『シャーロック・ホームズ対伊藤博文』 講談社文庫 2017年6月
松岡圭祐著
シャーロック・ホームズのパスティーシュです。
松岡氏の著書に関しては「千里眼」シリーズ等を読んだ経験がありますが、あの作風から”シャー
ロック・ホームズ”パスティーシュを?と一瞬結びつかなかったのです。
ただ、あらゆるパスティーシュに手を出すワタクシとしても、これは外せないッ!と手に取りました。
この作品は、タイトル通り、シャーロック・ホームズが明治の偉人伊藤博文とタッグを組むという意
表をつくコンセプトで、かのミステリー界の巨匠にしてシャーロッキアンとしても有名な島田荘司氏
をして「これは歴史の重厚に、名探偵のけれんみが挑む興奮作だ。シャーロック・ホームズが現実の
歴史に溶けこんだ。いかに彼は目撃者のいないライヘンバッハの滝で、モリアーティ教授に対する正
当防衛を立証し、社会復帰しえたのか。日本で実際に起きた大津事件の謎に挑み、伊藤博文と逢着す
る正典のあらゆる矛盾が解消され論証される、二十世紀以来最高のホームズ物語。」とまで言わしめ
て推奨分を寄せている様に、ミステリーと歴史小説、フィクションと史実が高いレベルで融合した
エンターテインメントに仕上がっていると思わせられました。
伊藤博文は歴史の教科書での知識しかなく、又大津事件も あ~そんな事あったっけな位のお粗末な
知識しかなく(恥)、今回この作品を読むにあたって 改めて少しだけ情報見直してみました。
伊藤博文は1841年~1909年、大津事件が1891年に実際に起こった事件 それらに、かのシャーロック・
ホームズが登場し事件を解決するという、フィクションとノンフィクションを融合させた思いもよらぬ
作品です。
シャーロック・ホームズに関しては、正典”The Final Problem”「最後の事件」でモリアーティー教授
と対決し、ライヘンバッハの滝壺に落ちて死亡したと言われる1891年5月4日から”The Empty House”
「 空き家の冒険」で復活する1894年4月までの3年間が”The Great Hiatus”(大空白時代又は”大失踪
期間とも”)と言われ、後にホームズもその間チベットを含む世界各地を訪れていたと語っていること
からも、大津事件の時に日本を訪れていたという点に関しても時間的な齟齬は無い訳ですね。
(但し、両作品の発行時期に関しては実際には10年間ある訳ですが、この点に関しても最後にきちんと
ワトソンの説明として明らかにされています)
これからは一部ネタバレありますのでお含みおき下さいマセ。
冒頭は、ライヘンバッハでのホームズとモリアーティーの決闘のシーンですが、この場面も正典では語り
つくされていなかった2人の心情がそれぞれの視点で詳しく語られています。
(この場面も「グラナダ版」のシーンが彷彿とさせられます) ※この時ホームズは37歳(もっと年上と
思い込んでいた)
モリアーティーが死亡し、1人生き残ったホームズはモリアーティーの手下モラン大佐から逃れ、身を隠し
ながら逃亡生活を送るうち 兄のマイクロフトの手助けにより秘密裏に日本に向かい長く厳しい船旅に出
る事になる。
何故日本だったのか・・・マイクロフトの指示で日本の伊藤を頼る様にと。
それに関しては、1864年に遡る。
当時22歳の伊藤春輔(後の博文)は仲間と共に密航の末ロンドンに滞在中であった。
街中でならず者に絡まれていたホームズ兄弟(兄マイクロフト17歳、シャーロック10歳)を助ける事にな
るがその時のホームズ兄弟の描写には思わずニヤリとさせられる。 その時のシャーロックの言葉「繁殖
した牡蛎が何故埋め尽くさないのか・・・・」(※ 確か「瀕死の探偵」からの引用ですね)を始めとする
既に後の天才振りを彷彿とさせられる兄弟二人のやり取りが嬉しい。
この事件の際日本の柔術で3人の男をたたきのめした伊藤は、シャーロック少年にとってヒーローであり、
恩人となったのだった。
帰国後伊藤は激動の日本において要職を歴任し、名前を博文と改名していたが、その後再び渡欧の機会を
得る。当時41歳。
伊藤は昔懐かしさにホームズ兄弟に会おうとするも、政府の要職についていたマイクロフトからは断られ、
その代わり探偵という職業についているというシャーロックに会う為ベーカー街221B を訪れる事になる。
ホームズの帰宅を待つ伊藤が見たホームズの部屋の中の描写が又嬉しい。 きちんと正典通りの描写が
細かく書かれている。
(その中で、伊藤が見つけた”大きく捻じ曲げられ、その後元に戻そうとした様子の火かき棒” ←これを
見て、お~ッ! ロイロット博士か!と気付きます。)
そしてそんな中ホームズとワトソンが帰宅するのですが、その時の会話は正に「まだらの紐」を解決した
直後の様子。
ホームズとワトソンの外見も正典通りの描写がされている。
ただ、この時ホームズは伊藤と認識しているにも係わらず 酷く冷酷な無関心な様子で伊藤の私生活等を
推理して暴き出すのみ。(女遊びが目に余る・・・等)その原因は若き日英国に渡る前に日本の公使館焼
き討ちに伊藤が関わっていた事に対する怒りもあった。
失望して去る伊藤を送り出しコカインに手を出すホームズ。
長い過酷な航海の後疲弊した状態で日本に到着し 伊藤の元を訪ねあてたホームズを驚きながらも暖かく
迎えた伊藤家に滞在する事になったホームズ。 当時総理大臣を辞め 枢密院議長となっていた伊藤。
伊藤の妻梅子をはじめ娘の朝子、生子も皆英語を話す事が出来た為意思の疎通には困らなかったが、伊藤
家の複雑な家族構成を即座に推理するホームズ。つまり、梅子にとっては生子は実の娘だが朝子は伊藤の
妾の娘。
梅子自身も元は芸妓であったという伊藤。(やはりなかなかの艶福家であったらしい伊藤。 知らなかった)
そんな折、ホームズが航海中に大津で起きたロシア皇太子ニコライの暗殺事件があった事を聞かされた。
皇太子を襲った犯人の津田は捕えられ無期懲役の判決が下り取りあえずは決着したと思われた事件が4か月
後 突如ロシアが態度を一変させあわや戦争に突入かという危機に陥るが ホームズは事件の真相を追う
べく鋭い推理を働かせ事件の真相に迫っていく。
殆どは史実の通りの様だが 予想外の展開を迎えるあたりはこの作品ならではの躍動感にあふれている。
お台場沖に集結したロシア艦隊9隻の名前を探り出すホームズの推理はなかなか難しくてちょっとついて
行けない(汗)
再びコカインに手を出そうとしたホームズを叱責し止めさせようとする伊藤が、その代わりに自分の夜
遊びを辞めると約束する彼の固い決心を聞き ホームズも感動して、その後一切コカインに手を出さな
くなったという。
英国ではモリアーティー教授殺害容疑が掛けられ、モリアーティーの弟(ジェームズ・モリアーティー
即ち駅長をしている弟)から損害賠償請求訴訟を起こされ裁判に掛けられる怖れがあるホームズは日本
でも名前を知られることを避けなければならず、生きている事を母国に知られない様にしなければならない。
その上モリアーティーの残党であるモラン大佐他の暗躍も予想されるというジレンマに陥るホームズ。
兄マイクロフトに対する不信感、反発も事件で係る事になったニコライ皇太子兄弟の姿に重ね合わせて
いる様に思えるが、その後兄に対する気持ちに変化が見られるようになる。
母国に思いを馳せ 2度と帰国出来ないかも知れない、或は帰国したとしても投獄されるかもしれない
いう怖れと時折寂しさを覚えながら 日本語も分からないながら伊藤の助けとなり事件を解決しようと
するホームズの姿が生き生きと描かれている。
大津事件の犯人津田が獄死した後死因を調べる為汽車の長旅を経て1人釧路集治監迄訪れる事になる。
ロシアの軍艦に乗り込む再には伊藤も自ら武器を持ちホームズに同行するという行動派。
その際ホームズが「かつてテムズ川で追跡したオーロラ号より大きいが・・・と思い出す言葉は、正典
”The Sign of Four”「4人の署名」から!
思いもよらぬ2重3重のどんでん返しを経た後、ホームズの活躍によりロシアとの戦争も回避され、
事件は終結する。
日本を去る時に伊藤から渡された手紙はヴィクトリア女王の署名入りの恩赦によるホームズに対する
起訴取り下げ。 伊藤その他の働きによるものだった。
感動したホームズは、その上に伊藤によりダライ・ラマ謁見の許可も得た。(正典通りチベットに
寄ることになる)
1894年春3年振りにロンドンに帰国し 久々に221Bに戻ったホームズ。
ハドソンさんとの再会は正典通りで、同時に「グラナダ版」をそのまま思い描かれるシーン。
そして、2階の居間にはマイクロフトが待っていた。
ぎこちない再会でホームズは素直にマイクロフトに感謝の言葉を掛けられる様になっていた。
この2人の会話は感動モノ。
そして、ワトソンに会いに行く場面も正典通り。 そしてこの場面も「グラナダ版」を彷彿とさせる。
そして、正典”The Empty House”「空き家の冒険」のクダリは、やっと執筆の許可が出たという10年後
のワトソンの手記として引用されている。
(これで実際にストランドマガジンの出版期間10年の空白の意味に言及されている)
兎に角面白かったです。
歴史の本の中で読んだ維新後の近代史で活躍した人物たちが フィクションを交えながらも生き生きと
した形で活躍し、その中に架空の人物であるシャーロック・ホームズが無理なく溶け込んでいる。
正典のホームズのイメージを損なわず人間的な部分も加えながら活躍する様子は ホームズが実在
したかの様な感じまで抱かせられる。
そして、日本での経験を踏まえ人間的にも成長する姿は ホームズらしさを引き立てている。
そんな中、正典からの引用、踏襲も多く それらの箇所を見つける度に思わずニヤリと嬉しくなる
というおまけ付き。(上記で触れた以外にも、「青い紅玉」、「「ギリシャ語通訳」等からの引用
もあります)
ライヘンバッハでの決闘や3年間の空白期間等正典内で十分に説明されていなかった矛盾や不明な点
に触れられている事も魅力になっています。
又、兄マイクロフトとの関係においても、シャーロックの兄に対する不信感や反発も日本での経験
を経て変化し、221B での再開のシーンでお互いにギクシャクしながらも少し心のウチをさらけ出し
2人ともがぎこちないながらも素直に本心を口に出すクダリは 個人的にこの作品の中でも特に好き
な部分でした。
正典を知らなくても(知っていれば尚嬉しい)、或は実際の史実を覚えていなくても十分楽しめ
るとは思いますが、維新後の近代史は受験勉強の期間と重なった為か殆ど素通りで良く理解して
いなかった者としては 今回、実在の政治家たちがフィクションの部分を含め如何に日本の近代化、
復興に情熱と力を注いでいたかを感じ、改めてこの辺りの歴史を勉強し直してみようかと思わせ
られました。
映像化を期待する声、そしてその場合のホームズはジェレミーで・・・という願望も目にしました。
ワタクシもジェレミーの姿を重ね合わせながら読んでしまいました。
是非ジェレミーのホームズで・・・ってか・・・こればっかりは無理!(涙)
最後のもう一度、フィクションとノンフィクションを融合させながら重厚であり、エンター
テインメントとしても一級と感じるこの作品はホームズのパスティーシュの中でも特に気に
入った作品の一つになりました。
ご紹介いただいて、すごく面白そうだったので、思わず買ってしまいました。まだ最初の方しか読んでいませんが楽しめそうです♪読書ペース多分遅いですが、少しずつでも読み進めたいと思います。ご紹介ありがとうございました!
あ、そうですか、お買いになったんですね? 気に入って頂けると良いんですけど・・・・
ワタクシは松岡氏の他の作品を読んでいたので この作品は意外な感じを持ちながら読みました
が、凄くしっかり正典を読みこんでレスペクトしていらっしゃる様に思いました(何かエラそうな事
言っちゃいますけどど・・)何処かの誰かさん達も見習って欲しい!
アチコチに散りばめられている正典ネタが楽しいです。 ただ・・・近代史に弱い者(汗)としては脳
味噌の奥底に仕舞われてしまっていた歴史上の人々の名前にぶつかり その都度記憶を呼び戻
すのが少々大変でしたけど(恥)
個人的な思いですが、ホームズはジェレミーの姿そのままを思い浮かべながら読んでいました。
読み終わられたら、Mistyさんの感想を是非是非聞かせて下さいね。 楽しみにしてます♪
普段パスティシュは読まないのですが、これは素直に楽しめました。
伊藤博文が魅力的でしたね~
お読みになったんですね。 私もこの作品は好きでした。
パスティーシュは何となくホームズの暗い面を描いた作品が多い様に思うのですが、この作品は
正典由来の各エピソードを瑕疵なく突き詰めて、松岡氏がかなり正典を読み込んでいらっしゃる
様子が窺がえて嬉しかったです。
「まだらの紐」のヘビの件も無理なくオチをつけた点も納得でしたね。
確かに伊藤博文がとても魅力的に描かれていて、ホームズとの行動も違和感なく読めました。
苦手な近代史をチョット身近に感じられたような気がします。
明治の政治家の中でも、伊藤博文の性的なスキャンダルは特にひどかったらしいです。鹿鳴館の夜会から裸足で逃げてきた某貴族夫人は、伊藤に迫られたからだ、みたいなのが、あの時代の新聞にはバンバン載ってました。だからいまいち彼には好意的になれないんですが・・・ホームズは出ないけど、この時代の日本を舞台にしたエンタメなら、山田風太郎の明治小説がお勧めです。
パスティーシュでは最近『シャーロック・ホームズ殺人事件』上下 グレアム・ムーア ハヤカワ文庫を読みましたが、ボツでした。古本屋にお行き、です。
そうでしたか、お読みになってなかったんですね。
ワタクシも半年前以上に読んだので既に霧の彼方なんですが(最近とみにすぐ忘れます)。
ミステリー作家の方は皆様正典を押さえていらっしゃると思うのですが、松岡氏が意外にシャー
ロッキアンでいらっしゃったのは予想外でしたが、楽しめました。
正典ネタとのリンクに気付くのも楽しみです。
伊藤博文公の女性問題は今回初めて知りましたが、かなり有名だった様ですね。
でも、この作品ではこの点もチラリと含めながら別の面も描かれていて興味深かったです。
グレアム・ムーアの「シャーロック・ホームズ殺人事件」は迷ったんですが概要を読んでイマイチそ
そられなかったのでパスしていましが。
>ボツでした。
やはりそうだったんですね。 読まなくて正解でした。
そして彼が最後の皇帝となり、最後は一家惨殺という恐ろしい運命が待っていると思うと・・・
ホームズ・パロとしては、やはりホームズ兄弟の確執の描かれ方が、非常に納得も行き、感動的でもあります。無残な別れの後の、ホームズのいじけっ子ぶりが可愛くて、ベイカー221bの再会シーンは、脳内でマイクロフトがゲイティスさんになっちゃいました。
伊藤博文美化されすぎだぞ、という気もしますが、明治の政治家はセクハラも山のようにしたとしても、いまとは比べものにならないくらいお仕事もしてるよね。
ともあれここで教えていただけなければ、スルーしてしまった作品でした。感謝感謝。
半年以上前に読んだので記憶が曖昧になっているのですが、私も好きな作品でした。
兎に角、大津事件の時期とホームズの”大空白時代”の接点に目をつけられた発想が素晴らしいと感じ
たし、そして、正典では不十分であった幾つかの点に決着をつけられていたのも無理なく納得させられたり
と、色々と満足させられますね。
伊藤公も実像とは異なる描き方なのだと思いますが、人間味あふれる魅力的な人物として描かれていた
様に思いました。ホームズの性格も、内面の葛藤や不安も含め齟齬が無かったし、違和感も感じられませ
んでした。又マイクロフトとの関係も納得いく形で、最後はかなり感動モノでしたね。
ホームズパスティーシュはトンデモを含め色々読んでガッカリしたり、時には怒りすら覚える作品もあるのです
が、この作品は非常に面白かったし、とても好きな作品でした。
古い記事を見つけ出して下さって有難うございました。
この本をお買いになったと仰っていたのは覚えていたんですが、その後感想は窺っていなかった
ので どうだったかな?と思っていました。
何とも情けない事に、す~っかり忘れてしまっていて、コメント頂き改めて自分が書いた事を確認
してしまいました(汗) 何を書いたのか全く覚えていないと言うテイタラクでして。
本当に歴史上の人物とホームズが全く違和感なく同居して行動していた事が素晴らしかったです
わね。伊藤博文公の事は詳しく知らなかったけど、とても魅力的に表現されていたし、ライヘン
バッハ以降のホームズの心情が納得できる書き方をされていて、松岡氏は随分正典を読み込ま
れているんだなぁと感じましたっけ。
そして、正典由来のエピソードがアチコチに散りばめられていた事も見つける度に嬉しかった
し・・・。
マイクロフトとの関係の描き方も好きです。 ワトソンは余り登場しなかったのが残念でしたが、ワ
トソンらしさが出ていましたね。
そうそう、年齢的に言えばクルクルヘアーのシャーロックのイメージかもしれませんが、ワタクシは
ジェレミーのホームズでイメージしていましたのよ。
伊藤公との約束でコカインを止めると言ったのは、確かに正典でも「空き家の冒険」以降コカイン
は実際には止めたんじゃなかったでしたっけ? あれ?何処かでヤッテましたっけ? って、こん
な具合にいい加減です(恥)
Mistyさんのお蔭で久々に思い出させて頂きました。
忘れずに覚えていて下さって嬉しいです。
有難うございましたm(__)m