あれやらこれやら いろいろ沖縄

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沖縄の歴史~学童疎開船・対馬丸の記念館に行く~NHKの番組を見て行動する

2014年09月10日 10時04分17秒 | Weblog

 昭和19年8月22日22時12分、学童疎開船「対馬丸」は九州に向かっていて、鹿児島県悪石島沖でアメリカ潜水艦の魚雷攻撃で撃沈された。
 対馬丸記念館が出来たことは知っていたし、テレビや新聞では対馬丸の悲劇を日常的に報じていたが、悲惨な状況を見る気がしなかった。
広島の「原爆記念館」、知覧の「特攻平和会館」、ひめゆりの塔に隣接する「ひめゆり平和祈念資料館」などには一度は訪ねてみたけれど、悲劇だとか、悲惨だとか、可哀想だとか哀れだとか、そんな言葉では表わせ得ない衝撃を受けたからだ。
2度と足を踏み入れたくないと思っていた。
 先月、NHK番組の「証言記録」「市民たちの戦争」で考えすらしていなかったことを知ることになった。
当時、教師をしていた90歳に近い老人の証言であった。
彼女はそれを最近まで決して口にしなかったという。
教師となって1年ほどしか経っていないとき、学童を疎開させることになった。
学童の親たちはこどもを手元に置いていたいと疎開させることを拒んでいた。
彼女はそんな親たちを一軒一軒訪ねて説得して周った。
そうして対馬丸に乗せた子らが亡くなった。
彼女は自責の念に苦しみながら、口外することなく生きてきた。
淡々と語る彼女を見ていると胸がつぶれる思いがした。

 亡くなった当人たちだけでなく、その数倍の数の人たちが関わっていることに気付いた。
記念館に行ってみよう。
数日後(8月23日)、思い立って那覇市にある対馬丸記念館に向かった。






 対馬丸乗船者1,788名中、1,485名がなくなった。
これは平成26年8月22日現在の数字であり、犠牲者の数は増えつつあるという。
犠牲者ひとりひとりの名前が壁面に掲示してあった。





 対馬丸は単独ではなく5隻からなる船団を組んでいた。
護衛艦が2隻、その中に駆逐艦もいたのである。





 昭和19年7月、サイパンが陥落すると軍部は次の戦場は沖縄だと考えていた。







 館内には学童たちの遺品が数点展示されていた。
筆箱や小さな国民服などである。
直視できぬほどボロボロで、撮影する気など起こらなかった。
 40数年も前、観光バスで知覧「特攻平和会館」入り口に置かれている特攻機が目に入った瞬間、突然、婦人が人目も憚らずその場に泣き崩れた。
今でも、その時の光景が浮かぶ。






対馬丸記念館




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