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ニョニョのひとりごと

バイリンガルで詩とコラムを綴っています

4月29日「60万回のトライ」を又鑑賞し、主人公たちのトークを聴きました。

2014-04-30 21:04:29 | イベント
 4月29日。朝から雨が降り続いています。

 孫たち3人の参観授業の日です。ユファが初級部に上がったので、ちゃんとみんなについて行けているかなぁと、心なしか心配しながら学校に向かいました。

 1時間目は算数でした。1年生の教室を中心にリファの3年、ユナの4年の教室へも行って見ました。3人とも積極的に授業に参加していたのでほっとしました。

 4歳のヒジョンはあちこちの教室の中をひたすら走り続けています。2時間目まで見る予定だったけど、これ以上ほかの方々に迷惑を掛けられないと思い、家に連れて帰りました。教育会総会が終わり、焼肉交流会が行われるので息子の家族は全員参加なので、今度は生後50日を迎えたばかりのスファを預かることになりました。

 何とか二人にお昼寝をさせて、洗濯干したり、夕食の準備をしたりしていたら、3時近くにオンマたちが帰ってきてくれたので後は任せ、十三に行くための準備をしました。

 地下鉄と阪急を乗り継いで第7芸術劇場に向かったのですが、大雨です。満席になるかなぁと心配しながら行きましたが、6時到着ですでに65人が予約表をいただき私は66番目でした。超満員です。立ち見が出るだけでは無く帰られた方々もいらっしゃいました。



 この頃かなり視力が落ちているので前から2番目の席に座りました。映画が始まりました。




 映画の内容は書かないことにしましょう。試写会の日は東成区民センターがあまりにも満員だったし、席を譲っての立ち見だったので、落ち着いて見ることができなかったので、今回が初めて見た位新鮮な感動を覚えました。

 106分で上映は終わりました。何回も笑ったり、泣いたり大忙しの106分でした。

 場所を変え、今度は出演者たちのトークが5階で行われます。



 朴サユ監督の紹介でトークが始まりました。










 一人一人舞台に上がり、4人が並びました。中級部の3年間、朝鮮語科目を教えた可愛い教え子たちです。



 中級時代も高級部時代もラグビー部の主将だったクワンテさんです。

 今は大学で副主将を務めています。責任感が強く包容力もある彼はみんなに慕われていました。映画でもそれをひしひしと感じさせます。



 ヤンイルさんです。中級部の2年生から東中に転入してきた一人です。ずっと同じ分会に住んでいました。



 ユインさんです。初級部は私の母校と同じ兵庫でした。中級部からラグビーをしたいがためソンギさんと一緒に大阪の東中にやってきました。中級部時代から冗談が大好きでいつもみんなを笑わせていたお茶目な学生でした。試合となればまるでチーターのように走り回ります。




 サンホさんです。尊敬する金ヒリョ画伯のお孫さんです。中級部時代から勉強が良くできて落ち着いていました。祖父のことを書いた作文は今も印象に残っています。




  4人が座りました。圧巻です。時の人たちです。試合に出ていた高級部時代より一回りも二回りも大きくなった気がしました。





  この映画のもう一人の監督である朴トンサさんの軽妙な司会でどんどん話は弾んで行きました。


  映画では語られなかったいろんなエピソードも聞けました。

  トークの滑らかなこと、びっくりするほどみんなお話が上手になっていました。

  中級部時代にトップになれなかったことが高級部への夢―全国制覇の夢、目標に繋がったこと、団結の秘訣等興味深い裏話も沢山聴くことができました。

  スポーツが社会を変える、その信念をオヨンギル監督から学んだようです。

  全国大会を通じて応援してくれた同胞たちに少しでも元気になっていただきたいという想いで頑張ったこと、同胞や日本の皆さんの応援が本当に力になったことなど感動的なお話があまりにも多すぎて何回も胸が熱くなりました。


  彼らは自分たちは在日朝鮮人に生まれて良かったとさえ言っておりました。

  ある対外試合で韓国からきた選手やオーストラリアからきた選手たちと共に過ごす機会があったそうですが、その時外国の選手から、どこの国から来たのかと聞かれ、日本から来たコリアンだと言ったら韓国の選手に否定され、本物ののコリアンは自分たちだと言われたことが悔しくて今も心に残っていると言っていました。

  北に行っても本国そのものでは無い違和感を覚え、自分たちは在日のコリアンとして自負心を持ち、これからも南北、日本の懸け橋になりたいと言っていました。

  南の選手たちも、日本の選手たちも、在日コリアンが何故存在するのかをあまりにも知らな過ぎるから、こんなことを言うのだと言っていました。知らせなければいけない、そのためにも韓国の全州で行われる映画祭で5月2日と4日に「60万回のトライ」が上映されることは非常に良いこと、うれしいことだと言って居ました。

  この日のチケットはインターネットで発売された5分後に完売したそうです。凄いですね。本当に誇らしいです。ウリハッキョのことを全世界に知らしめる本当に良い機会をくれたとサユ監督とトンサ監督に感謝したいと言っていました。全く同感です。

  サンホ君は自分の子供が生まれても必ずウリハッキョで学ばせたいと言っていました。幼稚園から高級部まで一貫して学んできた「一人はみんなのために、みんなは一人のために」のスローガンは唯一ウリハッキョでだけで学べるものだし、それが朝高ラグビーの強さの秘訣だと思っていると言っていました。

  その精神は朝高ラグビー部のスローガン「一つ、信頼、勝利」と重なるものだとも言っておりました。

  選手たちのお父さん方も紹介されました。














  子供たちの追っかけをしているうちにアボジ達が無二の親友になり、選手全員を我が子のように思っているというお話は感動を呼びました。





  今4人は大学の4回生です。就職先も内定したようです。

  これからもスポーツを通じて、また社会活動を通じて同胞社会に恩返しをしたいと言っていました。


  トークショウは予定より30分も延長されましたが、いつまでも彼らと一緒にいて元気のエキスを一杯いただきたいと思いましたが、次の日のスケジュールを考え、トーク終了後子供たちや監督に挨拶もできないまま会場を後にしました。一緒に写真を撮ったりサインを貰おうと大勢の方々がが並んでいたので遠慮いたしました。又きっと会おうね。希望の星たち!!





 
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4月26日、京都でのセセデセミナー(2)

2014-04-27 13:47:14 | 日記


 昨日の続きです。

 10時半丁度にセミナーが始まり12時まで1時間半喋らせていただきました。

 5分間休憩した後1時までオモニたちとお話をすることになりました。

 鄭さんの軽妙な司会で始まりました。

 京都朝中高が参観日だったため参加することができなかった方々もいらっしゃったようです。








 オモニたち全員が自己紹介をされました。皆さん幼稚班や初級部に子供さんを入れていらっしゃっていて、子育て真っ最中という感じです。

 お一方以外は皆さんウリハッキョを出られた方々です。子供さんができる前まで、もしくは最近まで教員だった方も大勢いらっしゃいました。

 愛知や滋賀、新潟、舞鶴から京都に嫁いで来られた方もいらっしゃいました。

 今日の講演通じて皆さんが感じられたことの中に一番多かった感想は、「どうしたらぶれないで生きて行けるのか」という問題でした。

 子育てに没頭しながら周りの刺激もあまりなく、テレビやインターネットを通じてのバッシングの洪水を浴びながら、知らぬ間に心が折れてしまうことが多々あると仰っていました。

 中にはオモニたちが集まったら凄い力を発揮できるはずなのに、ついついマイナス思考になり不満を述べてしまうことがある事、これからは「ウリハッキョの良いところを探そう」をテーマに会話をしたいと仰る方もいました。

 今日の講演を通じ忘れかけた初心に戻れたと仰る方もいたし、自分もそうだったはずなのに、どうしてこんなに弱くなってしまったのだろうと自身を反省する方もいらっしゃいました。

 又講演を通じ「心の柱」をしっかり持ち続けるためにはどうすれば良いのかを、模索してみると仰る方もいらっしゃいました。

  現役から少し離れて子育てに没頭されている方々の発言には、常にこれでよいのだろうかという焦りがある事、自分にできることは無いだろうか?小さなことでも自分にできることから始めてみる等々話がどんどん前向きになってきました。

  又あるオモニは舞鶴に居たときの教え子がすでに親になったけれど、近くにウリハッキョが無いため日本の学校に入れざるを得なくなった現状に対し胸を痛め、舞鶴で行われる「土曜児童教室」の御手伝いを少しでもしようと思うという素晴らしい発言もありました。 

  又自分の子供をしっかりそだてながら、自由のきくお昼の時間を利用して子供たちに対する読み聞かせなどにも取り組んでいきたいと発言される方もいらっしゃいました。

  家庭の事情でお子さんを中学から日本の学校に行かせざるを得なくなってしまった一人のオモニが、涙ぐみながら、やむなく息子を日本の学校に行かせているけれど初級部時代の同級生たちとのつながりを大事にするよう機会を作っていこうと思うと仰っていました。又キムチ販売などを手伝っているが学校が無くなる事だけは止めたいと仰っていました。

  前向きに考えれば、いくらでもできることがあることをオモニたち自身が掴まれたようです。

  集まってワイワイ楽しくだけじゃなく、もっともっといろんなことの本質を知るため勉強したいと仰るオモニもいらっしゃいました。

  今までの講演会ではいつも時間が足りなくて、講演終わってから今回のようにオモニたちの生の悩みやお声を聴く機会があまりなかったので、とても勉強になりました。

  又20数年前「ソルマジ公演」の口演組で2か月間一緒に過ごしたソンスさんが、すっかり美しい大人になって受付をしていたことが凄く嬉しかったです。彼女は発言の中でお子さんが4年生になり少年団に入団するため家で号令の練習などをしている様子を見て、自分が少年団に入団したときのことが思い出され、時代は変わっても変わらないものがあることを思い知らされたと感無量な面持ちで話していました。

  又5~6年前、大阪での「プウム」公演で共演したこともある金さんは、ご自分のオモニが63歳になった今も現役の幼稚園の先生をしておられるが、オモニの想い、オモニの苦労がやっとわかったような気がすると仰っていたのが印象的でした。







  お別れの時間が来て記念写真を撮ることになりました。

  今日の集いの子守役を担当してくれた呉さんが写真を撮ってくれました。彼女は、4年前「朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー」に作品を提供てくれた京都朝高の16人中の一人だったのです。朝鮮大学を卒業し今年の4月から専従として働いているそうです。時の流れの速さに戸惑いすら感じました。

  皆さんに挨拶をして会館を後にしました。

  ソルマジの教え子のソンスさんと30分だけの約束で喫茶店でお茶を飲みながら近況報告をしあいました。

  話の中で彼女のご主人がうちの長女の同級生、すなわち私が良く存じ上げている大先輩の長男さんのお嫁さんであることを初めて知り驚いてしまいました。世間はなんて狭いのでしょう。20数年間、年賀状を交換し、家族の写真も送ってもらっていたのにソンスさん以外に眼が行かなかったようです。30分の約束がいつの間にか一時間を過ぎていました。




  大阪に来るとき、必ず前もって連絡をする約束を取り付けて名残惜しいけど別れました。


  今回京都に行って学んだことがあまりにも多かったです。これからも若い方々の少しでも役に立てたら嬉しいなぁと思いました。

  又それが2世である私自身の務めだと思いました。

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4・26 京都の若いオモニたちと貴重な時間を共に過ごしました。(1)

2014-04-26 22:08:55 | 日記










 4月26日、家を8時20分に出ました。地下鉄、阪急電車を乗り継ぎ西院にやってきました。

 京都会館は自然に囲まれた素晴らしい環境の中にありました。まるでどこかの大使館の様でしょう?

 春の日差しがやさしく包んでくれ、庭園のつつじやポプラの若葉が青々と茂り新緑の季節の到来を告げてくれているようでした。

 中に入ると、建物は古くあちこちに亀裂が入っていましたが、京都の皆さんが大事に大事に守ってこられた我が家のような建物でした。


 講演会の会場に入ってみると、勿体ないほど素敵な名称が貼られていてとても恐縮しました。


 今日、私がこの会館を訪ねたのは、セセデ(新世代)セミナーの講演を依頼されたからでした。

 3月の13日に担当者の鄭さんから初めてのお電話をいただき、4月の初めには鄭さんとじかにお会いしました。

 長い教員生活の経験からウリハッキョの素晴らしさについて語っていただきたいという依頼でしたが、現役を離れ4年も過ぎていたし、理論的にどうこう言える水準もないし、だんだん心細くなってきて鄭さんに逆にお聞きしたわけです。いったい何が聞きたくて私のようなお婆さんを指名したのかと・・・

 鄭さんが人生の体験談を気軽にはなしてくれれば良いと仰ったので、その方向で原稿を作成し前もって読んでいただくことになりました。


 何日も色々考えましたが、ウリハッキョの素晴らしさを語るためには自分の人生をすべて語るしかないと確信した私は次のような順に話すことにし原稿をまとめました。

 タイトル「ウリマル・ウリハッキョはとても素晴らしい!」としました。

 1.私がここに来た理由

  (退職後の夢が自分の人生に関わりのあった場所を訪ね、その地域の方々とウリマルの勉強を共にし語りあうことだったこと。

   青森―北海道―東京を経て京都に引っ越し、ハラボジと一緒に住みながら学び過ごした京都がとても大切な思い出の場所であったこと)

 2.学生時代、歌舞団活動をしていたときのお話

  (主には高級部時代、夏休みに行った夏季学校での指導を通じ教員になりたいという夢を持った話、2,3年の時文宣隊の活動を通じウリマルの重要性を深く感じた話、それがのちに歌舞団活動の原点になったこと、歌舞団に入団し同胞たちの愛校心に心を打たれ1968年生まれて初めて詩を書いた話しなど)


 3、教員になった動機。

   (末息子の介護を通じ学んだこと、家庭を守るためにはオンマがまず元気に前向きに生きていかねばならないと決心したことなど)

 4.子育てをしながらウリハッキョに対し感じた感謝の気持ち。(具体例2つ)


 5.教員時代に対内外の方々から聞いたウリハッキョの素晴らしさについて(実例紹介)

 6.交通事故にあった日に考えたこと、ソルマジ公演になぜ行くようになったのか、人生において家族、同胞、学校、友人がどれほど大切なものなのかを感じた話。


 7.「第21回韓国演劇祭」に参加した時体験した話(ウリハッキョで学んだウリマルがどれほど大切なものだったかという話)

*結び








  10時半から12時までお話をさせていただきました。その後1時間、オモニたちの自己紹介やいろんな感想や悩み、思い、これからのことなどをお聞きしました。その内容は明日に続きます。お休みなさい。)

  

 
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故 余日花先生のご冥福を心よりお祈りいたします。 詩「赤チョゴリの先生」

2014-04-24 15:38:47 | 詩・コラム
 4・24教育闘争の生き証人であられる余日花先生が、4・24の前日、午後10時45分ごろお亡くなりになられたそうです。

 先生のご冥福を心からお祈りし、1996年3月退職された日に先生に贈らせていただいた詩を再掲いたします。






  「赤チョゴリの先生」
              

50年前 解放の喜びで沸き立った運動会の日
生まれて初めて赤チョゴリを身にまとった貴女は
運動場の真ん中で 疾風の如く走り
人々を驚かせました

アボジの顔も知らない 遺復女 娘1人を
愛之重之育ててくださったオモニとハルモニが
生絹をゆがき 真っ赤に染めて
夜を明かし縫って下さったチョゴリなんです

その日からいつしか過ぎ去った50年の歳月
貴女は今日も変わりなく
あの日の あの 赤チョゴリを
心の中にまとって歩いておられます

1946年4月 教壇に初めて立った日
足は震え 言葉はどもり
何度も折れてしまった真っ白なチョークが
今日もありありと目に浮かぶと仰る 先生

ひとつのコッペパンを 分け合って食べながら
冷たい風が入り込む教室で
ア、ヤ、オ、ヨ 教えるとき
キラキラ輝いていた瞳が力をくれたそうです

神聖な私たちの学び舎を守ろうと
弾圧者たちに立ち向かい闘った日々にも
鉄格子の中で送り迎えた試練の日々にも
先生は赤チョゴリを脱ぎませんでした

一生涯を専従として捧げられた御主人と共に
民族愛の道一筋を歩んでこられた道程で
ひどい風が吹き荒れたことでしょう
冷たい雨が降りしきったことでしょう

畳 九枚の ふた間だけの部屋で
3代家族が手足も伸ばせず暮らしながらも
息子に娘 4人の子供を 立派に育て
代を担うように導かれた先生

ミルクも買えなくて
子供たちを重湯で育てながらも
いったい何が最後まで貴女を
教壇に立たせたのでしょう

私たちは忘れることができません
勤続30年の年に祖国を訪問されたとき
夢にもお会いしたかった主席の懐に抱かれ
子供のように泣きじゃくられた先生の真心を!

「功勲教員」の栄誉を受けられた日
主席の恩恵を受け 誠の人生を探し
祖国のお陰で教育者に育った自分が
過分な勲章を頂いたと胸詰まらせた先生

人より仕事が少ないことを
誰よりも寂しがり
人よりたくさん働いて初めて
やっと胸を撫で下ろされた先生

若い先生たちにひけを取るものかと
風をかきわけ自転車をこいでおられた姿
顔のしわも教壇に立てばパァッと延び
珠玉のような筆致は まさに我らの誇りでした

あるときは母のように優しく抱いてくださり
あるときは父のように厳格に叱ってくださり
あるときは学生たちと気さくに交わり
競って上り下りされたあの階段

先生の情熱にあふれた授業と
骨折り作られた数知れない教材は
民族愛の種になり
後代の心の中に花を咲かせることでしょう

民族教育50年の歴史と共に
祖国の未来を背負っていく
21世紀の主人たちを育てる道に
一生を捧げられた先生

50年前 先生が初めて身にまとわれた
赤い そのチョゴリは
民族愛一筋を変わりなく歩んでこられた
もえたぎる 先生の心です
もえたぎる 先生の誓いです

(1996年3月退職の日に,2012・2.12 訳)

* 尊敬する余日花先生に



    「빨간 저고리 선생님」
            
              

쉰해전 해방의 기쁨으로 들끓던 운동회날
난생처음 빨간 저고리 입은 그대는
운동장 한복판을 질풍같이 달려
사람들을 놀라게 하였습니다

아버지의 얼굴도 모른 유복녀 딸 하나를
애지중지 키워주신 어머님과 할머님께서
생명주를 삶아 빨간 물을 들여
밤새워 지워주신 저고리랍니다

그때로부터 어느덧 흘러간 50년세월
그대는 오늘도 변함없이
그날의 그 빨간 저고리를 
마음속에 입고 걸어가십니다

1946년 4월 교단에 처음 선 날
발은 떨리고 말은 더듬거려
자꾸만 꺾어지던 새하얀 백묵이
오늘도 눈앞에 삼삼하다는 선생님

한개의 곱빼빵을 나누어먹으며
찬바람 스며드는 교실에서
아,야,어,여 배워줄 때면
반짝반짝 빛나는 눈동자가 힘을 주었답니다

신성한 우리의 배움터를 지키려고
원쑤들을 맞받아 싸우던 나날에도
철창속에서 맞고보낸 시련의 나날에도
선생님은 빨간 저고리를 벗지 않으셨습니다

한생을 전임으로 바치신 남편과 함께
애국의 한길을 걸어오실제
칼바람인들 불지 않았습니까
찬비인들 맞지 않았습니까

다다미 아홉장의 두칸방에서
3대가족이 다리 한번 못편채 살면서도
아들딸 네남매를 어엿하게 키워
애국의 대를 잇게 하신 선생님

미르크도 살수 없어 
아들딸을 미음으로 키우면서도
그 무엇이 끝내 그대에게 
교단을 지켜내게 하였습니까

우리는 잊지 못합니다
근속 30년상의 영예로 조국을 찾으셨을 때
꿈결에도 뵙고싶던 주석님의 품에 안겨
어린애마냥 흐느껴 울던 선생님의 진정을!

<공훈교원>의 영예 안으신 날
주석님의 은덕으로 참된 삶을 찾고
주석님의 덕분으로 교육일군으로 자란 몸이
너무나도 큰 훈장 받았다고 목메이시던 선생님

남보다 일을 적게 맡는것을 
누구보다 섭섭히 여기시고 
남보다 많이 일을 해야 
겨우 마음 놓으시던 선생님

젊은 교원들에게 뒤질세라 
바람을 헤치고 자전거를 몰던 모습
주름잡힌 얼굴도 교단에 서면 활짝!
주옥같은 글씨는 정녕 우리의 자랑이였습니다

때로는 어머니처럼 살뜰히 안아주시고
때로는 아버지처럼 엄하게 꾸중하시고
때로는 학생들과 허물없이 어울려
경쟁하여 오르내리던 그 계단을

선생님의 정열에 넘친 수업과
로고가 깃든 수많은 교편물들은
애국의 씨앗되여
후대들의 가슴속에 꽃으로 피여날것입니다

민족교육 반백년의 력사와 더불어
조국의 미래를 짊어지고나갈
21세기의 주인들을 키우는 길에서
한평생을 다 바쳐오신 선생님

쉰해전 선생님이 처음 입으신 
빨간 그 저고리는
애국의 한길을 변함없이 걸어오신
붉고붉은 선생님의 마음입니다
붉고붉은 신념의 맹세입니다

(1996년3월 퇴직하시는 날에)

*존경하는 여일화선생님께 드립니다.

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コラム 「4・24の歌」を聴くたびに

2014-04-23 22:40:24 | 詩・コラム
「4・24の歌」を聴くたびに






                       
 明日「4・24阪神教育闘争」の日から66年になります。

 「4・24の歌」を聴くたび思い出すのは初級部時代です。初級部時代にこの歌を初めて習いました。

 「4・24」教育闘争が行われたその年に、青森の片田舎で生まれた私は、北海道、東京、京都、大阪と転々と引っ越しを繰り返したため、幼いころの楽しかった思い出がほとんどありません。

 大阪に引っ越した年に学齢期に達した私は、兄や姉と一緒に家から一番近かった尼崎市立園田小学校分校(のちの園田朝鮮初級学校)に1955年4月に入学いたしました。

 園田朝鮮初級学校は1945年9月小中島国語講習所から出発し、その翌年の2月8日に園田初等学院に改名、阪神教育闘争が行われた翌年の1949年10月には強制的に閉鎖させられましたが、1953年に復校いたしました。

 その2年後に私は園田のウリハッキョに足を踏み入れたのですが、名の通り日本の小学校の分校だったので、先生も日本の先生と朝鮮の先生が半々で、担任の先生もお二人でしたが、ウリハッキョでの思い出は楽しいものばかりです。

 園田のウリハッキョはとても穏やかな場所にありました。

 阪急園田の駅から15分ほど歩いて行くのですが、住宅の立ち並ぶ道を通り過ぎると土手が現れます。遠くには六甲山が見え、藻川が悠々と流れています。鉄橋を渡り左に曲がると神崎川に向かう土手道に繋がりますが、私の学校は土手の下にありました。

 土手で寝転んだり、スイスイという雑草を口にしたり、ヨモギを採って家に持ち帰ったりもしました。学校の周りには朝鮮があり、いつもキムチの匂いが漂い、同胞たちの笑い声や喧嘩している声などが聞こえていました。

 運動場が狭くて、運動会は近くのお寺の大きなグランドをお借りして行っていました。学芸会は本校の講堂を借りて行っていました。
 雨が降れば教室のあちこちにバケツを置きます。でも学校が楽しくて楽しくて、嫌な思い出なんて一つもありません。先生方も優しくてウリマルがとても上手で、野生の猿のように天真爛漫な初級時代をこの地で過ごしました。

 3年生の時に祖国から初めて教育援助費が送られてきました。5年生の夏、キャンプが行われた阪神初級近くの香枦園の海で泳いでいるとき、祖国への帰国のための調印がジャカルタで行われたというニュースが入り、浜に上がって一晩中キャンプファイヤーを灯し歌い踊り明かしたことなど、感動したお話は数えきれません。

 いつだったかは覚えていませんが「4・24」のお話を初めて聞いたのも「4・24の歌」を習ったのも園田でした。その日の衝撃はこの歳になってもしっかりと胸に刻まれています。金太一という少年の名と共に!

 私の母校―園田は、1966年、私が高級部2年生になった年に自主学校にやっとなりましたが、それから20年後、立花初級と統合され尼崎東初級になり、2008年にはその学校も尼崎朝鮮初中級学校に統合されてしまい園田という名前は消えてしまいましたが、園田のウリハッキョで培った民族愛は心の柱となり今日まで私を支えてくれました。

 ウリハッキョはまさに心のふるさとになりました。





 「4・24」を迎えながらいろんなことを考えています。今の時代がなんと66年前のあの頃と似ているだろうかと。

 毎週,大阪府庁前で「民族教育の権利」を守り、無償化実現のため、助成金の交付再開のため要請行動を行っていますが、なんら進展されたものはありません、

 しかしこの運動の中で日朝の連帯は深まり、ウリハッキョを守るため命を懸けた先達たちの魂が自分の心にも乗り移っていることをひしひしと感じています。

 諦めは敗北です。

 民族教育は生命のように大事な宝物です。

 金太一青年が戦った大阪府警、大阪府庁前で最後まで戦い抜くことを誓います。

 5月13日「火曜日行動」100回目の日を迎えます。



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