周防大島と村上海賊は切っても切れない関係にありますね。
諸説ありますが村上海賊の系譜を見てみましょう。
ここでは村上天皇流能島村上家の宗家をとりあげます。
村上海賊は大きく分けて,①村上天皇流と②清和源氏流と③まったく瀬戸内海の漁民(ムラグミ)が組織化されただけ
の集団(民族学者・宮本常氏一主張)等に分かれます。
また時期的に「前期村上時代」と「後期村上時代」とに分けてその関連性は不明とする説もあります。
基本的に歴史は人間が繋いできた過程を記したものですから、エヴィデンスとすれば一つでしょう。
ただ、一次史料極少なので類推歴史書が多いのも事実ですね。
系譜や系図はそれそれの家が伝承してきたものですから、同じ系譜でも書かれた時期により異動が生じます。
また、古くなった同じ家の系譜でもその書き写す時の人の性格とその時代の常識が反映されるのと、前の系譜の
都合の悪い部分の削除やたいした功績でもなかったものを大功績のように脚色されたものも多いですね。
これらの場合、同時代の一次史料と比較検討して真贋を見極めるしかないでしょうね。
同様に書き写す時の間違いで多いのは
①単純な脱落、不要な加筆。
②原本は崩し字、悪筆も多いので転写違いも多く発生します。
③不必要な加筆で多いのは、新たに「〇〇によると」として真贋不明記事を取り入れることです。
特に、「流布本」や「軍記物」は当時の読み物として「面白く脚色作成」されていますので要注意ですね。
次に多いのは、転写時期から計算して違う元号を使用したり、転写時期の地名や用語を使用したミスですね。
元号でミスが多いのは改元を正確に認識していない場合ですね。時に一時史料の引用で元号が違うと致命的
です。情報の時差がありますので改元より後まで旧元号を使用している場合はある程度許容されますが、
その逆はあり得ませんので嘘となります。
また、次に多い間違いは地名のミスです。たとえば、今治、松山、大洲は江戸期以降の地名ですのでそれ以前時期の
地名ではありません。また水軍や藩と云う単語は明治以降に使われ始めた単語ですので、本来は「海賊」や「家中」
と使われています。今治の村上水軍記念館が「村上海賊の娘」が流行ったので村上海賊記念館に改称しましたが
元々間違っていただけですね。また海賊と警固衆とは似ていますが違います。
宮本常一氏によれば警固衆はそれぞれの殿様に属して水軍機能を有していますが、舟子(カコ)と戦闘員は別々で
機能していたとします。これに対し瀬戸内海賊は舟子かた船頭まで操船と戦闘を両方操る人とされます。
海賊の子孫と伊予河野家子孫らは「海賊」と呼ばれることを今でも嫌がります。
よって「村上水軍」とか「河野水軍」とかに表現します。
「海賊」のかっぱらい及び殺人のイメージが嫌なのでしょう。
でも村上海賊の総帥、村上武吉の時代で初めて「かっぱらいと人殺し」禁止を通知しましたのでそれまでは
それまでは海賊行為もしていました。「河野分限帳」も水軍ではなく海賊と記します。
④周防大島が生んだ民族学者、宮本常一氏は日本全国の現地に足を運び、古老の声や現地の史料を猟収してレポート
を書いています。中央政府が作成した「正史」の見直しも行っています。
ある意味、「古事記」と「日本書紀」の違いをみるようですね。
上記勘案して私がUPする「家譜・系図」を見てもらえれば幸いです。
諸説ありますが村上海賊の系譜を見てみましょう。
ここでは村上天皇流能島村上家の宗家をとりあげます。
村上海賊は大きく分けて,①村上天皇流と②清和源氏流と③まったく瀬戸内海の漁民(ムラグミ)が組織化されただけ
の集団(民族学者・宮本常氏一主張)等に分かれます。
また時期的に「前期村上時代」と「後期村上時代」とに分けてその関連性は不明とする説もあります。
基本的に歴史は人間が繋いできた過程を記したものですから、エヴィデンスとすれば一つでしょう。
ただ、一次史料極少なので類推歴史書が多いのも事実ですね。
系譜や系図はそれそれの家が伝承してきたものですから、同じ系譜でも書かれた時期により異動が生じます。
また、古くなった同じ家の系譜でもその書き写す時の人の性格とその時代の常識が反映されるのと、前の系譜の
都合の悪い部分の削除やたいした功績でもなかったものを大功績のように脚色されたものも多いですね。
これらの場合、同時代の一次史料と比較検討して真贋を見極めるしかないでしょうね。
同様に書き写す時の間違いで多いのは
①単純な脱落、不要な加筆。
②原本は崩し字、悪筆も多いので転写違いも多く発生します。
③不必要な加筆で多いのは、新たに「〇〇によると」として真贋不明記事を取り入れることです。
特に、「流布本」や「軍記物」は当時の読み物として「面白く脚色作成」されていますので要注意ですね。
次に多いのは、転写時期から計算して違う元号を使用したり、転写時期の地名や用語を使用したミスですね。
元号でミスが多いのは改元を正確に認識していない場合ですね。時に一時史料の引用で元号が違うと致命的
です。情報の時差がありますので改元より後まで旧元号を使用している場合はある程度許容されますが、
その逆はあり得ませんので嘘となります。
また、次に多い間違いは地名のミスです。たとえば、今治、松山、大洲は江戸期以降の地名ですのでそれ以前時期の
地名ではありません。また水軍や藩と云う単語は明治以降に使われ始めた単語ですので、本来は「海賊」や「家中」
と使われています。今治の村上水軍記念館が「村上海賊の娘」が流行ったので村上海賊記念館に改称しましたが
元々間違っていただけですね。また海賊と警固衆とは似ていますが違います。
宮本常一氏によれば警固衆はそれぞれの殿様に属して水軍機能を有していますが、舟子(カコ)と戦闘員は別々で
機能していたとします。これに対し瀬戸内海賊は舟子かた船頭まで操船と戦闘を両方操る人とされます。
海賊の子孫と伊予河野家子孫らは「海賊」と呼ばれることを今でも嫌がります。
よって「村上水軍」とか「河野水軍」とかに表現します。
「海賊」のかっぱらい及び殺人のイメージが嫌なのでしょう。
でも村上海賊の総帥、村上武吉の時代で初めて「かっぱらいと人殺し」禁止を通知しましたのでそれまでは
それまでは海賊行為もしていました。「河野分限帳」も水軍ではなく海賊と記します。
④周防大島が生んだ民族学者、宮本常一氏は日本全国の現地に足を運び、古老の声や現地の史料を猟収してレポート
を書いています。中央政府が作成した「正史」の見直しも行っています。
ある意味、「古事記」と「日本書紀」の違いをみるようですね。
上記勘案して私がUPする「家譜・系図」を見てもらえれば幸いです。
私の地元、特に旧家では、いまだ「海賊」の子孫と見られるのを嫌がる気配があります。
①歴史的に当時は海賊と呼ばれていて、水軍はもっと後での呼称だから、水軍を海賊に戻すのが正しい、の説に一理はあると思います。
②『村上海賊の娘』ブームを存続させるために日本遺産(地域活性化を図ることを目的)に村上海賊を申請登録、盛り上がりに期待する人たちも多い。
ということがあります。
一方、
ア.第二次大戦直後の昭和20年当初まで、瀬戸内海には「かっぱらい・殺傷」の小規模な海賊がいた。
イ.自衛隊の主要な任務の一つに海賊対策がある。自衛隊法に明記。
ウ.保安庁も自衛隊との連携で海賊対応の任務がある。
エ.能島村上武吉により「かっぱらいと人殺し」禁止が通知され、これが徹底されたとします。しかし関料を支払わずに通過しようとした船は、拿捕して交渉が合わなければ、殺害し船を没収することが認められていたとの話もある。
オ.エの一例として、因島の地蔵鼻の悲話があり、海賊停止令~関ケ原の戦い直前に起きた事件。その詳細が伝承にあり事実と思われる。
カ.四国の長曾我部が四国制覇の終端に伊予河野氏を攻めていたとき、能島村上らが河野氏支援の策として高知の村を襲い女子どもを含めて皆殺しにし、それに恐れをなした長曾我部が慌てて高知に戻って立て直しを図った、との話がある。どこまで事実かは不明。
ア~カなどでの「海賊」についての一般的な認識がある中、歴史的に海賊と称されていたことを理由として村上水軍を村上海賊に云い戻す必要があるのか?
村上海賊は他の海賊とは違い、警固を請け負い、関料徴収を認められていた海賊であると、いちいち説明しなけれは、一般人には分からないし、説明してもすぐにわかるかどうか。
「水軍」について、倭寇の頃にはすでに登場していた語であるが朝鮮軍の水軍をさしていた。日本の水軍については毛利家文書の忠正公伝の中で、船手組の者が自分たちを(軍隊としての)水軍とし、先祖を海賊としている。明治後期ごろから海賊を水軍と言い表すことが始まった。
確かに歴史的には水軍ではないが、少なくとも昭和期には水軍と言い表すことが一般的になっている。
私個人はまだ村上水軍を使い続ける予定ですが、周囲は村上海賊を面白がってはいますね。
海賊と水軍のイメージにこだわっているようですが、時代によって違うと割り切っています。
海賊は大昔からいます。勿論、山賊もいました。瀬戸内海では海賊が身近ですね。藤原純友は貴族でありながら海賊衆を集めて荒らしまわりました。これはチャッチな窃盗ではなく中央政府に対する反乱ですからクーデターですが政府は海賊行為として征伐軍を送りましたね。瀬戸内で海賊(窃盗)が行われるのは陸と同じで漁民の生活苦から始まっています。最初は家族単位ですがより大きな獲物を狙うには村や地域全体となりました。宮本常一氏はこれを「ムラグミ」と云い「村上」の語源とし三島村上は村上天皇の末裔ではなく箔つけに後世系図をでっちあげたとします。これらが水軍機能とするのは軍隊扱いですから陸の殿様の依頼を受けて荷物運びや警護をし始めてからですが、単なる運送人は警固衆とよばれ平安時代に大宰府まで来る半島人は警固衆で今も福岡城の近くに彼らが滞在した警固町が残ります。警固衆と海賊衆の違いは警固は運送人で海賊衆は船の運転と戦闘員を兼ねています。毛利の家臣の浦家は警固衆で広島沿岸を守っていましたが戦闘員は別に乗せていましたのでチグハグな戦闘になりました。海賊はマルチです。
正業と副業が始まったのは鎌倉時代以降と思われます。河野、大内、大友氏らのオーダーで仕事をしていました。フリーターですから特定の守護に付くことはなく報酬の多いほう行きました。伊豫史は村上海賊は臣下のように扱いますが、元々はオーダーで行動します。来島は河野の仕事が増え、因島海賊は小早川の仕事が増えました。能島は大友と大内の仕事が増えましたので後世の人はふらふらすると勘違いしました。大谷選手と同じで条件の良いのを選んでいただけです。
パイレーツと云われるのは嫌いでも同じ行為をしていたのは史実です。私は戦国期までは海賊衆それ以降の行動では水軍機能と使いわけます。
実のところ、私がこだわる「村上水軍」という呼び方もせいぜい戦後から今までのことなのかもしれません。
しかし「村上水軍」はしまなみ海道あたりの子孫にとっては差しさわりのない呼び方であり、あえてまた「村上海賊」と呼び馴らそうとすることには素直になれないといった感じです。
面倒くさいことを言えば、今の子孫について「村上海賊の子孫」と言い表すことへの嫌悪です。
例えば三島村上氏の当時の歴史を述べる中で海賊と呼ぶ、といったことへの嫌悪・抵抗感は全くありません。
屋代島での「村上太左衛門家の史跡めぐり」のような場所がありますでしょうか?
屋代島の図書家・一学家の聖地巡りは因島からも行ったという話を聞いたりしましたが、因島村上の方は三田尻の方が聖地巡り?になっていて、屋代島のことは初めて聞くように思います。
もし「村上太左衛門家の史跡めぐり」のような場所があるのでしたら、行ける内に行ってみたいと思います。
とのお問い合わせですが「う~む」と考えこみます。因島村上一族は毛利家からは大島郡三蒲地区を少しづつ拝領していたみたいで現在ではどこそことはっきりしません。確か本・分家で五家程度が狭い範囲で分け合っている感じです。その狭い中で毛利家旧臣の浦家が相当部分拝領しています。私のレベルでは寛永三年(1626)に三蒲村に領主の村上太左衛門が丸尾山龍泉寺を再建したとされます。位牌はあるのですが墓が見当たりません。墓は御船手組の多くが勤務地で眠る三田尻かもしれません。他に同家系図に葬るとされる寺は同じ三蒲の称念寺です。
田屋(屋敷)がどこかも分かりません。私が知っているのはこの程度です。能島村上の主だった所は大体わかるのですが因島村上の記録は地元にはあまり残っていないのです。たいしたことありませんが、村上海賊の史蹟めぐりを希望なら五月の連休前後は島に帰っていますから案内しますよ(笑)
ありがとうございました。
貴ブログに返答しようと思いましたが字数制限(800文字)がありこちらで返答させて頂きます。
村上義弘の相関図は色々な説があってとてもややこしい。
今の所、一番信用できるのはやはり「村上・島系図」とおもわれます。
それ以外の村上義弘の引用は「予章記」とそれを元とした軍記物で明治以降はそれらの軍記物をいろいろ引用したので混乱が始まったものと思います。よって出典が大事です。出典も殆どが軍記物ですから信用度が低くなります。
明治政府が明治天皇家の正統性を補強するため「修史局」を設置し「大日本史」の編纂を始めました。現天皇家は南朝系ですので、修史局は南朝系の人達の記録を調べ位記しました。その一人が村上義弘とされます。当時修史局は全国の古文書を提出するように県令(県知事)に命令します。この時、愛媛県知事は愛媛県の由緒ある家の河野家の関係文書を膨大に提出しましたが、悉く書き直しを命ぜられています。
当たり前ですよね南朝の補強文書が欲しい修史局に殆ど北朝に肩入れした河野宗家の賛歌文書なんか受け付けません。唯一、南朝の為最後まで戦った、河野家分家の得能家や土居家の文書はすんなり受理しています。村上義弘は南朝側で河野通暁(通直)とともに通任らとともに戦いましたが、通暁は後に北朝に鞍替えしますね。
南北朝時代は伊豫では同じ家で北や南に分かれます。河野家、大野家等多くの家が兄弟、親子が分れて戦います。現在の常識では同じ家は家長の許一致団結して戦った筈との先入観があり、分家や本家が分かれて争うことはないと思い込んで郷土史を書く人が多いのも事実です。
当時の最大の関心事は「お家存続」です。どちらが勝つか分からない中央政府の争いに双方から誘いがかかります。この時、家長は親族を二分しそれぞれに付かせます。当時は赤組と白組の二つしかありませんから、必ずどちらかが最後に勝ちます。
二分しておけば勢力は半減するもののお家は存続することができる論理です。
婚姻、養子縁組も当時は政争の具ですが、戦後、アメリカ民主主義思想での教科書を習った我々は、最初は理解できませんね。
南北朝時代にその家がどちら側がを見る方法の一つに元号があります。
同じ家の系図でも、北朝年号を使用する家と、南朝年号を使用する家とに分かれます。
そこに書かれる「安堵状」「宛行状」「書簡」の元号で北朝元号、南朝元号で、南北朝時代はどちらに属していたかおおよそ分かります。ただ後世の第三者が書いた歴史書は三次資料となりますので鵜呑みにできません。
長々書きましたが、一緒に「村上義弘」を追ってみましょう。愛媛県史、広島県史、山口県史が訂正されるかもしれません。(笑)
巻頭の編者識之には、伝聞などなんでも収録したが真偽は有識者や編者に任せる、といった感じに読めます。
福山藩の馬屋谷が書いた『西備名区』もこんな感じで、当時の史料が乏しい中、それを理解した上で利用する分には有用だといった感じなのでしょうか。
②私のブログでの
>村上義弘の領地を今岡通任が横領する旨の伝記・・・
ですが、面白いことが分かりました。
中島忠由氏故人は因島文化財協会会長などを歴任した、村上義弘・村上水軍など郷土史の第一人者です。
(芸備)古跡志により『今岡通任が村上義弘亡き後の因島を押領し、その旧臣らを統率した村上師清が因島での「釣島箱崎の浦の合戦」で今岡軍に勝利し、それから三島村上が始まった』ということについて、
(1)『因島地方一万年史』昭和47年(1972)。
「因島本主上原中務大夫入道善(ママ)監が死んで後嗣がなく、外戚の村上義弘も死去して、今岡通任がそのあとを押領して武家方となっていた。・・・師清は今岡勢を因島の釣島・箱崎浦に破って・・」
(2)因島ジャーナル『新・村上水軍記』昭和56年(19)
「因島三津庄の地頭(京都の東寺)の代官職であった今岡通任子息対馬守越智通宗(岡野家の祖、三峰城主)と京都加茂社の摂社比良木神社の良家代官職大鳥(藤原姓)義康・弟九郎宗義の兄弟らと、中庄の王地・田熊の則末・大将軍・妙泰越・三庄の大将軍・狸の森などで戦って勝利をおさめると・・」
(3)『古三原刀鍛冶 藤原兵庫助正家の顕彰』昭和57年(1982)
「・・霜月十五日(古代の元旦)に敵方の油断(祝儀)を好機に、釣島・箱崎浦に進撃見事に敵を破って・・」。**敵が誰かは書いていない。この文の前に「南朝方に迎えられた。」とあるので、敵は北朝方というニュアンスか?
今岡通任は村上義弘と戦ったのではなく義弘跡を継いだとされる、村上師清と戦ったことになりますね。ということは村上義弘は親族ですから今岡通任は同胞ですが、跡を取ったとする村上師清は認めていなかった証左にもなりますね。
清和源氏村上と村上天皇系村上は別家との認識ならこのトラブルは分かりますね。名前が同じですが家は違う認識ですね。姓が同じですからやはり後世の人達は混乱していろんな系図を作成したから混乱に拍車をかけたとすれば理解できます。
ある人は今岡通任と村上義弘の内輪もめは因島の領地を奪おうとした通任がうまくいかないので南朝側であったが北朝側に鞍替えしたと書きます。
これはある人の創作でしょう。通任が北朝側に寝返るのは主君の河野通堯(通直)が南朝から北朝に変わった時期に一緒に変わったと考えるのが自然でしょう。
しかし、この時には村上義弘は死んでいません。
村上義弘の卒年と死因はいろいろ取りざたされていますが、私は九州で死んだと考えています。討死説と病死説がありますが私は病死ではないかと考えています。
即ち、河野通暁が屋代島から九州に渡り再度伊予に上陸を果たしますがこの時は行きは義弘の名がありますが帰りは名が無いことが根拠です。