移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ
2021年4月のクイーンズタウ
ン3日目。
クロムウェルを出て
クイーンズタウンに戻る道す
がら見かけたブラックボード
オーストラリアのいとこ歓迎
直訳ならcousinは『いとこ』
でも英語だと遠縁から近親ま
で使われ、そもそも血縁では
ない友だちまでcousinとか。
きょうだいよりはちょっと遠
く、友だちより近いイメージ
コロナ禍で外国人観光客がい
なくなる中、せめてオースト
ラリア人🦘が戻ればという熱
い期待が込められています。
カワラウ渓谷金鉱センターと
いう場所で、古の金鉱が史跡
として保存されていました。
それを観光地化して金鉱ツア
ーや金すくいもありました。
しかし時間が遅く全部OUT
周辺散策だけはできました。
規模も掘っていたものも違う
とはいえウエストコーストの
ブルナー炭鉱を思い出す川の
色、橋、両側に広がる史跡。
カワラウ川は早々にブームが
終わった
ショットオーバー川
と違いブームが去った後も細
細と採掘が続いたそうです。
NZ南島は1850年代から金が
見つかり始め、ここはギース
フラット(ギーの平地)と呼ば
れ、金を発見したギーの名が
冠されていますが、彼が誰で
いつ、どれぐらいの財を築い
たのかは、わからないそう。
男たちはここに住みながら、
金を探し続けていたそう
彼らは橋やトンネルやダムを
築き、水力を利用して機械を
操作し富を追い続けました。
当時の滑車も残っていました。
採掘は100年以上続いたそう。
ゴールドパニングと呼ばれる
たらいで金をすくう方法。砂
を流し出し金をより分ける。
今では一帯は国が管理する史
跡ですがツアー客は金すくい
ができるそう。小さな金塊が
見つかることもあり金箔は日
日見つかるそう。やりたい
帰り道で見かけた小さな水力
発電所、ローリングメグ水力
発電所。NZでは早くから豊富
な水力を利用した小規模水力
発電所の建設が進み、南島で
は金鉱業者や灌漑業者との共
同で小発電所ができたそう。
ここは民間業者パイオニア電
力所有。最大出力4,000kW超
でそんなに小さくないかも
1957年に国の送電網につなが
るまで一帯唯一の電力供給業
者だったというからスゴい
条件さえ揃えば、大きなダム
を建設しなくても水力発電は
できる
というのをNZに来て
からあちこちで目にします。
長い1日を終えて夜ごはんは
ホームメードパスタ専門店の
イタリア料理
ジオビ
いろいろなパスタがあり最近
この手のイタリアンが流行中
サラダ
マルゲリータ
店のお勧めだったパスタ
①サラダ➁ピザ③パスタの順
で気に入りやはりパスタはア
ルデンテができる乾麺好き
デザートは柘榴チーズケーキ
2021年4月のクイーンズタウ
ン3日目。どこも絵はがきの
ように美しい
ワナカを出て、
旅行の前から行こうと決めて
いた場所に向かいました
国道6号線の両脇、延々と続
く果樹園。リンゴかモモかな
あれはブドウ棚なんだろうか
ワイナリーとはまた違う眺め
果実が実り、守るような山
それ以外は人っ子一人いない
場所でクルマもごくわずか。
カード決済の無人販売所
到着したのはセントラルオタ
ゴのクロムウェルという場所
果実の郷として知られます。
なぜここに来たかったのかと
言うと、かつてのボランティ
ア仲間がここのどこかの老人
ホームに入居したからです。
といってもそれは6、7年前の
話で、元気ならすでに93歳。
どこのホームかも知らず、会
うことはかないませんでした
が、彼女が踏んだ大地を私も
踏んでみたいと思いました。
彼女のニックネームはミリー
クロアチアからの移民で本名
はミリアムではなかったか
ボランティア先のチャリティ
ーショップで知り合い、数年
一緒に働きました。気さくで
分け隔てのない大らかさと芯
の強さを持つ苦労人でした。
彼女は第2次大戦前にNZの伯
父さんを頼り、10代前半で海
を渡りました。パスポートを
取りに行ったときに、オウム
がカードを引く占いがあり🦜
「地の果てまで行く」
「男に苦労する」
というカードが出たそうです。
「私の人生はその通りだった」
とミリーは言っていました。
地の果てのNZに引き取られ、
伯父宅で苦労し、結婚相手に
も苦労させられて離婚。女手
一つで娘を育てあげました。
2014年の85歳のときに交通
事故に遭い、多数の骨折と片
耳を失う大けがを負いながら
その後ボランティアに復活し
たものの、心配した娘が母親
を説得して、嫁いだ先のクロ
ムウェルに引き取ることに。
ミリーは最後までオークラン
ドを離れることに抵抗してい
ましたが、自分でもちょっと
した接触事故を起こし免許を
返納しなければならなくなり
独り暮らしを断念しました。
その後、隣人だった母子がク
ロムウェルまで彼女を訪ね、
「元気にしている。新しい生
活を気に入っているらしい」
と、知らせてくれました。
ミリーの本名は複雑でクロア
チア語の名前+旧姓で、入院
したときも本名を知らなかっ
たため、個人情報保護のため
問い合わせや本人確認を拒ま
れ、別のルートで入院先を知
り、私は本名を知りません。
クロムウェルにたくさんの老
人ホームがあるとは思えませ
んでしたが、本人の消息を探
しあてるよりも、彼女が心安
らかに受け入れた場所に立ち
彼女を想うことにしました。
誇り高き人ミリー
出会えて良かったです。
2021年4月のクイーンズタウ
ン3日目。山越えのコースで
カードローナを出たあとは、
ワナカに到着
雪を頂くアルプスとワナカ湖
カフェに飛び込んでまず1杯
そしてランチ
スローフードのビッグフィグ
食事の素晴らしさもさること
ながら、ここはテイクアウト
用のコーヒーカップがない
使い捨てを見直す時代にナゼ
あの紙コップが減らないのか
便利さを優先して、使い捨て
を助長しているだけなのでは
紙コップの代わりに、
店内で飲むか
カップを借りるか
カップを持ち込むか
というのを提唱しています。
地元の固定客や時間のある観
光客の多い地方の店では積極
的に取り入れてほしいです🙏
コロナ前ラグランのシャック
がマグを貸し出す、
マグライ
ブラリーをやっていました。
(※写真は2019年。カウンター
下のマグは自由に使えます)
ワナカはクイーンズタウンか
らクルマで1時間ほどの場所
この景観から観光地としてだ
けでなく別荘地として人気
著名人がこぞって別荘を建て
たり、結婚式を挙げたりでも
有名な場所ですが、縁がない
のか(笑)クイーンズタウン3
回目にして初めて来ました。
まずは湖畔散策へ
透き通るアイスブルーの水
柳の下にはマガモがいっぱい
聞きしに勝る美しさです
山あり湖ありでも北島の別荘
地タウポとはまったく違う
どちらもボートがいっぱい⛵
湖畔を歩く夫にグワグワと鳴
きながら付いて来るカモの番
何かくれそうに見えたのか
NZで最も有名な木と言われる
ワナカツリー
湖の中に生える柳の木
私は知りませんでした。
英語では#thatwanakatree
(あのワナカの木)として知られ
みんな写真を撮っていました。
ブラインドやカーテンが閉ま
って人の気配がない家が多く
オフシーズンの別荘地らしく
生活感のない箱物が続く場所
あまり心惹かれるものがなく
次の場所へ
2021年4月のクイーンズタウ
ン3日目。
ロワーショットオ
ーバーを出てやって来たのは
ヘイズ湖
鏡のように静かな湖面
地上が水中に映し出されます。
マオリ語の湖名はワイ・ファ
カアタ(映し出す水)だそう。
英語名はドナルド・ヘイとい
う人名が由来。ヘイはスコッ
トランド出身でオーストラリ
アの測量士兼探検家でした。
植民地化は探検家、宣教師、
測量士から始まる
と思うほ
ど、地形や地質を調べ、その
土地が所有(先住民にすれば
略奪)に相応しいかどうかを
見極める仕事は重要でした。
ヘイは金が見つかる前の1859
年に牧羊に適した土地を探し
にワカティプ湖から簡単な舟
で下ってきたものの季節は冬
吹雪に遭って命からがらクイ
ーンズタウンに戻り、後日ダ
ニーデンの土地局に行きリー
ス契約を結ぼうとしたら、す
でに局内の誰かが場所も見ず
に契約を結んでいたことを知
り、失意のままオーストラリ
アへ戻り、『ヘイの湖』とし
てその名のみを残しました。
おとぎ話に出て来るような、
近くのとんがり屋根の家🏡
ここからクラウンレンジとい
う山越えの道に向かいます。
T字路になったアロージャン
クション。縦の6号線から山
道クラウンレンジに入って
ヘアピンカーブを抜けて、
アロージャンクション展望台
何度も思う。まるで箱庭
見飽きない美しさが広がり、
ずっとボーとしていたい(笑)
屏風のように雪山が迫ります。
荒涼とした山の中の緑の中に
まさかの1軒屋がありました。
さらに山を上って行きます
到着したのは、カードローナ
1863年創業の
カードローナホ
テルは地元だけでなくNZのア
イコンのひとつ。食事だけで
なく、今でも宿泊できます。
歪んで見えるのは本当に歪ん
でいるからで、見事な曲線
薪の量に冬の厳しさが偲ばれ
近くには有名なスキー場も🎿
かつての雑貨屋兼郵便局
1871年創業
かつての学校
今はショップに
カードローナホール。地域の
集会場兼かつては教会でも?
そして到着したもうひとつの
アイコン。
ブラドローナ👙
NZ乳がん協会のための地域を
挙げての支援活動で今や有名
な観光地。賛同する人がブラ
と募金
を残していける場所
何千枚という数なのでしょう。
国名や名前が記されたブラも
デザインも大きさもバラバラ
それが連なる山中の熱い善意
「よっしゃ」
と、ここで一肌脱いだ女子も
たくさんいたことでしょう。
女性として乳がんは決して他
人事ではありませんからね。
2021年4月のクイーンズタウ
ン3日目。朝は街中のカフェ
で簡単に済ませさっそくGO
@
ビュデュカフェ&ラーダー
朝昼晩、いつ見ても美しい
南アルプスとワカティプ湖の
組合せが他にはない景観を生
み出しているのでしょうか。
建物が小さく見えれば見える
ほど山の雄大さを感じます。
やって来たのはロワーショッ
トオーバーという、有名なシ
ョットオーバー川下流エリア
穏やかに見えますが岩の削ら
れ具合に水量がしのばれる
川はこのままワカティプ湖か
ら唯一流れ出る、カワラウ川
に注いで行くんだそうです。
(※川に唯一掛かる国道6号)
こんなに浅そうなのにジェッ
トボートツアーがあります
💛型の中州
アイスブルーの水と砂の河原
そして黄葉、緑、雪山、青空
前日行った
コロネットピーク
標高1,651m
さらに遠くの雪山の頂
ロワーショットオーバー橋
ショットオーバー川は1862年
にここより上流のアーサーポ
イントで金が発見されたため
一躍その名を轟かせました。
むかしはここから渡し舟が出
ていたので、ホテルや学校ま
でありホテルは大いに繁盛
それだけ川を渡る需要があり
橋の建設は必至で1871年完成
しかし、高さがなく1878年の
洪水で流されてしまいます。
ゴールドラッシュが短命(18
64年にはウエストコーストで
金発見)で終わってしまった
せいか、橋が流されてから31
年後の1909年に再建決定
しかし、技術上の争議や洪水
による破損で、計画は遅れ💦
1915年にやっと完成したそう。
完成当時の頃に通過する馬車
橋は1975年に150万ドルをか
けて補修され、現在のものに
全長172m、高さ16m
これは建設途中で壊れた2番
目の橋の橋脚の一部だそう。
穏やかな流れですが、広い川
幅が水かさの増した時にどれ
ほどになるかを物語ります。
今は橋の両岸とも何もなく、
ひっそりとした遊歩道に。
2021年4月のクイーンズタウ
ン。元よりクルマで約20分の
アロータウンを気に入ってい
たのは、クイーンズタウンの
街中と対照的な静かさと、南
アルプスにはない緑でした。
それが紅葉の真っ盛りで花盛
りのような鮮やかさでした。
山全体が燃えるように輝き、
何枚撮ろうが
収まらない。
しかし、これらの樹木の大半
が西洋人が持ち込んだ外来種
管理されないまま樹林化し、
NZ固有種や生態系を脅かす
という問題も生んでいます。
(※上を放置すると樹種の単
一化で森を棲み処とする生き
物にまで影響が及ぶそう。)
今では民間団体が自治体と共
同で樹林化する樹種を伐採す
る活動を進めており、最終的
には固有種と樹林化しない外
来種の多様化で、町が誇る紅
葉を保つことを目指すそう。
(※この100年での顕著な変化)
一帯には4kmちょっとの遊歩
道がありました。西洋人のオ
タゴ入植150年を記念し、19
98年に自治体が整備したもの
アロータウンで金が見つかっ
たのは1862年でした。ゴール
ドラッシュがウエストコース
トに移って行ったのが1864年
なのでラッシュは短命で、中
国人がやって来たのは
1865年
(※西洋人の金鉱労働者)
その辺を軽く散策して遊歩道
を歩くのはまた次回にでも
スケボーパークの少年たちは
圧倒的にキックボード派🛴
みんな、うまいうまい
アロー川
こんな光景も絵になります。
ナンバープレートがあるので
いまだに現役のようです
色づく山を背景に絵のような
光景。家の窓から見る景色は
さぞやステキなんでしょう。
売家もありました。
かなりが別荘かエアーB&Bか
1993年に初めてNZに来たとき
この辺りの戸建ての可愛いコ
テージが軒並み数百万円で、
「これって外国人も買える?」
と、思わず身を乗り出しそう
になった思い出があります。
冬の寒さは大変でしょうが、
観光客には心躍るような眺め
村の中心に戻って来ました。
この建物は金が見つかった年
に建てられたもの。にわか金
成金が大勢出たんでしょう。
コロナのせいか時間帯のせい
かすでに閉まっていたカフェ
こちらの店に救われました。
@
ディシェリー
「変わった、変わってない」
と外を眺めながらコーヒー
クイーンズタウンに戻り、
ワカティプ湖湖畔へ。
ここが世界的観光地になって
きたのがわかる独特の美しさ
コロナ後の混雑が目に見える
ようで、今頃はオーストラリ
ア人が押し寄せているのか。
ランチを堪能したので夜は再
び簡単にベトナム料理で🥢
@
サイゴンキングダム
混み合う観光地のド真ん中で
当たらなくても外れない
手頃感とスピード感があるの
がアジア料理のありがたさ。
夜は寒くそそくさとホテルへ
NZ随一のリゾート地となった
華やかなクイーンズタウン。
150年前の19世紀には生きる
か死ぬかでここにたどり着い
た中国人たちが、小川のほと
りに小さな中国農村を造り、
人種差別から逃れるように隠
れるように自給自足生活をし
ていた史実とのコントラスト
2002年に家族で訪れた時に
中国人移民博物館のようなも
のがあったような朧げな記憶
があります。しかし、子ども
も小さく時間も遅く、立ち寄
ることなく立ち去りました。
8歳になったばかりの長男
5歳直前の次男
(※夫に抱っこされての1枚)
長男は小川、ブッシュクリー
クで金を見つけると張り切り
次男は足が濡れるのさえダメ
行くも地獄、残るも地獄だっ
た19世紀に広東省を出た移民
故郷に残った女子ども、年老
いた親たちの先行きは男たち
次第で、送金を待ちわび、最
悪の場合2度と彼らに会うこ
とはありませんでした。NZの
中国人金鉱労働者の約7人に
1人はNZで亡くなったそう。
1881年に人頭税が導入される
と、中国人1人当たりの入国
には100NZポンドが課され、
これはまさに移民たちが故郷
に帰るために必要な資金とほ
ぼ同額で、本国から妻を娶る
のは、夢のような話でした。
ゆえに1911年でも国内の中国
人女性は50人足らずでした。
(※1911年の写真)
人頭税は1930年代の日本の中
国侵略により実質的に破棄さ
れ1944年に撤回されました。
オタゴの金は1890年までに取
り尽くされ、多くの中国人が
帰国し、一部は
ウエストコー
ストに移りました。アロータ
ウンに残った者の中には野菜
を育てて売り歩く青果商とし
て身を立てる者もいました。
(※杖をつきつつ天秤棒を担
いで行商する老いた中国人)
NZでは1898年から国の老齢
年金支給が始まったものの、
中国人は対象外で、老いても
相互扶助に頼るのみでした。
(※高齢の中国人居住者)
死者が出るたび比較的裕福な
中国人の間で募金を募り、遺
体を本国送還していました。
(※募金を募るための手紙)
しかし、1902年に500人の遺
体を載せた最後の輸送船は北
島で難破してしまいました。
住人のいなくなった中国人居
住区は荒れ果て、土に埋もれ
て忘れ去られていきました。
100年近い歳月を経て史跡と
して整備されたことは、非常
に貴重なことだと思います。
彼らも秋にはこの紅葉
を
目にしていたのでしょうか。
明治生まれの鹿児島出身の父
方の祖父が、若い頃はカナダ
に移民しようとしていたと数
年前に知り、行き先は違えど
親族の中では唯一孫の私が海
外移住を果たしたことに、深
い因縁を感じたものでした。
行くも地獄、残るも地獄だっ
たら、私は迷わず行きます。