山口県周防大島物語

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友澤喜作手記 5

2022年07月24日 12時34分21秒 | 北海道入植の外入・友澤手記
一、希望して軍隊へ

 青年会でいろいろ勉強させていただいたのも、先輩に恵まれ特に気の合った共と楽しく過ごして来れたからで、青年会の若者達が結束して、川西の風土を培って来たといってもよかろう。
 徴兵検査が近くなった。 養子の著しい成長の姿を見ても、養母は相変わらず、私には馴染めなかった。 小遣いもあまりくれず、お願いすると、必ず、ぶつぶつ文句を云ってしぶしぶ出してくれた。 一寸したことに対しても 「役立たずのお前が来て以来、経費がかかる」 と口癖のようにやかましく云われるのには、私もつくづく、いや気がさしていたのである。 そこで在郷軍人分会の飯豊分会長に、実情を話して、徴兵検査の結果は 「現役入隊」の扱いを受けるように、私の独断でお願いしておいた。
 徴兵検査の当時は、釧路連隊区司令官は、大島良三郎大佐、合格は当日発表になった。 司令官の前で 「友澤喜作、甲種合格」 と発表された時は嬉しくて転にも上る気持ちで躍り上がって喜んだ。
 時は大将年、欧州大戦の最中で軍隊の増強はしていたとはいいながら、長男などはなるべく現役入隊 「くじ逃れ」という形で、銃後の生産に配慮していたことはその後の大東亜戦争でも同様であった。
 特に養子である。 養親にとって見れば、ただ一人が頼みの綱であるのに何故私を温かい安住のわが家として愛育してくれなかったのだろうか、いくら考えても養親の気持ちを推し測りかねた私がとることができた、最後の反抗ではなかったか? そんな心の痛手を負いながら、更に苦しいと云われる兵営生活を敢えて選ばざるを得なかったという人の世の矛盾と非情に対して、幾度涙を流したことであったろう。
 思えば養子として川西に来て10年になるが、養母は結婚以来奔放な主人乙吉に仕え、破産して北海道に流れ、開拓地に入っては、1ヶ年近くの別居等、人の情けに頼ることなく、男同様に働き続けて来た、女性を見るときに、性格に更に諮り知れない強さと今生が身に染みついてしまったのかも知れない。 平静になって考えれば、それにしても、文武両道も、文句を云い乍らも、幾年も習わしてくれたのも、養親なのだ。

二、入  隊

 その後、予習教育を湧別市街の竹野軍医中尉に受け、大正5年11月30日、役場の市山実蔵さんに引率され、養父母に別れを告げて、旭川歩兵第二八連隊第九中隊に入隊したのである。
 第一期の検閲も終わり、南満州守備の任が下命された。 その準備を整え、4月26日 「みよしの丸」(3.900屯)の軍用船に乗船し小樽を出航旅順港に向かった。
 当時九中隊が軍旗護衛中隊で船中の歩哨勤務に当り、歩哨係長は村上上等兵、歩哨は清水清一、菊地幸一と私の3名が任命された。
 この3名が交互に歩哨に達、1時間交替で勤務していたが、越後の親不知の沖に差しかかった頃に大時化となり、波浪高く甲板の上に海水が打ち上げ、只立っていることが、不能な状態であった。 遂に菊地は、船に酔い歩哨に立つことが出来なくなり、清水と私の2人で勤めた。
 余り時化がひどいので、連隊長の福田栄太郎殿が心配されて、鳥取県、隠岐の島の西郷港に入港待避するよう命令された。
 実によい港で折りから桜花満開で目のさめるほど美しかった。
一同甲板に上がり大喜びしたが又もや玄界灘に入ると大荒れとなり、又船酔いが続出して随分ひどい目にあった。
 船はスピードを出し、黄海にはいると波は静かになり、海水は黄色を帯びて来たのも大陸の影響かと思う。
イルカの群れが船と競い合って進むのも誠に壮観という外なし。
 大正6年5月1日正午過ぎに旅順港に入港した。 子供の時私の兄は日清戦争、33年に北清事変、更には日露戦争と3回出征したと聞かされていた。 そして奉天会戦に頭部を負傷して金鵄勲章を下賜されていた。
 旅順港閉鎖に広瀬中佐が名誉の戦死をされ、難攻不落と称されただけあって実に要害の港であることが地形上納得した。

三、満州安着

 満州に上陸した隊伍を整え進軍ラッパに整然と旧市街を通り旧露軍兵舎に各中隊毎に入る。 第一大隊、第二大隊の12個中隊が各々割当てられた兵舎に入った。 旭川では12班であったが、旅順は兵舎の構造も違うので4ヶ班編成である。
 私は第4班であった。 各支給品を片付け整頓を終え、一同安着を見て心から安心した。 それから班長の案内で連隊内の建物将校官舎、酒保、医務室、炊事場等を見て廻った。
 夕食を済まし消燈ラッパの鳴るまで、北海道旭川の留守部隊に残留している友人、北海道の養父母、内地山口県の父母、兄姉にも安着の手紙を書いた。 消燈ラッパが鳴ったので床に就き旅順の第一夜の夢を見た。

四、日露戦争古戦場めぐり

 旅順についてはまず見る処は日露戦争の戦跡である。 戦争地として知られることは、戦い終わってまだ10年足りない年月しか経っていない。 いまだに生々しい感じが抜けきらない土地である。
 まず中隊長に引率されての戦跡見学は、白玉山に建てられた、表忠塔である。 ここでは長崎県出身者で伊藤由松という、58才の案内人の説明を聞いたが、高さ11尺(約36メートル)この塔の御影石は山口県岩国(私の生家の隣町)から持って来て建立したとのこと、円柱形で廻り階段になっており、下から100尺の所に展望台、形は大砲の弾丸を型どり1ヶ中隊修養できる設備で展望すれば旅順一帯一望でき、望遠鏡も設備してあり、すばらしい展望はいつまでも、瞼に残った。
 次は東鶴冠山に行く、旅順戦跡の中でここも激戦地で有名なところ、小高い丘のある場所、程度しか見られないこの場所が、世界的な築城家といわれたコンドラテンコ少将が指揮してつくっただけに、内部の砲塁は驚くべき堅牢なものである。 この丘の地中に暑さ2米に及ぶコンクリート壁を設けた洞窟ともいうべき要塞が建造されており、平坦な全面から何度攻撃してもビクともしなかった。 遂に工兵隊が地中穴を掘って進んだ所、地中のコンクリート壁につきあたり、これを爆破してようやく中に突入した。 中での幾日かの激戦の末ようやく占領したが湾曲したこの保塁内の戦いがいかに激しいものであったか?それは、コンクリート壁に残る無数の銃弾のあとを見れば明白である。
 さて最後の戦跡は203高地である。
203メートルという低い山だが、この頂上からは旅順港が一望できる要地であった。 したがって旅順を攻め落とすには203高地の頂上で観測した位置を後方高崎山にある砲兵陣地に知らせることによって、港内の多くのロシア艦船を撃沈することが容易なのである。 そのために203高地はいくら犠牲を払っても日本軍は占領したい所、又ロシア軍は占領されては困るという。 血みどろの攻防が繰り広げられたのである。
 はげしい戦闘のあとを物語るように、1本の木も生えていなかった。 焼きつくされたのである。 それに何の、しゃへい物もないこの山の頂上を目がけて、突撃して来る日本兵を、頂上から二重、三重に構築された塹壕から当時の新兵器「機関銃」(日本にはまだなかった)で撃ちまくるのだから、流石の日本軍も、攻撃をくり返すたびに大きな犠牲を払ったのである。
 司令官乃木希典の下には北海道七師団も投入された。 203高知の中段には乃木将軍の子息が戦死した場所に墓碑が建てられてあった。
 明治38年1月、203高地を占領、旅順港の敵艦は撃沈されたり、港外に逃げ出して支離滅裂! 陸海軍ともに大勝利をおさめて、日本は大国ロシアを破って戦争が終わった。

五、軍務と川西への思い

 こうして、これからの勤務地の、概要を見学し、先輩達の尊い御霊が鎮まりますよう旅順での訓練と勤務がはじまるのである。
 5月から本格的に、勤務割当、演習も毎日計画に基づいて、実施の段階に入った。
 気候は、南満州の一ばん南にある場所だけに、北海道よりもはるかに、暖かい。 私達の任務は戦争の終わった満州地域での治安の維持・また日本の各種権益を守るための任務で、一方きびしい演習に耐えながら、比較的平和な中での、然も割合気楽な任務といえるのである。
 その点北海道の開拓に汗を流す農家の姿を思うとき、まだまだ、軍人の生活は楽しいものがあった。 苦しみも、喜びも、悲しみも皆一体となって受けとめる同僚がいることが、何よりも団結の基であった。
 そんなことを考えると、遠く北海道そして湧別を思い出すのだ。 お世話になった先生方のこと、共に励んだ夜学の思い出、剣道の修練等常に思い出されたが、養父母のことは心から恋しいと思う感じにはなれなかった。 普通であれば希望して軍人になる必然性もなく、じっくり営農を手伝う身が、今満州まで来ていることの不自然さは何時も考えさせられた事である。 いくら若い時代から開拓に夢中で働きつづけて来た養父母ももう50歳を越えた年である。 若い者をあてにしたい年頃なのに何故、私に心許した会話さえ持てないのだろうか。
 私がこうして軍隊に来ている2,3年で今度は身にしみて家族の愛情というものに目ざめてくれるかも知れない。
 私はそんなことを時に漠然と思い養父母に対して申し訳ないような気持ちは絶えず持ちつづけていた。

六、シベリア出兵で異国の地へ

 南満州での訓練と、日常の守備勤務も1年8ヶ月の間をふり返って見れば、楽しくもあり、なつかしくもあった。 しかも過ぎし日、日露の戦役で悪戦苦闘を重ねて、の本郡を勝利に導かれた先輩達の骨を埋めた土地であったので、特にその感を深くしていた。
 大正7年5月19日、現役兵としてもう2年になり満期除隊の日も近いと思いながら勤務していたら、この日夜中隊長が全員を集合させ、「シベリア出兵のため、わが中隊が3日の間に出発するから、絶対秘密を守るよう」 と通達され、にわかに緊張した。

「シベリア出兵解説」
 大正6(1917)年11月ロシアで社会主義革命が成功すると、日本・アメリカ・イギリス・ふらんすなどの帝国主義諸国は、この革命に対する干渉をくわだて、協議を重ねた。 翌年7月に至って、チェコ軍救出を名目として総兵2万4千8百人(うち日本軍1万2千人)の出兵が決定された。 の本は大正7年8月から3ヶ月間にさきの国際協定の人員を遙かに超える7万3千人の兵をシベリアにおくり、バイカル湖以東を占領した。
 日本の意図は革命を圧殺してシベリアを占領し反革命政府を援助してこれを日本の勢力下におくことにあった。 しかし、連合軍が支援した反革命軍が敗北すると、アメリカをはじめとする他の諸国は大正9年1月に撤兵を声明し、日本だけが、治安維持、居留民保護などの名目を掲げて駐留を続けた。 これに対し革命軍が反撃し、列強も(米英拂等)日本の領土的野心を疑うようになり、これ以上駐留を続けることができなくなって、大正11年10月ついにシベリアから撤兵した。 又樺太からも撤兵した。 その間「尼港事件」などがありシベリア出兵に対して日本は戦費10億円・戦死者3000人、凍死者多数というむなしい犠牲を払ったといわれ、占領と勝利の企図もうちくだかれて、日本帝国があhじめて手痛い敗北をなめた結果となった。

 3日間の中に留守隊の朝日から26連隊に還送物をまとめたり、これから出発する地へ輸送する兵器その他の軍用品を取りまとめ、21日夜中に旅順を後に出発した。
 22日長春到着、南満州鉄道と東支鉄道の分岐の町であり輸送荷物の積みかえのため2日間滞在し寛城子から東支鉄道で貨車にのって広漠たる草原を2日間走り、ハルピンを過ぎ興安嶺の長いトンネルを通過して7月26日、守備地のハイラルに到着、中隊長命令で停車場及び貨車の守備をせよと命令されたので、命令通りの兵を指揮して任務についた。
 未知の所故、ロシア人に言葉をかけられても全然通じないので不便であった。 真夜中に歩哨が発砲して合図したので、護衛兵2名連れて歩哨の方向に行ったら、大男のロシア兵が防寒具を身にまとい、騎銃を持って立っている。 身の丈、6尺余り何者かと思ったが言葉が通じないので、手真似してようやく判断がついた。
 この兵隊は停車場監視の雇兵だということが分かった。 好意的に我々日本兵に握手を求めて近寄って来たので、言葉が分からず、思わず後退したが、表情でようやく意味が判明し固く握手をした。
 それから停車場へ行きいろいろと物品の名を聞き鉄砲のことは「イントフカー」 煙草のことは「パピロス」 その他いろいろ品物の名を聞き双方共ようやく安心した。 ロシア兵は「ヤポンスキーサルダート(日本の兵隊)が来てくれて私達も本当に安心した。」 と云い一昼夜の勤務も何等の事故なく終えることができた。
 貨車生活を半月余り経て兵舎がきまったのでそれからは楽々と起居できるようになった。 中隊長から炊事班長をやれと云われたが、炊事にいると各地を転戦できないので断ったら炊事勤務は転戦しなくても、論功行賞の勲章は甲だから、お前は経験者だしやれと云われ約7ヶ月間勤務に服した。
 大正8年2月から、大体本部付きとなり、ドイツ兵捕虜480名収容したので、監視にあたり、軍の連絡のため満州里、ツタ、ハルピン等各地に出張した。
 そして各国の軍隊とも接する機会が多く、余り危険なこともなく、無事守備の任務を終わり、大正8年4月22日、後続の仙台師団に引継を終了、交代して、貨物列車に乗車、ウラジオストク港に到着、蚤退治で襦袢、袴下をロシアのスープ釜で煮て清潔な身体になって、ウラジオで2泊した4月22日の夜半、内地の実父が耳元で 「喜作」「喜作」と呼んでいる夢を見て気になった。

七、故国への帰還

 大正8年4月27日、午前6時ウラジオから軍用船に乗船海路日本海を北海道めがけて航海して29日函館に入港、3年余ヶ月ぶりに故国の土をふんで感無量であった。
 函館に2泊の民泊は5名で北の誉酒造店に泊まり旭川行きの列車にのり8月2日懐かしの旭川の兵舎に落ちついた。
 留守隊に残った同年兵ともそこで15日間起居を共にした。 それまで支給されていた兵器の手入れ、支給品の洗濯、掃除をして返納を終り、暇なときは、入営以来のめまぐるしい生活を思い出して語り合い、帰郷の準備に外出して買物したり、内地兵や管外の友人や中隊長及び中隊付将校とお別れの宴を催したり忙しい。 或る日中隊長に山形出身の同年兵小林昌次君と私を事務室に呼ばれ 「今回、成績最も優秀な現役兵を下士官に任ずることになり、連隊で6名任官することになった。うち中隊では小林と友澤の2名を決定したので誠に名誉なことだ」 と中隊長から喜びとお祝いの言葉を賜り恐縮した。
 いよいよ満期除隊する当日、初年兵、2年兵全員集合し、中隊長以下将校、下士官、全員整列して、盛大な除隊式を挙行せられ、いちどうお別れしてなつかしい兵舎をあとに、旭川市四条の秋田屋旅館に1泊、内地除隊兵等管外の者と別れの宴を催し、8月17日涙と共に戦友と別れた。


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