の押川方義であり、実践者として学院出身で押川の信任が厚かった。 信太寿之が現地に派遣された。 信太は遠軽開拓にも大きな実績を上げた功労者であったが、一方湧別村信部内に原野1.500町歩の貸付けを受けて45戸の小作開拓者を入植させ、自らも牧場を経営していた。
後年緑蔭地区に多額の私財を投じ5万円の補助金を得て、水田耕作のために貯水池に大投資を行うなど地域の発展に献身的な努力を重ね、住民から深い尊敬を集めていた人物であった。
道議会議員に4回立候補し4回目に当選した人であったが、この時は第1回目であったと思う。 明治44年8月の或る日、区長、渡辺三次郎宅に集まり、川西に馬頭観世音の碑を建てる協議会が催され信太さんから碑にする角材を寄贈してもらうことに一決交渉者は小川清一郎と出口助次郎の両名に決めた。
そこえ、信太の帳場長である相馬積太が来訪、 「信太先生が同義に候補として出馬するからよろしく頼む」 と依頼され、供応を受けたのを何某に密告された。 当日道議候補としては渚滑から岩田宗晴、雄武から田口源太郎と3名が出馬していて、それぞれ川西内にも運動員がいたのである。 当日馬頭観世音、建立の話に集まった人は、
小谷幸九郎 江沢良馬 小西春治 三宮助次 宮田亀之助 友澤乙吉
宮田 崇 本宮徳太郎 渡辺三次郎 滝本房吉 浅い代次郎 岩佐良馬
小玉久助 小川清一郎 出口助次郎 作藤善食(市議) 菅原末吉(市議)
相馬精太(市議) 以上8名がその場に居合わせたのである。
最初から信太寿之を道会議員に当選させたら湧別原野は相当開発の度合いが変わっていたと思う。 その後16年の後、四号線の谷虎五郎が道議に出馬したわけだが、信太は最後に当選し、これから地域のために働いていただくべきとき、一期の中途で病を得て亡くなるという悲運があったのである。 信太は太っ腹の人格者で信部内の関係等前記のとおりだが、再三にわたる選挙戦のため、莫大な費用がかかり、遠軽の土地をはじめ、全地を失い、財産全て使い果たしてしまったといわれている。
さてその選挙供応の件で前記18名の者が罰金30円という判決があり、これを不服として、異議を申立て、控訴したので、根室地方裁判所まで陸路徒歩で出かけたのが9月上旬であった。
養父も18名の中の一人で、根村まで皆と行動を共にしたので私と養母とが留守を守って営農に励んだがその年、夏季の収穫時期に毎日のように雨が降りつづき、当時農作物といえば主に裸麦、菜種で裸麦は青くなるほど芽生するし、菜種は全然収穫できずダメになり、1町歩火をつけて焼き払ったという誠にいやな思い出が残っているのである。
五、青年活動に打ちこむ
小学校(高等科)を卒業した明治44年7月に川西教授所が川西分校場に昇格し初代の校長が島村戒三郎であった。 4月に友人西沢鶴尾と2人で川西校の校庭に卒業記念として楓を植樹したが、西沢が1本、私が2本植えた(現在校門の南に大木となって残っている)
校長が住む住宅がないので、校長は1年間5号線の自家から通勤された。 川西に青年会が発足したのは、明治35年といわれているが、それを遡ること3年(明治32年頃)位前から四号線の青年会があり、川西からこの買いに参加した者も5,6名いたといわれている。
明治35年には、横山玉四郎・宮本光馬・出口助次郎・小川清一郎。 西沢健一等10余名が集まって川西青年団が結成されたことは、小川清一郎の「開拓の記録」にもくわしく書かれている。
そこで明治44年当時の青年団の団長は小川清一郎・次に出口助次郎・伊藤代助等の先輩達であり、私は最初から会計を担当していた。 当時青年会員18名で基本金造成のため色々仕事をやったものだ。
湧別川の築堤工事等もよくやった。 そして校長住宅建築の案が出て、三号線の森マッチ製軸工場が廃止になったので、その古家を買い役場から補助金をもらい、青年会で蓄積した金も出し、大工も頼まず、宮本正則・小川清一郎の両名が素人ながら大工をやり、皆で労力奉仕をして校長住宅を建てた。 完成したので島村先生家族一同川西に引っ越された。
それから以降、小川市十・宮田関治・西沢田鶴雄・小松孝寿・小松真見・宮本正則・岩佐徳孝・川合清澄・それに私と10名が漢文(十八史略・作文・国語・歴史・地理・社会学等)を教えられ、毎晩5年間教えていただいたのである。
大正元年から剣道を学ぶべく、みんなで防具を購入する金を共同事業をやったり、不足金を出し合って4組買い、5中隊3区の三好先生を頼み、学校に於いて出口助次郎・小川清一郎・伊藤代助・小松孝寿・小杉真見、小川浅十・岳上徳市・吉田金之助・それに私穂か命が2年間習ったがその後、四号線の石川林作・市川実蔵両先生に3年間指導を受けた。
そして9月湧別神社祭典祭に毎年出場したが当時有段者も多く、四号線では飯豊健吾・石川耕作・西一線の浜口聖教、三号線に笠巻(本間彙の叔父)湧別市街には大東流柔術の武田忽岳という大先生も居られて時折敬子をつけてもらい軍隊に入るまで、文武両道を学んだのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます