先日、大学の同級生が又一人旅立って行った。
学生時代の友人の一人で、facebookを通じて久しぶりに巡り合い、活躍ぶりを知って、彼の専門分野を知るにつれ、やがて自分がそちらの分野に進もう、戻ろう、と考えていた分野だったので、その時には色々と教えて貰おう、なんて勝手に思っていた。
しかし、志半ばで倒れた。
どれだけ無念だっただろう。
残念だっただろう。
とても胸が痛む。
現役で入学して来た優秀な人物だったので、誕生日を過ぎていても54歳、まだだったのなら53歳の若さだ。
昨夜遅くに最後のお別れに葬祭場を訪れさせていただいた。
お母様と妹さんがいて下さって、学生時代のお話を短い時間であったがさせていただいた。
勉強熱心で一所懸命な人物だったこと、を私が思い出話しでして、ペーパーの方の成績は良かったが、手先が不器用で苦労していたようですよ、と言うお話をお母様がして、母校の教育はとても厳しい学校でしたから皆とても苦労していて、皆そんなに器用な訳でもなく、卒業するのに皆で助け合って、だから同級生は皆結構仲が良いんです、と言うようなお話をさせていただいた。
実際、私はブログの中でも書いている事実だが、卒業直前時に病院長から呼び出し喰らったワースト3、下から数えてのメダリストだった位で、亡き彼はそんなことは絶対になく、優秀な学生で卒業されていた。
その後の進路では、開業医ではなく大きな病院の専門分野の開拓者としてかなりの活躍をされ足跡を残されて来ていた。
しかし、私とはご縁がなく、彼の仕事とか業績は殆ど知ることなく、それぞれの専門分野で頑張って来た。
それがfacebookと言うツールの登場で、久しぶりに巡り会い、彼のしている仕事、専門分野を知って、良い仕事をなさっているなー、とある意味憧れを抱くようになり、話を直接聞いてみたい、と思っていた。
まさかこんな若さで先に逝ってしまうとは、かえすがえすも残念でならない。
やはり、会いたいな、話を聴きたいな、と言う人物には自分から行かないといかん、人生何があるが分からない、思いを残さないようにしないといけないと改めて思い知らされた。
恩師今間司先生が41歳で亡くなられた時にも、私は35歳でその無念の思いを強く強く抱かされ、開業後やはり恩師添島義和先生が73歳でお亡くなりなり、拙著を上梓出来てご推薦の言葉を賜り、志を少しでも継げたかなと思いながらも、もう一度お会いしたかったな、と思った。
自分が亡くなる時には、どう言う人物であったと語られたいのか、どう生きて、どう死んで行きたいのか、と考えさせられた。
と同時に、自分自身は30歳前に大病を患い、死線をさ迷い、九死に一生を得て生還出来て、今も生かされていることを深く感じ入った。
普通だったら、私自身が30前にして死んでいておかしくなかったのに今生きている。
彼は、自分自身の闘病の状態を冷静にfacebookに書かれ、その姿勢には心から感銘を受けさせられた。
その前向きな姿勢から、勝手に帰って来てくれると信じて、帰って来たらラーメンでも食べに行こう、と約束していたが、それも果たせないままになってしまった。
なので、陰膳で供養になるのかなと思い、約束の店で一人彼と食べる筈だったラーメンを食して来た。
とても残念で仕方がないのだが、お通夜にもお葬式にも自分が為すべき仕事があって参列させていただくことが出来ない。
きっと彼なら、分かってくれるだろう、自分が為すべきことを為す、それが生きること生きている者に与えられた使命であり、それを命ある限り果たさないといけないと。
せめてものお別れをしようと、昨夜遅くに葬祭場を何とか行かせていただくことだけは出来た。
安らかなお顔で休まれているご尊顔を見させていただき、かつてのままの彼を見て、ああ本当に亡くなってしまったんだ、と思い知らされた。
進む道、して来た仕事、業績では全く交じり合うことが出来なかったが、彼の足跡には素晴らしいモノがある、と確信している。
まだまだ道半ばで、無念だったろうな、と深く深く感じさせられた。
彼と供に仕事をされて来た方々が、必ずその道は継いで下されることだろう。
私自身も、やがてはメスを置く時が来て、その時には彼の関わった仕事の一端に関わらせていただくことになるだろう。
生涯勉強、生きている限り使命を出来る限り果たす。
当たり前のことなのだが限りある命をどう生きるのか、使うのか、に邁進して行くことが、最大の供養になるだろうと信じて、私は私の道を行こう。
今生では再び会うこと叶わなくなってしまったけれど、彼の残した志も私の胸に入れて。
今は安らかにお休みください。
合掌