山口県周防大島物語

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友澤喜作手記 3

2022年07月24日 12時31分46秒 | 北海道入植の外入・友澤手記
一、叔父の帰郷

 明治41年の2月、友沢乙吉(養父)が山口県の故郷を出てから、14年ぶりに迫田市十の家を訪れた。
 さすがに寒い北海道から来ただけに、その服装を見ても内地の人が目を見はるような姿であった。
 赤毛布のモヂリ外套をタスキにかけて、足には藁沓をはき、帰郷した姿を見て、両親や兄姉等も夢のような感じで迎えたのである。
 末子の渡しは、まだ一面識もなかったが、約1ヶ月の滞在中、北海道の実状を面白可笑しく、事細かに、父母や兄姉に話されるのを聞いて、何とはなしに北海道へのあこがれを感ずるようになっていた。
 叔父は北海道であらゆる辛抱をしてこしらえた財産を、他人にやるのはいやだから迫田家から、友澤家を相続する子供を一つ貰いたいとの交渉がはじまった。
 両親も兄姉達の遠い北海道に養子にやる子供は一人も居ないと断固承知する様子は見受けられない。
 母が申すには 「お前は知らないが、あれのつれあいは私の妹で、余りやかましい事ばかり云うので、弟は2人共他に出て行き、遂に他家で亡くなったいきさつがあるので、行ったらひどい目にあわされるから絶対行くでない」 と陰に廻ってこんこんと言われた。
 叔父も皆に交渉しても見込みがたたなかったものの、あきらめきれず父母、兄姉等が不在になると、私に北海道に連れてゆくべく色々を手なづけていたのである。
 お酒がすきで 「酒を買ってきてくれ」 と1円出し(当時1升が56銭)その釣銭を皆くれたり、魚を買って来いと言ってお金を出し又釣銭をみなくれて、1ヶ月余り滞在している中に貰ったお金は、12円60銭も貯金ができたのである。 私は小父さんは何程沢山のお金をもっているのかと思ったものだ。
 「お前が北海道へ行くなら、何でも買ってやる」といわれ、無邪気にも北海道の実情は知らないが、叔父の云うことを信じ「第一にお金」「第二に金ボタンのついている外套、及び革靴を買ってくれるか」と言ったら「買ってやる。その他お前の希望するものを何でも買って上げる」と言われて、幼い私もその事にすっかりほれて、前後も考えずに両親の止めるのも聞かず渡道することを決意した。
 両親・兄姉の驚きの顔が、今でも瞼に浮かんで来るが、若いとはいえ男だ、一度返事をしたものを、翻す気にもならず、最後には両親、兄姉共にしぶしぶ承諾、賛成してくれたので、子供心に安心した。

二、ふるさとを後にして

 私が養子を承諾下ので、まだ12才の子供のこと何時心変わりするか分からない、早々に出立しなければということで、直ちに身の廻りの品を揃え支度をして貰い学用品も兄が「北海道には近くに店もないだろう」と云って半紙百帖を買って荷造りをしてくれる。
 出発の用意もでき、日取りも決定したから親類及び友人宅へお別れの挨拶を済ませ、別れの水盃を両親、兄姉等とのみ交わした時はなんとなく心寂しい気持ちに打たれ、熱いものがこみ上げて来るのであった。
 いよいよ3月10日午前9時入港の汽船に乗って無邪気にも両手を挙げ「万歳」を唱えた。 波打ち際で見送りが沢山いたが、眺めてみると両親が顔を手拭いで覆って居る姿を遠く見ていたら思わず涙がポロリと流れた。
 あとは養父のそばで色々途中の話を聞かされ間もなく愛媛県三津ヶ浜に停泊、直ちに上陸し松山に住んでいた、母の3番目の妹サク叔母宅に泊り、道後温泉に入浴し、一夜を明かした。
 叔母とお別れして午後3時再び乗船して、瀬戸内海を四国香川県多度津港に停泊して伊勢屋旅館に宿泊し2夜の夢を結ぶ。 朝食を済まして金比羅神社に参拝するので宿を出た。 鳥居口を越えたら鹿の群れを見て、飼料1皿2銭で買い与えたところ喜んでたべるので可愛かった。
 石段を登り、両側に土産物を売る店が建ち並んでいた。 神前迄960階段、左側唐金の神馬銅像を眺め神社に参拝した。 この本殿に詣で瀬戸内海の景色やら、大小沢山の島々を眺めたときは、何とも例えようのない、いい気持ちであった。
 下山して宿に帰り一休みして荷物を背負い、宇高航路船に乗船して、岡山の宇野港に上陸、汽車で神戸まで来て下車、3月13日午後2時神戸館に泊まる。
 明くれば、14日今日は楠木正成をお祀りしてある、湊川神社の祭典であるということで、養父に連れられ参拝した。 大変賑やかで中でも祭典の済もうが盛大で面白く見物した。 市中を見るとさすがに貿易港だけに港は出船入船で黒煙が天を覆い太陽も黒ずんでみえるのである。
 夕方北海道移住民を乗せる室蘭行きの大きな船が出港するとのことで、急いで乗船場に行き、生まれてはじめて大きな汽船に乗船した。
 3月15日朝、横浜港に投錨、ここで荷物の積み卸をする為、養父は、私を置いたまま、上陸した。 夜になっても帰らず、だれ一人知人は居らず、日は暮れる。 寂しさの余り、郷里の父母や兄姉の事を思い出して、夜もすがら眠ることもできず、泣いていた。
 あまりのことに、室付のボーイさんが、自分の部屋につれて行き、センベイなどをご馳走して色々なぐさめてくれたが、中々思い切れず、いよいよ故郷が恋しくてたまらなかった。
 ボーイの話によると、この船は、16日お昼までに出港するので帰って来るから心配するなと云われたが不安であった。
 養父は、出港直前になって、お酒に酔い、いい機嫌で4合瓶の酒を5本持って私に落花糖を買って帰って来たので先ず一安心した。
 船は出港し翌17日昼過ぎ宮城県仙台萩ノ浜港に入港、ここで半日、貨物の積み卸しをするとの事で、横浜港での寂しい思い出があたので一緒について行くと言ったが、又私を残したもも上陸する。 今度はお酒3升持ち帰って来た。
 これからまずは一路北海道の玄関である。 函館港に入港した。 19日であった。 ここで上陸しはじめて北海道の土を踏んだ。
 北海道はさすがに寒かった。 山々には所々に雪があった。 市中の道の悪いのには実に驚いた。 直ちに宿についたが「北海道」という旅館、20日は市内を連れられて見物したが大火のあとで焼け野原になっていた。
 かねて内地で約束の店頭にある、金ボタンと外套と革靴が目につき、買ってくれと言ったが、ここは船着の場所だから、品物が悪くて高いから、先で買ってやるといって、買ってくれる意志は見受けられず、北海道の上陸したら、段々と薄情になり、いよいよ内地の父母が陰で 「行でない」といわれたことが身にしみて来た。
 21日午後2時頃に出航となり荷物を背負ってとぼとぼと乗船場に行き乗った間もなく函館を後に出航する。 室蘭港には夕方の入港、下船し 「たまる屋」旅館に宿泊したら移住民で満員、一枚の寝具に3名迄の割合で寿司詰めの状態、実に窮屈な思いで一夜を明かした。
 室蘭の町は狭い貧弱なところで見物する程の町ではなかった。

三、道内の旅

 室蘭からいよいよ汽車に乗るのだと云われ、長い間汽船に乗ったので珍しかった。 しかし北海道の汽車の遅いのには驚いた。 この先は何と云う処かときいたら、これは旭川行きの汽車だが途中の状況は列車内で教えてやると云われた。 しかしお先真っ暗だ。 室蘭駅を出発したのが3月23日午前6時であった。 白老駅についたら 「ここはアイヌ人が沢山いる処だ」 と聞かされた。 間もなく乗車して来た、アイヌ人を私ははじめて見たが、珍しかった。
 内地の汽車より、速度が遅く、岩見沢の駅には10時に到着した。 乗り替えて旭川行きの列車にのった。 途中神居古潭についたら、ここにもアイヌの人が沢山いる処だと教えられる。
 旭川駅に着いたのは午後1時過ぎであった。 旭川は第七師団があって兵隊が沢山いる。 市街見物等旁々師団に連れて行かれた。
 歩兵26・27・連隊の前を十市各連隊の前には歩哨が立っていた。 継ぎに特科隊の騎兵、工兵、車重隊、を見ながら通り、上川神社の前に出て、神社に参拝し、旭橋を渡って帰って来た。
 目につくものは金ボタン外套と革靴で養父に買ってくれと迫ったがここは兵隊の払下げたもので品物が古いものだから、モット先で買ってやると云って買ってくれないので、いよいよ不安に思った。
 駅前まで歩き一泊して、翌日名寄行きの汽車に乗った。 名寄についたのは、3月24日午後4時過ぎであった。 その夜 「吉野館」 に泊まった。 翌朝、昼食を済ましこれから汽車が通っていないので歩くのだと云われ私もそれなりの覚悟をした。

四、難渋の北見路

 草鞋、3足を買い1足を履き、2足を腰にしばり、教科書や半紙百帖その他、常用品、日用品で約3貫目(12キログラム位)を背負って、叔父は、赤毛布とモジリ外套を巻いてタスキにかけ、同じように草鞋を腰に歩きはじめた。
 私は内地で1里(4キロメートル)も歩いたことがないのに、叔父の歩行にあわせて一生懸命歩き、上興部の木賃宿に泊まったが1日10里(40キロメートル)歩いた。
 翌25日は、上興部を出発、前日同様わらじ3足を用意して興部川二興橋にかかった時は全く日が暮れ、足が痛むので雪の上に座ったら 「ここは北海道でも一ばん熊の多くでるところだから、今に熊が出て、引きさかれるぞ!」 とおどろかされ、ビックリして痛む足を引きづりながら高台にのぼったら、遙か彼方にチラチラ、灯りが見えるので 「あとどの位で行ったら宿に泊まれるか」  と聞いたら、3回ダマされて、ようやく興部の市街にたどりついた。 興部では山田という木賃宿にとまることになる。 宿についた私は草鞋の紐を解く元気もなく、そのまま座っていたら、宿の主人が紐を解いてくれ、足を洗ってくれたので、座敷に上がってようやくホッとした。 夕食も疲れたので食べずに就寝したが床に入ると、やさしい父母や兄姉の顔が思い出されて思わずマクラを濡らしていた。
 明くれば26日は、又もや草鞋3足を買い腰に2足しばり、興部を出発、沙留という所へついたら吉田三次郎という人がなれなれしく養父と話し合うので、最早や家も近いのかと思ったら、養父が内地に行くときに、客橇に乗せてもらった人だという。 吉田さんは 「この子供大変足が居たがっているから私も帰り途だし馬橇に乗せなさい」 と云ってくれたが、養父は 「北海道の途に馴らさねば」 といって先へ先へと行ってしまうので致し方なく痛む足を引きずりながら、漸く渚滑三線の三木という駅逓宿に辿りついたのが、午後2時頃、最早何としても歩けないので 「意気地がない奴だ!」 とブツブツ怒りながらも、遂に三木宿に泊まった。
 翌27日紋別市街に辿りつき福井旅館にお世話になりようやく人心地がついた。 紋別は大分家も多く並んでおり、風呂屋もあって入浴に3回入ったら、足も大分楽になった。 夜は久しぶりにぐっすり眠る。
 翌朝 「家まで大分あるか」 ときいたら、もう僅かといわれたので嬉しかった。 又もわらじ3足用意して雪解けで朝の中はがりがりに凍った道を坂道を上り下りしながら小向の竹内駅逓につき一服して漸く明治41年4月28日午後3時頃、川西の家に着いた。


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