一、ふる里湧別に帰って
我々同村の一行の桑原喜平・佐藤友次郎・佐々木久吾・松井時次と私の5名(藤田文治と今井義肥は一足先に帰った)は一緒に旭川を発ち富良野経由、カリカチ峠を越え帯広市を通過し池田駅で北見行きの列車乗りかえ、北見では黒部旅館に宿泊し、18日は一番列車にのって下湧別駅に着いたのは午前11時であった。
駅頭には歓迎のため、桧森村長を始め各官公職の長、学校の先生、生徒、部落民やら青年団員等多数の出迎えを受けた。 駅頭に於いて桧森村長から有難い歓迎のお言葉を賜り、帰還兵を代表して私からお礼の挨拶を述べたが、3年半に及ぶ永い年月に見る湧別の移り変わりを見て感無量であった。
12時を過ぎてなつかしい我が家に3年5ヶ月振りに帰ったのである。 私もあらたまって養父母に対し永年の不在にもかかわらず、元気で働いていただいたことを心から詫び乍ら今後の孝養について期する処があり、それなりに挨拶を交わす。
養父母も喜んでくれ帰還を祝って、午後1時から部落の方々75名は本屋に、青年団員37名は離れ座敷に招待、これは養親が一切祝賀の宴を準備してくれ、一同お膳についていただき、代表して本宮徳太郎さんから歓迎のお言葉を賜り、私からも3年有余年留守中老人を支援いただいたので深く謝辞をのべ、祝宴を盛大に催したのであった。
翌日は学校に於いて藤本と今井と私の3名のために部落の方々から歓迎会を盛大に催していただき、感謝の気持ちで胸一ぱいであった。
二、亜麻耕作のはじめ
大正4年四号線の谷虎五郎が亜麻会社の誘致に奔走し、その結果、東二線に工場が建てられ、以来湧別の農家は主要作物の中に、亜麻耕作が加えられ、工場に協力していた。 家でも私が不在のため、多くもってくれなかったが5反歩程(約500アール)耕作しており、8月になり収穫にとりかかったが、抜取りの要領が分からず、湊夫婦と滝本夫妻それに我が家の3人併せて7人で、稲を苗代から抜取るような方法で抜いて見たが午前中に5畝程度抜いただけである。 「これは困った園芸作物をつくったものだ」 と心配しながら抜いていたら、四号線の長屋の爺さんが通りかかり、抜取要領を教えてくれて、午後から大いに能率もあがり、2日間で5反歩の抜取りを終わった。
当時の主な作物は、裸麦・小麦・菜種・青豌豆・大手亡・それに亜麻が主体であった。
三、大吹雪の結婚
私達の年代は兵役が徴兵制で男子は満20歳で徴兵検査をそして 「甲種合格」は現役兵として2ヶ年の兵役に服する義務があった。
兵役の義務が終わってはじめて嫁を貰うのが通例で軍隊に行かない人達も大体その年に準じていたのである。
私は現役2年に加えて更に1年半と概ね3年半の勤務で帰ったので一般の人より長いわけだ、それだけに色々嫁の話が持ち上がって来るが養父母の気に入った嫁の候補は中々なかったようだ。
養親からどこの娘はどうかと聞かれたこともなかったのである。
それを気にしていた先輩の小川清一郎さんは何かと陰になり日向になって心配下さっていたが、大正8年の秋になって、上芭露、青山鶴吉の2女(のう)を見合いの対象として引き合わせるべく話が持ち上がった。 勿論養親を通じてその話はあったが、息子も年だから嫁を貰ってという気持ちが全くないのである。 私は年としても何等早いわけでもなし、尊敬している、小川先輩の云われることだからお受けすべきだと思って上湧別村5中隊3区の松浦宅(松浦は小川清一郎の叔父)で見合いをしたのである。
青山家は松浦の娘の縁付先になる。 その結果双方婚約を了解し、養親には残念乍ら賛成していただけなかったのだが、縁談は強引に進めていただくことにし、結婚式の日取りは12月11日と決定して事を運ぶことにしたのである。
やがて結婚式の日も目前に吹雪が3日間続いてとても上芭露まで行けるような日ではないが、湧別方面は何とか馬橇も通れるということで婿入りのため前日本宮の馬を頼んで、小川、本宮、と私と3人がのり、猛吹雪の中を出かけたのである。 テイネーまで行ったら、あとは人馬の足跡もなく、ただ先も見えぬような猛烈な吹雪で馬も時々足を泊めるような状況である。
難渋しながら馬橇は芭露9号線(ガンケ)まで行ったら、そこに5中隊3区の松浦清五郎が1人でカンジキをはいて、この吹雪の中を、上芭露青山に行く途中であった。 ここに小湊金吉の家があり立ち寄ったら、青山鶴吉(嫁の親)が来ており、この吹雪では婚礼の準備もできないので日取りをもばしてもらう可く出かけて来たとのことで、そこから馬を降りて、5人共徒歩で漸く青山宅へ着き、1日延ばして1泊して翌12日は青山家で婚礼の式を済ませた。
通例であれば、青山家で立ち祝いの後、新郎宅で結婚式という段取りであるが、この吹雪の中ではそうしたことも省略せざるを得なかった。
さてそのようなことで結婚は済ませて新婦共々友澤家に帰ったもののその後の養親の嫁に対する仕打ちの冷たさに私も少なからず心を傷める日々が続くことになるのである。
自分の意に添わぬ嫁をもらったといって、毎日のごとく、小言を云うことに対して私もいささか業をにやしていた。
「お前等に死に水はとって貰わぬ」 と云う養父母に対して、
「ほんとうに腹からその気持ちですか」 と、確かめても養父も養母も同じだというには愕然とした。
やむを得ず、島村先生、市山実蔵さん、本宮徳太郎さんの3氏を頼み、仲介をしていただいて、別居することに決めた。
四、別 居
当時は5町歩の土地を2町歩を養親が耕作し、3町歩私達が耕作するということを決め、税金と交際費は一切私の方で負担するという内容での和解が成立したのであった。
さて5月になって愈、蒔付けがはじまったら、約束もどこかえ破棄されて養親が3町歩、私達には2町歩作らせることに変更し、何と云っても聞いて貰えなかった。 別れに当たっては更に
一、馬は一切使わせない。 (2頭いたが)
二、農具も一切使わせない。(プラオ・ハロー等もあったが)
三、収穫のための諸道具や筵も一切使わせない。
等も追加条件となって、分けてくれたものは、夜具一組、食器二人分、食糧は秋まで食べる分として、裸麦5俵のみお金は1銭もくれなかった。
これで税金と養親の諸経費一切を負担しなければならないとは、とても耐え得る話しではなかった。
そこで山田さんの土地2町歩、小谷さんの土地1町歩借り合わせて5町歩を耕作することにして節約にこれ努めながら、夫婦力を併せて働いたのである。
馬は友人藤本君から借りて蒔付けることができた。
五、養親の心
川西では山口県人は友澤1戸のみであった。
団体で入植したわけでもないし、同じ地域にいても近隣の人々との深いつきあいも少なかった。 私が来て学校に入り、青年団などで交流があって、これが部落との深い交りのはじめであったろう。 養親は家庭ではとにかくきびしく、終始和気に満ちた生活はとても望むべくもなかった。 だが人に頼まれたことは守って来たし、自ら人に嫌われる人でもなかったようだ。
ただ一途に自らの仕事をコツコツとやって来たが、世事にうといお人好しであったようだ。 したがって他人の口車にのって時々失敗することもあったものの 「人様に迷惑をかけたこともなかったことは、神仏のお陰で皆さんから喜ばれている。 お前等も決して人に迷惑をかけないよう人を助けておけば何時かは自分にその報いが来る」 と言い聞かされた。 こうしたお人好しの養親が、私の不在中に、かまどを引っくりかえす程の借金を背負っていたとは、夢にも思わなかったのである。
大正8年結婚後の状態については、前記の通りの別居で永い軍隊から帰って年寄りの養親にこれから楽をさせて上げれると張り切っているときに畑の大半は俺がつくるから息子には貸せないという、誠に情けない事態もとりあえずはあきらめていた或る日のこと、「友澤さんでは大きな借金あるらしい」 と噂をきいたと、友人から私の耳にはいったのである。
六、借財の重圧
驚いて調べて見た、私にとっては青天の霹靂であった。
内容は一つとしては、高知県人の森本何某の仲介によって、社名淵に8戸分の未開地を取得し、小作人を入居させたが相場にうとい養親は森本某の巧言にのせられて高い未墾地を買わされ、その代金を森本から借りて現在借財が3.500円あるというのだ。 これには流石の私も暫く絶句したままであった。
そんなことを聞かされてから、世間の人々は養父の借財を私に持って来るようになった。
○ 軍隊不在中の酒代として4店から5百60円請求された。
○ 突然ある人から3年前に百50円貸したお金を支払ってほしいと申立てを受けた。
○ 連帯保証の借用証があるというので見せてもらったら、私の印が保証書に押してあり、証書は養親が書けないの で部落の某氏の代筆であった。
○ 現在の所有地5町歩を担保として某氏から借りている金が700円あり、これは社名淵小作人が開拓するまでの食 料費として裸麦20石(50俵)を現物貸付したための借財である。
これを総合して見ると
一、小作地取得によるもの 3.500円也
二、入隊中の酒代 560円也
三、連帯保証による借財 150円也
四、土地取得(小作人食料費) 700円也
合 計 4.910円也
これに3年余の利息を加えると凡そ6千円の借金が、私達夫婦に重くのしかかって来たのである。 (現在の金にして1億円位か?)
借財が明るみに出てから養父母は今までの頑迷な処が幾分折れざるを得なかったようである。
土地の分轄耕作についても、馬の使用についても、自分の勝手なことばかり云っておられない。 結局処理の段階で何の発言権もない姿で私のなすがままに委せざるを得なかった。
七、借財対策と苦闘20年
大正9・10・11年3年程、私達の毎日は借金返済という大きな負担に、泣きながら、朝早くから夜暗くなるまで働き通した。 日常の生活費をきりつめ、購入先の店に話をつけて、最小限の品代にして年間借りることに協力ねがった。
こうして予定の年賦の償還の実行に勤めたものの、5町歩の土地から獲れる収入にはそれぞれ限度があったので反別の増加を図り収入を増して借金返済を一年でも早く終わらそうと相談した。
その結果、伊藤代助氏の仲介で我が家に程近い道路向かいの1戸分(5町歩)を売りたいという人が居るという話しがあった。
借金に追われている最中にとても新たに取得などと思いながらも、妻の父(上芭露 青山)に話をしたところ、上芭露は薄荷景気で反200円以上の収入があるところだから、川西のよい土地で雑穀が50円位では話にならぬと買う気が更にない。
それでも借金の整理を1日も早く終わらせるにはどうしても土地がほしい旨を養父に話して、私のシベリア出兵の一時金である軍事公債を積んであったのが利子を含めて600円を下し、不足分1.800円は青山に養父から借りて2.400円で取得することができた。
それから全部の借財を完済するまでも私達の生活は、誠に口には云いあらわせない苦労の連続であった。
地力に勝る川西の農業は、他の土地とは異なり、何を耕作しても相当の収量があったが、冷害凶作の年もたまにあって苦労を重ねた。
大正10年から以降、男3人、女4人の子宝に恵まれたものの、10人の生活をかかえての、大きな借財の返済には固い意志と不屈の労力が必要であった。 石にかじりついてもなしとげるという意気込みで、子供達にも充分なこともできないまま、毎年毎年が戦争のような思い出が残る。
この姿を見てさしもの養父母も、その気持ちが一変して私等が悪かったと申し、これからお前達に全権を委ねるからと云ってくれたので勇気百倍大いに努力を重ねて来たのであった。
我々同村の一行の桑原喜平・佐藤友次郎・佐々木久吾・松井時次と私の5名(藤田文治と今井義肥は一足先に帰った)は一緒に旭川を発ち富良野経由、カリカチ峠を越え帯広市を通過し池田駅で北見行きの列車乗りかえ、北見では黒部旅館に宿泊し、18日は一番列車にのって下湧別駅に着いたのは午前11時であった。
駅頭には歓迎のため、桧森村長を始め各官公職の長、学校の先生、生徒、部落民やら青年団員等多数の出迎えを受けた。 駅頭に於いて桧森村長から有難い歓迎のお言葉を賜り、帰還兵を代表して私からお礼の挨拶を述べたが、3年半に及ぶ永い年月に見る湧別の移り変わりを見て感無量であった。
12時を過ぎてなつかしい我が家に3年5ヶ月振りに帰ったのである。 私もあらたまって養父母に対し永年の不在にもかかわらず、元気で働いていただいたことを心から詫び乍ら今後の孝養について期する処があり、それなりに挨拶を交わす。
養父母も喜んでくれ帰還を祝って、午後1時から部落の方々75名は本屋に、青年団員37名は離れ座敷に招待、これは養親が一切祝賀の宴を準備してくれ、一同お膳についていただき、代表して本宮徳太郎さんから歓迎のお言葉を賜り、私からも3年有余年留守中老人を支援いただいたので深く謝辞をのべ、祝宴を盛大に催したのであった。
翌日は学校に於いて藤本と今井と私の3名のために部落の方々から歓迎会を盛大に催していただき、感謝の気持ちで胸一ぱいであった。
二、亜麻耕作のはじめ
大正4年四号線の谷虎五郎が亜麻会社の誘致に奔走し、その結果、東二線に工場が建てられ、以来湧別の農家は主要作物の中に、亜麻耕作が加えられ、工場に協力していた。 家でも私が不在のため、多くもってくれなかったが5反歩程(約500アール)耕作しており、8月になり収穫にとりかかったが、抜取りの要領が分からず、湊夫婦と滝本夫妻それに我が家の3人併せて7人で、稲を苗代から抜取るような方法で抜いて見たが午前中に5畝程度抜いただけである。 「これは困った園芸作物をつくったものだ」 と心配しながら抜いていたら、四号線の長屋の爺さんが通りかかり、抜取要領を教えてくれて、午後から大いに能率もあがり、2日間で5反歩の抜取りを終わった。
当時の主な作物は、裸麦・小麦・菜種・青豌豆・大手亡・それに亜麻が主体であった。
三、大吹雪の結婚
私達の年代は兵役が徴兵制で男子は満20歳で徴兵検査をそして 「甲種合格」は現役兵として2ヶ年の兵役に服する義務があった。
兵役の義務が終わってはじめて嫁を貰うのが通例で軍隊に行かない人達も大体その年に準じていたのである。
私は現役2年に加えて更に1年半と概ね3年半の勤務で帰ったので一般の人より長いわけだ、それだけに色々嫁の話が持ち上がって来るが養父母の気に入った嫁の候補は中々なかったようだ。
養親からどこの娘はどうかと聞かれたこともなかったのである。
それを気にしていた先輩の小川清一郎さんは何かと陰になり日向になって心配下さっていたが、大正8年の秋になって、上芭露、青山鶴吉の2女(のう)を見合いの対象として引き合わせるべく話が持ち上がった。 勿論養親を通じてその話はあったが、息子も年だから嫁を貰ってという気持ちが全くないのである。 私は年としても何等早いわけでもなし、尊敬している、小川先輩の云われることだからお受けすべきだと思って上湧別村5中隊3区の松浦宅(松浦は小川清一郎の叔父)で見合いをしたのである。
青山家は松浦の娘の縁付先になる。 その結果双方婚約を了解し、養親には残念乍ら賛成していただけなかったのだが、縁談は強引に進めていただくことにし、結婚式の日取りは12月11日と決定して事を運ぶことにしたのである。
やがて結婚式の日も目前に吹雪が3日間続いてとても上芭露まで行けるような日ではないが、湧別方面は何とか馬橇も通れるということで婿入りのため前日本宮の馬を頼んで、小川、本宮、と私と3人がのり、猛吹雪の中を出かけたのである。 テイネーまで行ったら、あとは人馬の足跡もなく、ただ先も見えぬような猛烈な吹雪で馬も時々足を泊めるような状況である。
難渋しながら馬橇は芭露9号線(ガンケ)まで行ったら、そこに5中隊3区の松浦清五郎が1人でカンジキをはいて、この吹雪の中を、上芭露青山に行く途中であった。 ここに小湊金吉の家があり立ち寄ったら、青山鶴吉(嫁の親)が来ており、この吹雪では婚礼の準備もできないので日取りをもばしてもらう可く出かけて来たとのことで、そこから馬を降りて、5人共徒歩で漸く青山宅へ着き、1日延ばして1泊して翌12日は青山家で婚礼の式を済ませた。
通例であれば、青山家で立ち祝いの後、新郎宅で結婚式という段取りであるが、この吹雪の中ではそうしたことも省略せざるを得なかった。
さてそのようなことで結婚は済ませて新婦共々友澤家に帰ったもののその後の養親の嫁に対する仕打ちの冷たさに私も少なからず心を傷める日々が続くことになるのである。
自分の意に添わぬ嫁をもらったといって、毎日のごとく、小言を云うことに対して私もいささか業をにやしていた。
「お前等に死に水はとって貰わぬ」 と云う養父母に対して、
「ほんとうに腹からその気持ちですか」 と、確かめても養父も養母も同じだというには愕然とした。
やむを得ず、島村先生、市山実蔵さん、本宮徳太郎さんの3氏を頼み、仲介をしていただいて、別居することに決めた。
四、別 居
当時は5町歩の土地を2町歩を養親が耕作し、3町歩私達が耕作するということを決め、税金と交際費は一切私の方で負担するという内容での和解が成立したのであった。
さて5月になって愈、蒔付けがはじまったら、約束もどこかえ破棄されて養親が3町歩、私達には2町歩作らせることに変更し、何と云っても聞いて貰えなかった。 別れに当たっては更に
一、馬は一切使わせない。 (2頭いたが)
二、農具も一切使わせない。(プラオ・ハロー等もあったが)
三、収穫のための諸道具や筵も一切使わせない。
等も追加条件となって、分けてくれたものは、夜具一組、食器二人分、食糧は秋まで食べる分として、裸麦5俵のみお金は1銭もくれなかった。
これで税金と養親の諸経費一切を負担しなければならないとは、とても耐え得る話しではなかった。
そこで山田さんの土地2町歩、小谷さんの土地1町歩借り合わせて5町歩を耕作することにして節約にこれ努めながら、夫婦力を併せて働いたのである。
馬は友人藤本君から借りて蒔付けることができた。
五、養親の心
川西では山口県人は友澤1戸のみであった。
団体で入植したわけでもないし、同じ地域にいても近隣の人々との深いつきあいも少なかった。 私が来て学校に入り、青年団などで交流があって、これが部落との深い交りのはじめであったろう。 養親は家庭ではとにかくきびしく、終始和気に満ちた生活はとても望むべくもなかった。 だが人に頼まれたことは守って来たし、自ら人に嫌われる人でもなかったようだ。
ただ一途に自らの仕事をコツコツとやって来たが、世事にうといお人好しであったようだ。 したがって他人の口車にのって時々失敗することもあったものの 「人様に迷惑をかけたこともなかったことは、神仏のお陰で皆さんから喜ばれている。 お前等も決して人に迷惑をかけないよう人を助けておけば何時かは自分にその報いが来る」 と言い聞かされた。 こうしたお人好しの養親が、私の不在中に、かまどを引っくりかえす程の借金を背負っていたとは、夢にも思わなかったのである。
大正8年結婚後の状態については、前記の通りの別居で永い軍隊から帰って年寄りの養親にこれから楽をさせて上げれると張り切っているときに畑の大半は俺がつくるから息子には貸せないという、誠に情けない事態もとりあえずはあきらめていた或る日のこと、「友澤さんでは大きな借金あるらしい」 と噂をきいたと、友人から私の耳にはいったのである。
六、借財の重圧
驚いて調べて見た、私にとっては青天の霹靂であった。
内容は一つとしては、高知県人の森本何某の仲介によって、社名淵に8戸分の未開地を取得し、小作人を入居させたが相場にうとい養親は森本某の巧言にのせられて高い未墾地を買わされ、その代金を森本から借りて現在借財が3.500円あるというのだ。 これには流石の私も暫く絶句したままであった。
そんなことを聞かされてから、世間の人々は養父の借財を私に持って来るようになった。
○ 軍隊不在中の酒代として4店から5百60円請求された。
○ 突然ある人から3年前に百50円貸したお金を支払ってほしいと申立てを受けた。
○ 連帯保証の借用証があるというので見せてもらったら、私の印が保証書に押してあり、証書は養親が書けないの で部落の某氏の代筆であった。
○ 現在の所有地5町歩を担保として某氏から借りている金が700円あり、これは社名淵小作人が開拓するまでの食 料費として裸麦20石(50俵)を現物貸付したための借財である。
これを総合して見ると
一、小作地取得によるもの 3.500円也
二、入隊中の酒代 560円也
三、連帯保証による借財 150円也
四、土地取得(小作人食料費) 700円也
合 計 4.910円也
これに3年余の利息を加えると凡そ6千円の借金が、私達夫婦に重くのしかかって来たのである。 (現在の金にして1億円位か?)
借財が明るみに出てから養父母は今までの頑迷な処が幾分折れざるを得なかったようである。
土地の分轄耕作についても、馬の使用についても、自分の勝手なことばかり云っておられない。 結局処理の段階で何の発言権もない姿で私のなすがままに委せざるを得なかった。
七、借財対策と苦闘20年
大正9・10・11年3年程、私達の毎日は借金返済という大きな負担に、泣きながら、朝早くから夜暗くなるまで働き通した。 日常の生活費をきりつめ、購入先の店に話をつけて、最小限の品代にして年間借りることに協力ねがった。
こうして予定の年賦の償還の実行に勤めたものの、5町歩の土地から獲れる収入にはそれぞれ限度があったので反別の増加を図り収入を増して借金返済を一年でも早く終わらそうと相談した。
その結果、伊藤代助氏の仲介で我が家に程近い道路向かいの1戸分(5町歩)を売りたいという人が居るという話しがあった。
借金に追われている最中にとても新たに取得などと思いながらも、妻の父(上芭露 青山)に話をしたところ、上芭露は薄荷景気で反200円以上の収入があるところだから、川西のよい土地で雑穀が50円位では話にならぬと買う気が更にない。
それでも借金の整理を1日も早く終わらせるにはどうしても土地がほしい旨を養父に話して、私のシベリア出兵の一時金である軍事公債を積んであったのが利子を含めて600円を下し、不足分1.800円は青山に養父から借りて2.400円で取得することができた。
それから全部の借財を完済するまでも私達の生活は、誠に口には云いあらわせない苦労の連続であった。
地力に勝る川西の農業は、他の土地とは異なり、何を耕作しても相当の収量があったが、冷害凶作の年もたまにあって苦労を重ねた。
大正10年から以降、男3人、女4人の子宝に恵まれたものの、10人の生活をかかえての、大きな借財の返済には固い意志と不屈の労力が必要であった。 石にかじりついてもなしとげるという意気込みで、子供達にも充分なこともできないまま、毎年毎年が戦争のような思い出が残る。
この姿を見てさしもの養父母も、その気持ちが一変して私等が悪かったと申し、これからお前達に全権を委ねるからと云ってくれたので勇気百倍大いに努力を重ねて来たのであった。
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