ニョニョのひとりごと

バイリンガルで詩とコラムを綴っています

詩人の紹介③ 秦勝元さんの詩「思う存分召し上がれ」バイリンガル

2012-06-30 09:22:39 | 日記

(秦さんは1番後ろの右から4番目です。)


 「思う存分召し上がれ」

           秦 勝 元 

オモニ オソオセヨ
今日は あなたの 祭祀の日ですよ。

最近 あの言葉を 思い出します
あなたの言った あの言葉です

照り付けるような 夏の暑い日
背中いっぱいの 荷物を 背負い
鉄道は勿論 バスさえ通らぬ 
山奥の農村を 行商に歩いた時

小さなお店で お昼にと
ら アンパンを買って 食べましたね
乾いたのどに つまった パンを
裏の井戸水を貰い 流し込んで
息が詰まり 死ぬかと思ったと
笑いながら 話してましたね

牛乳飲んだら いいのにと 言う 私に
「とんでもない、もったいない」
驚いた様な大きな眼 忘れられません
そして、こう言ったのです
「この牛乳が 机になり 椅子に なるんだ」と
幼かった私には 理解できませんでした
入学式の日 真新しい机と椅子に 喜んだ時も
まだ 解りませんでした

あなたの あの牛乳が
言葉を教えてくれ
誇りを授けてくれ
生き甲斐を与えてくれたと
知った時は 既に旅立たれた後でした

オモニ
あなたの 学校は 今も 健在ですよ
あなたの 学校は これからも 健在ですよ
たくさんの子供達が育ち 羽ばたいて行きましたよ
自慢の息子は 40年勤め上げましたよ 教師として 
可愛い孫たちも 頑張ってますよ 新しい担い手として
ひ孫達の声が聞こえるでしょう
アヤ、オヨと 学ぶ声が

だから
もう、我慢しなくて 良いんですよ
牛乳でも お酒でも
思う存分 召し上がれ

今日は あなたの チェサの日ですから

*オモニ=母、オソオセヨ=いらっしゃい、チェサ=祭祀、
 アヤ、オヨ=日本語でいう、あいうえお

                                                  
 
「마음껏 드세요」

진 승 원

어머니,어서 오세요
오늘은 어머니 제사날이잖아요

요즘 그 말씀이 떠오릅니다
어머니께서 하신 그 말씀 말이예요

해볕이 따갑게 내리쬐는 무더운 여름날
등에 한가득 짐을 지고
전차는커녕 뻐스도 안다니는
산골농촌으로 행상을 다니던 때

구멍가게에서 점심 삼아
팥빵을 사드셨지요
목이 메여 빵이 넘어가질 않자
뒤켠 우물에서 물을 달라해 들이키시고는
숨막혀 죽는줄 알았다고
웃으며 말씀하셨지요

우유를 마시면 좋았을걸,하는 절 보고
“그런 소리 하지도 마라,아깝게”
놀라서 크게 뜨신 그 눈,잊을수가 없습니다
그리고는 이러셨죠
“이 우유가 책상이 되고 의자가 될거란다”
어렸던 저는 리해가 안되였습니다
입학식날 새 책상과 의자에 기뻐했을 때도
여전히 리해하지 못했습니다

어머니의 그 우유가
말을 가르쳐주고
긍지를 심어주고
삶의 보람을 안겨준것이였음을 깨달았을 때는
이미 세상을 등지신 후였습니다

어머니!
어머니의 학교는 지금도 건재합니다
어머니의 학교는 앞으로도 건재할겁니다
많은 아이들이 자라서 세상으로 날개짓 해나갔어요
자랑스러워해주시던 이 아들도 40년을 근무했답니다,교원으로서
귀여운 손자들도 잘하고있어요,새 주역으로 말입니다
증손자들 목소리도 들리시지요
“아,야,어,여”공부하는 소리가!

그러니
이젠 참지 않으셔도 괜찮아요
우유든 술이든
마음껏 드세요

오늘은 어머니의 제사날이니까요

                                             
(秦さんは一番後ろの真ん中です。この作品は昨年の東成同胞フォ-ラムの演劇内容の下地になりました。)


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②朴泰進さんの詩 「先生のひとりごと」バイリンガル

2012-06-29 22:33:28 | 日記

(一番左の男性が朴泰進さん)

「선생님의 혼자말」

박 태 진

너희들의 아들딸이
아빠 엄마라 부르면
얼마나 기쁠가

너희들의 손자 손녀가
할아버지 할머니라 부르면
얼마나 좋을가

아빠
엄마
할아버지
할머니

그거면 돼
이어나가는것, 그거면 돼


(真ん中の新郎が泰進さん)


「先生のひとりごと」

             朴 泰 進

おまえたちの子どもが
アッパ オンマと呼べば
どんなにうれしいか

おまえたちの孫が
ハラボジ ハルモニと呼べば
どんなによいことか

アッパ
オンマ
ハラボジ
ハルモニ
 
それでいい
継ぐだけで それでいい


   *アッパ オンマ 父母の幼児語
    ハラボジ ハルモニ 祖父 祖母
                          
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今日から時々在日詩人の詩を紹介します。①李芳世 「ねごと」バイリンガル

2012-06-29 09:44:13 | 日記


잠 꼬 대

리 방 세

잠꼬대 하셨어요
할머님께서 잠꼬대 하셨어요
귀뚜라미도 잠든 밤
가느다란 목소리로 
-엄마┅




     ねごと
             
李 芳 世


ねごとをいったよ
ハルモニがねごとをいったんだ
しずかなあきのよる
かぼそーい こえで
―オンマ┅って
           (本人 訳) 

                             
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写真で見る感動の日「6月22日」

2012-06-27 09:14:11 | 日記



写真で見る感動の日「6月22日」

 2012年6月22日、中野ZEROにおいて、午後6時半より「モンダンヨンピル」最終チャリティコンサートが開催されました。
 詳細についてはたくさんの方が書かれたので、私は写真の簡単な解説だけをいたします。



①会場に到着し、順番を待って席に着いてから一番先にお見かけしたのが「ウリハッキョ」というドキュメンタリー映画を作られ、今回東日本大震災の復興を願い、被災地のウリハッキョの子供たちのために「モンダンヨンピル」を立ち上げられた共同代表のおひとり、金明俊監督です。無名の時代から親交を深めてきた10年来の朋友です。



②開演前、パンフレットを購入するため入り口近くに行ったとき偶然お会いしました。「ウリハッキョ ファンカフェ」の金さんです。ソウルでの朗読会の時も裏方としてずっと活躍してくださいました。



③「ハッキョへの坂道」と「心の中の朝鮮学校」をプロデュースしてくださった安さんです。ソウルでは本当にお世話になりました。



④開演10分前の静かな舞台です。



⑤コンサートが始まりました。茨城のウリハッキョと東京のウリハッキョの学生たちの合唱ー被災地復興を願って作られた歌「花の種を植えました」と「私のチョゴリ」が会場を感動の渦に巻き込みました。最初から感激の涙が止まりませんでした。



⑥曲と曲の間に東北の卒業生が感謝の心を込めて力強くアピールしました。何回拍手のためアピールが中断されたか知れません。観客と舞台が一つに繋がりました。



⑦東京朝高の舞踊部の学生たちがプロ顔負けの素晴らしい民俗舞踊を披露しました。



⑧権海考さんの司会が始まりました。人間味溢れるトークは笑いと涙と感動を呼び起こしました。



⑨イ・ハンチョルさん―最多出場です。(7回目)



⑩世界ナンバーワンーラストフォーワンの躍動感あふれるダンス!



⑪右から、共同代表のおひとりーイ・ジサンさんと権さん、今回3回目のソン・ビョンフィさんの3人で「子供たちよ これが俺たちの学校だ」を熱唱してくれました。又涙涙です。心の中で一緒に歌いました。2000年代に入りすぐ、ホ・ナムギ先生の詩にイジサンさんが曲をつけられた経過を知っているだけに感無量でした。10年ほど前、この曲が初披露された大阪の厚生年金大ホールで彼の歌をじかに聞きました。



⑫ウリナラバンドの皆さんが学生たちと一緒に「ウリハッキョは私たちの故郷です」をうたったとき会場は最高の興奮に包まれていました。在日3世の教員がつくった歌詞にウリナラバンドのメンバーが曲をつけた歌です。日本中のウリハッキョで、今もっともうたわれている歌です。涙がどうして止まらないのでしょうか。そのごウリナラバンドは「プンムル」で打楽器を叩きながら盛り上げてくれました。学生たちや大勢の観客が舞台に上がり一緒に歌をうたい踊りました。



⑬権さんが今回のコンサート成功のため尽力してくださった、日本の市民団体の方々を紹介しメッセ-ジをいただきました。



⑭フィナーレーです。写真がずっとぼやけています。ごめんなさい。後ろの方だったので



⑮コンサート終了後朝大の李先生に偶然お会いしました。<アランサムセ>の大阪公演で河津さんと一緒にお会いして以来1か月半ぶりです。



⑯東北から来られた任さんに1年ぶりにお会いしました。昨年7月東北のウリハッキョを訪問したとき初めてお会いし、今はすっかりFB友達です。



⑰コンサートが終わり近くの会場で懇親会が開かれました。いろんな方が挨拶されました。写真は共同代表の権さんとイさんです。



⑱ニコンが中止しようとしたアン・セホンさんの従軍慰安婦の展示会を行われるように戦ってくれた、弁護士の先生からじかに報告があり会場が湧きました。



⑲席が離れていたのに、いつの間にか権さんが横に来てくれました。昨年11月27日のソウルでの朗読会で共演し初めてお会いしました。今年5月の20日城北のウリハッキョのイベントにワザワザ来てくださり再会しました。6月3日にも大阪での「統一マダン」に来てくれました。今では親子のような権さんです。



⑳再会を記念して3人で写真を撮りました。



21.メールだけでお会いしていた「モンダンヨンピル日本語版ホームページ」のユンさんと初めてお会いできました。嬉しかったです。



22.近くにいた人たちで写真を撮りました。みんな喜びにあふれていました。

*今回は写真の簡単な説明だけにします。落ち着いたら又随筆など書こうと思っています。
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昨年の夏、新報に掲載されました。随筆「故郷への道」

2012-06-26 23:24:01 | 日記

随筆
     「ふるさとへの道」
                     

「朝鮮学校無償化除外反対」を広範な日本の人々に訴えるため、「ふるさと」という詩を書いた日から一年が経った今年の夏、私は生まれ故郷、青森県平川市碇ヶ関(いかりがせき)を生後初めて訪ねた。



 63年前、身重であった私のオモニ(母)は、北海道にいるというアボジを探すため、6歳の姉と3歳の兄の手を引いて京都から列車に乗り、何回も乗り継いだ。

途中、列車の中で産気づいてしまったオモニが、やむなく碇ヶ関で下車し、あてもなくさまよっていたとき、親切に声をかけてくださった方がいた。その方が営んでいた木賃宿にたどり着いたオモニは産婆の到着を待てずに赤子を産み落とした。その赤子がまさしく私だったのだ。

6ヵ月後に北海道に渡り,行商をしていたがうまく行かず、やむなくドブロクを作ったことが「罪」になり刑に服していた父を待つ間、馬小屋で暮らした日々、父の出所後、函館に移り零下20度の浜で私をオンブしたままイカ裂きをしながら私たちを育ててくれた両親。

学校に通うことになった姉が、あまりにものいじめに耐えかねて登校を拒んだ為、東京の朝鮮学校を探して池袋に引っ越した事、空襲で片足になった祖父が京都にいるという便りを聞き一年足らずで京都に戻ったこと、坂の下の半洞窟の家で暮らしながら、祖父の引くリヤカーに乗り<ボロおまへんかー>と京都市内を回りながら生活した日々…

5歳になるまで出生届も出せず、自分の生まれた場所の住所も知らぬまま、青森から北海道、北海道から東京、東京から京都、京都から大阪へと転々と引越しを重ねてきた私たち家族にとって故郷とは一体なんであろうかといつも思っていた。

今年の3月11日、想像を絶する東日本大震災が起き、津波のため故郷を根こそぎ流されてしまった人々の痛ましい姿をニュースで見ながら、私は何かにとりつかれたように思い続けた。(行かねば、行かねば、今、生まれ故郷を探さねば必ず後悔する。)

私はインターネットで見つけた碇ヶ関総合支所に「私の生まれ故郷を探してください。碇ヶ関という村の自炊旅館だったそうです。」という手紙と、自伝史のような詩「ふるさと」をFAXで送り協力を求めた。

交信を始めてから一ヶ月が過ぎた頃、碇ヶ関支所から「お探しの木賃宿跡がついに見つかりました。隣に住んでいた方も見つかりました。着いたらすぐ支所に来てください」という夢のようなメールが送られてきた。

7月9日、東北朝鮮初中級学校での慰問コンサートを無事終えた次の日の朝、私は高速バスで弘前まで行き、奥羽線に乗り換え「碇が関」に到着した後すぐに総合支所を訪ねた。

日曜日だと言うのに支所長さんと、交信を続けていた黒滝さんが迎えてくださった。

碇ヶ関関連の書物や地図、明日の予定表、おまけに青森リンゴやジュースばかりか、生まれ故郷での夜を楽しんでくださいと70匹もの平家蛍までガラス瓶のホテルに入れて持たせてくださった。あまりにもの手厚いもてなしに言葉が出なかった。

翌朝、支所長さんと一緒に木賃宿の跡地に向かった。小高い山のふもとの閑静な場所に跡地はあった。跡地の入り口には江戸時代に山から引っ張ってきたという白沢の水場が残っていた。手を伸ばし沢の水に触れて見た。

冷たい!手のひらで水をすくい一口含んでみると、なんともいえない感慨に胸が震え優しかったオモニの笑顔が浮かんだ。



支所長さんと一緒に木賃宿があった頃から隣に住んでいたという花岡チエさんにお会いした。花岡さんは60数年前のことを一つ一つ思い起こしながら話してくださった。

 花岡さんのおかげで木賃宿の御主人の名前が外崎さんだったことも、この木賃宿が旅館代の払えない貧しい人々をいつでも迎え入れてくれた有難い自炊旅館であったことも知ることが出来た。

終戦間もないあの時代に、一目見れば朝鮮人であることが分かったであろうに見ず知らずのよそ者を暖かく迎えてくださった外崎さん。私の命の恩人、感謝してもしきれない。貴重な証言をしてくださった花岡さんの手を取り心から感謝した。



驚いたことはそればかりではなかった。木賃宿の屋号だけはどうしても探せなかったのだが、三笠食堂で食事をしていた時、御主人の阿部さんが思い出して下さったおかげで木賃宿の屋号が「大黒屋」であることまで判明したのだ。

 その後、支所長さんの案内で碇ヶ関の名所をひとつひとつ回りながら私は思った。碇ヶ関の人たちは何故こんなにも親身になってくれたのであろうか?「探せませんでした。」の一言で片付けることもできただろうに、詩「ふるさと」を読んで、同じ郷里を持つ者として他人事とは思えなかったと一緒に泣いてくださった黒滝さん。自分の事のように心配してくださった総合支所の皆さん!



碇ヶ関の人たちのおかげで無事この世に生を受けたばかりか、人生の黄昏期にまた大きな恩恵を受けてしまった私。母のように心優しい人々が住む村が私の生まれ故郷であったことが何よりも誇らしく嬉しい。

瞼を閉じれば碇ヶ関の人々が、三笠山や平川が、白沢の水場が、リンゴ畑が目に浮かぶ!紛れも無く碇ヶ関は私のもう一つのふるさと!

誰しも故郷を持つが私たちのように、異国で生まれ育った者にとって故郷とは一体どんな意味を持つのだろう。私たちの国が植民地にならなかったなら私が日本で生まれるということはありえなかったし、貧困と差別がなかったなら根無し草のように流されるままに生きることもなかったはずだ。



私は自分の生まれ故郷を探していたが決してそれは場所ではなく、私のルーツである父と母の人生そのものを知りたかったからかも知れない。二度と奪われてはならない祖国と、国を奪われた民がたどらねばならなかった人生を、後世に伝えなければならないという使命感があったからかも知れない。

ウリハッキョを守るため書いた拙い一編の詩がもたらした生まれ故郷との再会。私はこの日の感激を胸に、まだ見ぬまことの故郷を必ずや訪ね、亡き父母の霊前に花を手向けたい。そして碇ヶ関の人々のように国籍や民族を越え1人の人間として隣人を愛し朝日友好の架け橋になりたいと思う。


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