NZ随一のリゾート地となった
華やかなクイーンズタウン。
150年前の19世紀には生きる
か死ぬかでここにたどり着い
た中国人たちが、小川のほと
りに小さな中国農村を造り、
人種差別から逃れるように隠
れるように自給自足生活をし
ていた史実とのコントラスト
2002年に家族で訪れた時に
中国人移民博物館のようなも
のがあったような朧げな記憶
があります。しかし、子ども
も小さく時間も遅く、立ち寄
ることなく立ち去りました。
8歳になったばかりの長男
5歳直前の次男
(※夫に抱っこされての1枚)
長男は小川、ブッシュクリー
クで金を見つけると張り切り
次男は足が濡れるのさえダメ
行くも地獄、残るも地獄だっ
た19世紀に広東省を出た移民
故郷に残った女子ども、年老
いた親たちの先行きは男たち
次第で、送金を待ちわび、最
悪の場合2度と彼らに会うこ
とはありませんでした。NZの
中国人金鉱労働者の約7人に
1人はNZで亡くなったそう。
1881年に人頭税が導入される
と、中国人1人当たりの入国
には100NZポンドが課され、
これはまさに移民たちが故郷
に帰るために必要な資金とほ
ぼ同額で、本国から妻を娶る
のは、夢のような話でした。
ゆえに1911年でも国内の中国
人女性は50人足らずでした。
(※1911年の写真)
人頭税は1930年代の日本の中
国侵略により実質的に破棄さ
れ1944年に撤回されました。
オタゴの金は1890年までに取
り尽くされ、多くの中国人が
帰国し、一部はウエストコー
ストに移りました。アロータ
ウンに残った者の中には野菜
を育てて売り歩く青果商とし
て身を立てる者もいました。
(※杖をつきつつ天秤棒を担
いで行商する老いた中国人)
NZでは1898年から国の老齢
年金支給が始まったものの、
中国人は対象外で、老いても
相互扶助に頼るのみでした。
(※高齢の中国人居住者)
死者が出るたび比較的裕福な
中国人の間で募金を募り、遺
体を本国送還していました。
(※募金を募るための手紙)
しかし、1902年に500人の遺
体を載せた最後の輸送船は北
島で難破してしまいました。
住人のいなくなった中国人居
住区は荒れ果て、土に埋もれ
て忘れ去られていきました。
100年近い歳月を経て史跡と
して整備されたことは、非常
に貴重なことだと思います。
彼らも秋にはこの紅葉を
目にしていたのでしょうか。
明治生まれの鹿児島出身の父
方の祖父が、若い頃はカナダ
に移民しようとしていたと数
年前に知り、行き先は違えど
親族の中では唯一孫の私が海
外移住を果たしたことに、深
い因縁を感じたものでした。
行くも地獄、残るも地獄だっ
たら、私は迷わず行きます。