第三部 未知への挑戦(14) 再開への船出 1%のミスも許されぬ

沖合で漁を終えた船が母港を目指し、海面に幾筋もの線を引く。22日、福島県相馬市の松川浦漁港に、試験操業の漁船が次々と接岸した。「そっちはどうだ」「上々だべ」「いや、あんまりだな」。水揚げの手応えを話す漁師たちはどこか言葉少なだった。
昨年6月に始まった相馬沖の試験操業は、間もなく1年を迎える。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故が起きるまで相馬原釜地方卸売市場は多くの漁業関係者や仲買人で活気に満ちていた。今は限られた人が出入りするだけで、以前の面影はない。この日、原釜機船底曳(そこびき)船頭会長の松本浩一(58)は毛ガニやミズダコなど約170キロを水揚げした。最盛期の5分の1ほどの漁獲量だ。それでも、操業海域と魚種を限られた中では「御の字」だと感じている。松本はいつか本格的な操業が再開する日を信じ、船を出している。
■ ■
祖父、父と続く、漁師一家の3代目として相馬市原釜に生まれた。市内の中村二中を卒業した昭和45年から底曳漁船に乗った。天候や潮の流れの把握など、漁に必要なことは全て海で身に付けてきた。40年以上の漁師生活は決して順風満帆というわけではなかったが、生涯の仕事だと考えていた。
平成23年3月11日、震災の津波は原釜の自宅を押し流した。当時自宅にいた松本は家族とともに高台に逃げ、難を逃れた。翌日、長年乗り続けた底曳船「盛幸丸(せいこうまる)」(19トン)が海岸から200メートルほど離れた市内松川地区に打ち上げられているのを見つけた。大きく破損した船体を見上げ、もう2度と漁に出ることはできないと思った。
震災から1年後の24年3月。相馬双葉漁協は試験操業・試験流通検討委員会を設立し、試験操業の開始に向けた検討を始めた。一歩でも半歩でも前に進もうとしている仲間たちの姿が松本の心を奮い立たせた。盛幸丸は船底などを修理すれば再び海に出せることが分かった。松本も試験操業の実施に向けた協議に加わり、漁師や流通業者、組合関係者らと話し合いを続けた。
検討開始から半年後の24年9月、松本は初めて試験操業の漁に出た。約20の底曳船とともに相馬沖に出港し、対象魚種のミズダコとヤナギダコなどを水揚げした。魚介類からは放射性物質は検出されなかった。出荷も好調だったが、松本に高揚感はなかった。「うれしいと簡単に言えるほど楽観的な状況ではない。試験はあくまでも試験なんだよ」。漁師仲間の思いを代弁する。
■ ■
松川浦漁港はカレイやヒラメで全国有数の漁獲量を誇り、「常磐物」として信頼を築いてきた。しかし、原発事故によってブランドは崩壊した。安全な魚を獲り、消費者が安心できるような出荷態勢を敷かなければならない。
試験操業で水揚げした魚は食品基準法の1キロ当たり100ベクレルより厳しい、50ベクレル以下を流通対象として、放射性物質の検査を続けている。対象は当初3魚種から16魚種まで増え、操業海域も次第に拡大してきた。
地域の漁業を継ぐ担い手のためにも、慎重に慎重を期した漁と販売の在り方が求められていると松本は感じている。
「福島の漁師には1%のミスも許されない。常に100%の安全が求められているという自負がなければ、これまでの積み重ねが水の泡になる」。漁業者の思いに呼応するように、統計的・科学的に安全を裏付けるための研究も進んでいる。(文中敬称略)
2013/05/27 11:32 福島民報

沖合で漁を終えた船が母港を目指し、海面に幾筋もの線を引く。22日、福島県相馬市の松川浦漁港に、試験操業の漁船が次々と接岸した。「そっちはどうだ」「上々だべ」「いや、あんまりだな」。水揚げの手応えを話す漁師たちはどこか言葉少なだった。
昨年6月に始まった相馬沖の試験操業は、間もなく1年を迎える。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故が起きるまで相馬原釜地方卸売市場は多くの漁業関係者や仲買人で活気に満ちていた。今は限られた人が出入りするだけで、以前の面影はない。この日、原釜機船底曳(そこびき)船頭会長の松本浩一(58)は毛ガニやミズダコなど約170キロを水揚げした。最盛期の5分の1ほどの漁獲量だ。それでも、操業海域と魚種を限られた中では「御の字」だと感じている。松本はいつか本格的な操業が再開する日を信じ、船を出している。
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祖父、父と続く、漁師一家の3代目として相馬市原釜に生まれた。市内の中村二中を卒業した昭和45年から底曳漁船に乗った。天候や潮の流れの把握など、漁に必要なことは全て海で身に付けてきた。40年以上の漁師生活は決して順風満帆というわけではなかったが、生涯の仕事だと考えていた。
平成23年3月11日、震災の津波は原釜の自宅を押し流した。当時自宅にいた松本は家族とともに高台に逃げ、難を逃れた。翌日、長年乗り続けた底曳船「盛幸丸(せいこうまる)」(19トン)が海岸から200メートルほど離れた市内松川地区に打ち上げられているのを見つけた。大きく破損した船体を見上げ、もう2度と漁に出ることはできないと思った。
震災から1年後の24年3月。相馬双葉漁協は試験操業・試験流通検討委員会を設立し、試験操業の開始に向けた検討を始めた。一歩でも半歩でも前に進もうとしている仲間たちの姿が松本の心を奮い立たせた。盛幸丸は船底などを修理すれば再び海に出せることが分かった。松本も試験操業の実施に向けた協議に加わり、漁師や流通業者、組合関係者らと話し合いを続けた。
検討開始から半年後の24年9月、松本は初めて試験操業の漁に出た。約20の底曳船とともに相馬沖に出港し、対象魚種のミズダコとヤナギダコなどを水揚げした。魚介類からは放射性物質は検出されなかった。出荷も好調だったが、松本に高揚感はなかった。「うれしいと簡単に言えるほど楽観的な状況ではない。試験はあくまでも試験なんだよ」。漁師仲間の思いを代弁する。
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松川浦漁港はカレイやヒラメで全国有数の漁獲量を誇り、「常磐物」として信頼を築いてきた。しかし、原発事故によってブランドは崩壊した。安全な魚を獲り、消費者が安心できるような出荷態勢を敷かなければならない。
試験操業で水揚げした魚は食品基準法の1キロ当たり100ベクレルより厳しい、50ベクレル以下を流通対象として、放射性物質の検査を続けている。対象は当初3魚種から16魚種まで増え、操業海域も次第に拡大してきた。
地域の漁業を継ぐ担い手のためにも、慎重に慎重を期した漁と販売の在り方が求められていると松本は感じている。
「福島の漁師には1%のミスも許されない。常に100%の安全が求められているという自負がなければ、これまでの積み重ねが水の泡になる」。漁業者の思いに呼応するように、統計的・科学的に安全を裏付けるための研究も進んでいる。(文中敬称略)
2013/05/27 11:32 福島民報