村上海賊の系譜 2 では能島村上家の分家一学家について説明します。
能島村上総帥武吉の長嫡男元吉が関ケ原の合戦に呼応して豊臣家の名代として伊予松前・正木の城受取りに
出向いた所で加藤家留守部隊の策略で夜討ちにあいあえなく討死します。父武吉を支え能島村上家の立て直しを図った
のが弟の景親です。この家を萩藩では一学家とします。尚、武吉以前の先祖は、「能島村上図書家」でUP
してありますので参照願います。
【能 島 村 上 一 学 家 略 系 譜】
元祖 道祖次郎 掃部頭 大和守
村上武吉
太栄6~慶長9(1532~1604.8.22)72才
法名 大仙寺殿覚甫元正居士
母 平岡左近将監女
室 来島右衛門大夫通康一女・妙輪・ムメ
(~天正14/6/5)
法名 香厳院殿梅甫妙輪大姉・俗名ムメ
後妻 来島通康二女・妙三・ハナ
(~慶長12(1606)/3/11)【元正寺墓有武吉墓後】
法名 心妙院殿華岳正春禅定尼(墓刻)
法名 心妙院殿華岳正春大姉・俗名ハナ(家譜)
↓
初代 村上三郎兵衛景親
(1557~1610/1/9)53才・源八郎・如真
法名 照岩寺殿 *後に彼と此の一族の菩提寺を照岩寺とします。
輝元公賜新録 建一家 *毛利輝元は功績を認め分家扱いではなく新しい一家とします。
母 後妻来島通康二女・妙三
室 平岡遠江守通倚妹
*朝鮮出兵の折、戦利品として朝鮮女性を連れ戻ります。父武吉も一人連れ帰ったとされます。
この二人の肖像画が今治の「村上海賊記念館」に寄贈されています。
日本名 おたけ様(高麗出兵戦利女朝鮮娘・家女)朝鮮名 如薫(ヨーフン)と伝えられます。
後世の歴史家は勝手に推測して、「戦利品として連れてこられた朝鮮女性が儚く異国の地で
果てた」と書く人がいます。
ところが、影親の葬儀の模様を書き残した【大野是水文書】(大龍寺蔵)によると、景親の葬儀を
取り仕切り「喪主」とした采配したのは、「おたけ様」とされます。多分もう正妻は物故だったの
でしょう。おたけ様の墓は今も一学家墓地に朝鮮風墓(頭がカールしてます)として現存します。
大野是水は伊豫大除城主大野直昌(ナオシゲ)の甥、大野直政の子です。
大野直政は能島村上家家老として秀吉の姫路会談に臨み、織田信長の誘いを断り帰国します。
同じ会談に呼ばれた来島村上家はこの誘いを応諾しますので,三島村上分裂と伊予河野家、毛利家
との敵対関係が決定的になりました。来島は後に大名として生き残りました。
*「村上図書家譜録」
武吉 女
黒川五右衛門元康妻
母 後妻来島通康二女・妙三
と記録される女性が『村上海賊の娘』景としてヒットしましたね。
ただこれは単なる「歴史小説」なので史実ではありません。
名前の景も小早川隆景から借用していますし兄の景親を出来の悪い弟として描いています。
ただ、この女性は村上系図では黒川家に嫁いだとしますが伊予黒川系図に見当らず
異本には長曾我部元康妻とあります。黒川家は土佐長曾我部の血も引く伊予河野家
一門ですので幸門城へ輿入れした可能性はあります。
↓
二代 竹松 源八郎 但馬守 河内守
村上元信
慶長13か景親51才の時誕生(1608~1658/4/8)51才
法名 大嶺院殿傑仙全英大居士
室 前田刑部某妻
正保元年4/29卒 法名 光屋栄□大姉
後妻 山田九郎左衛門頼房女
寛文四年5/16卒 法名 清寿院殿高岳妙英大姉
八助依早世継家 母家女(朝鮮女)ヨーフン
慶長15年(1610)父卒去為船手組頭出仕
1618年三田尻転居 明暦4年知行千五百石
元信幼少ニ付、平岡直房後見ス
*兄八助は夭逝のため家を継いでいません代って跡継ぎは元信となりますがこちらも
幼少故、平岡直房が後見人になっています。平岡は伊豫河野家の重臣の一人で
関ケ原の後、周防大島に逃れます。明治維新の時、東京で宮城(皇居)の造営に
当たったのは直房の子孫です。
↓
三代 源八 三郎兵衛
村上三郎兵衛就親
(1624~1652/9/22)35才
法名 清法院殿傑□浄英居士
室 村上能登守元武女
法名 常□院殿妙定大姉
後妻 完戸内匠元親女
母 山田九郎左衛門頼房女
↓
四代 一格 源八 三郎兵衛
村上三郎兵衛景信
(1639~1702/4/2)62才
法名 景信院殿岳桂道薫大居士
室 椙社隼人就徳女
後妻 毛利隠岐就頼女
【大野毛利就頼女・千代子)
【補注・大野毛利系図】
母村上能登守元武女
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五代 三四郎 景富 右衛門 一學
村上右衛門廣庸
(1669~1735/4/13)67才
実 日野七兵衛就幸二男
室 養父景信女
法名 芳心院殿蘭室貞秀大姉
墓・芳心院(浄福寺)五輪塔
東屋代村 芳心院開基
*後裔村上保一郎氏は廣庸の妹とする。(口羽十郎兵衛離縁)
元禄9年2月11日没 (末女廣庸室と混乱カ)
*現在周防大島町東屋代の浄福寺は明治初期に廃物希釈により村上図書家の菩提寺大龍寺と合併され
「龍」と「心」を合わせ現在龍心寺と称されている。
廣庸は養子であるので家の女の室のために室の法名を採りて「芳心院」としています。
彼女の立派な墓は現在の浄福寺にありますが、説明書きは変です。
この寺は四境の役の時は一学家の村上河内隊の宿舎となりました。
大龍寺は村上図書家の村上亀之助隊の宿舎となりました。
↓
忠三郎 外記
村上忠三郎景幸
(生没不詳)
実 熊谷帯刀就實三男
廣庸為養子
就實嫡實敬依夭死帰家
【帰家しているので代数に入れず】
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六代 久千代 右衛門 三郎兵衛
村上右衛門廣信(後廣真)
(1700~1760/3/25)61才
実 内藤孫左衛門元貞二男
室 村上小右衛門武旨養女
實 村上九郎右衛門忠通女
後妻 完戸四郎五郎元安女
母 根来氏女
法名 少林院廓然無聖居士
*後裔村上保一郎氏は著書で「我が家には朝鮮人の血が流れている」と書いて」ありますが、
養子、他家室との婚姻なので「朝鮮女性ヨーフン」の血は途絶えます。
↓
七代 主計 一學
村上三四郎就庸
宝暦13年相続(~)1799年隠居70才
室 内藤又七盛常養女
実 根来帯刀就祐妹
後妻 児玉淡路就恒養女
実 完戸十郎兵衛修包女
母 完戸氏
法名 真法院淳翁理朴居士
↓
八代 村上就房(房周)
(~)1799年相続
実 日野内蔵就景弟
室 養父一學就庸女
後 妻清水長左衛門就周女
*文化12年村上新八暗殺当事者か
庶子
村上新五郎(新八)
法名本源院殿天真自性大居士
同人妻
法名 圓福院殿心鏡智浄大姉
同人嫡男
法名 玉堂自光居士
同人娘
法名光林智明大姉
上記4名文化12年(1815)11月7日落命
この四名は庶家であるが村上家秘伝書を持ち出そうとして発覚し
家来たちが沖の小島へ連れて行き全員処刑したとされます。
この秘伝書とは村上宗家秘伝の「瀬戸内海流」の季節時間別の海流図とされます。
終戦直後、岩国に進駐した連合軍は岩国から直接ランチで和田に来訪し、この書の
在処を尋ねに来たとか。この書は今は行方不明とか。
【村上氏末裔・村上(高橋)四郎氏談】2022年
↓
九代 村上源八郎(熙光)
(生没年不詳)
母就庸女 継家
↓
十代 河内守
村上元福
(生没年不詳)
三田尻から引越、造酒屋創業
↓
十一代 萩・三浦家より
村上河内守有信
(生没年不詳)
四境ノ役村上河内隊長
↓
十二代 村上源太
(生没年不詳)
三宮郵便局長・後家業造酒屋・放蕩
↓
十三代 村上保一郎
(生没年不詳)
教師
↓
十四代 長男)村上公一
(1932~2003)
次男)村上竹次郎
教師
三男)村上文朗(現当主)
四男)村上四郎(高橋家へ養子)
↓
十五代 村上文朗(村上酒店)
*村上海賊記念館認識の現在の三島村上当主
【村上三島記念館発表2016】
能島村上当主(屋代島)
村上文朗(フミオ)
因島村上当主(東京)
村上 典吏子(ノリコ)
来島村上当主
久留島 通則
【本来は三田尻に移った村上図書家の子孫が能島家当主である】
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