摩文仁「平和の礎」から
6月21日午後。N氏から「昼食でもどう?」と誘いがあった。
沖縄そばが食べたいというので首里まで足をのばした。
N氏が以前から「海軍壕」に行きたいと言っていたことを思い出し、
「仕事の都合はどう?平和祈念公園に行ってみないか。帰りに海軍壕を案内するよ」
と誘った。
平和祈念公園のデジタル画像が1枚もないのに数日前気付いていた。
「17時まで帰社すればいいから行きましょう」
とN氏は快諾した。
久し振りの平和祈念公園のアプローチ道路は見違えるように整備されていた。
写真の右側には「記念館」と「平和の礎」がある。
「平和の礎」を前にして、6月23日、「慰霊の日」の式典会場の準備が進められていた。
慰霊の日の式典は、毎年、きょうのような灼熱の太陽が照り付けている。
今年もまた、例年のように暑いだろう。
後方は、各県の慰霊碑が並ぶ摩文仁の丘だ。
無言の碑が並ぶ「平和の礎」。
毎年、多くの人の名前が追加されて碑も増えてゆく。
戸籍や土地の台帳さへ焼失してしまったというから記録はなく、記憶に頼らざるを得ないだろう。
この日は観光シーズン外であった所為か修学旅行生だろう高校生の一団と出合ったほかは
人影はまばらだった。
碑の並ぶ外れに摩文仁の断崖がある。
摩文仁の海と、海を前にして圧倒される数の碑の列。
この広場の真ん中に地図を描いたモニュメントがある。
中央の小さな塔は沖縄の位置に据えられている。
碑は日本人だけでなく米国人などの外国籍のものもある。
帰りに目に付いた碑は「命こそ宝」と沖縄の人たちがよく使う言葉が刻まれていた。
6月23日は日本軍の沖縄防衛軍が組織的戦闘が終結した日であるため、沖縄県ではこの日を終戦としている。
「慰霊の日」は休日である。
灼熱の太陽と碧い空、青い海は、あの頃と同じであったろうと思う。
テレビで放映される震える幼い男の子は、戦場で撮ったものであろうが寒さで震えているわけではないであろう。きっと、恐怖に震えていたのだ。
怯え、すがるような眼差しは忘れられない。
平和祈念公園と戦跡
沖縄 ブログランキングへ